1.
一般に「現代の精神的
状況における自我の問題」
云々という場合、そこにはあるべき「自我」についての
了解がすでにあり、それが
歪められ、しかも今日では失われているという見地が前提に
含まれている。しかしそうして
歪みや
喪失を、かりにわれわれが日本人とその社会について
倫理的に
糾弾してもあまり有意味ではないだろう。なぜならもともと「自我」
概念そのものが、すぐれて近代
哲学の産物であり、その
哲学とはソクラテスや、ルターや、フランス革命などを経てきた西洋の伝統だからである。
2. またそれだけに、「自我の
形骸化」は西洋人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆」をキーワードとしたヤスパースの
状況判断なども、単に
冷徹な時代
分析というようなものではなく、あるべき「自我」の
喪失への危機感に裏打ちされた切実なものであった。だとすれば、そうした思想伝統を持たない日本人の場合に、「自我」の「
喪失」
云々を言うことは本来できないはずであろう。
3. ただ、「自我」
概念が輸入された明治期には、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な自我という観念は、単なる
浪漫主義に
尽きるものではなく、それにはそれなりのリアリティーがあった。旧来の
封建制度や、その因習から生じるさまざまな
抑圧に対する
反抗を通じて「自我」が強調されたからである。すなわち、
克服されるべき過去の遺物への「反」として強調された。だが、今日のわれわれの社会ではそうした
抑圧も因習も多くは姿を消し、形だけが受容された「自我」
概念も、それに
伴い中身は急速に
曖昧かつ
稀薄になってきている。そう感じるのは私だけであろうか。
4. 西洋近代の
啓蒙思想、科学、民主主義等を受容した後の、とくに戦後の日本で教育されたわれわれは、「自我」を確立すべきだとか、他人も自分と同じようにそれぞれの自我を持っているに
違いないと容易に信じてしまう。学校教育の場でも「主体性のある人間」が目標に
掲げられる。「自らの意志で考え、行動を
選択し、決定す∵る」生き方こそ、あるべき「自我」の姿だとされる。そこから自由と責任の表裏一体化が強く
示唆される。
5. だがそうしようとすると、われわれは現実の社会や人間関係のなかでそのつど
挫折し、
当惑してしまう。連続的でもなく主体的でもなく合理的でもないような自我たちが
一般的なのであり、そしてまた自分もその一人だからである。
6. そもそも通常の生活では、「自らの意志で考え、行動を
選択し、決定する」ような場面は実際のところかなり
稀ではないだろうか。多くの
選択や決定は周囲の個々の
状況のなかで、異なった要因の複雑なからみあいの結果として生じるからだ。
7. しかしわれわれは他方では、自我の同一性や主体性を自分にも他人にも要求してやまない。
信頼していた人がもし従来の言動を急に変えると、われわれは多少とも
当惑する。喜ぶ人はまずいない。あげくは裏切られたと
憤慨するかもしれない。それは、自我は西洋の「実体」
概念のように、持続的、同一的なものであるという、ほとんど
信仰にも近い前提が、われわれの日常の意識にすでに
染み込んでいるからだ。かりに
環境や性質がある程度変化しても、人格はいちいち変わらないだろうと予想する。こうして人格の不変は
倫理的に賞賛されるべき
事柄であるのに対し、人格の変化は
倫理的に悪であるかのように非難される。(中略)
8. そこで、いっそ前提を
転換して、むしろ、西洋でいわれるような意味での不変の「自我」など、少なくとも日本人の社会では
誰も始めから持っていなかったし、持つと期待してもならない、と考えることはできないだろうか。「主体」的自我という
啓蒙の
信仰を止めたほうが、われわれは誤解や絶望に
陥らず、したがって無用の
摩擦や
疲労を起こさずに済むのではないだろうか。
9.(
酒井潔『自我の
哲学史』による)