長文集  7月4週  ○一般に「現代の精神的状況における  wapi-07-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:54:16
 一般に「現代の精神的状況における自我の
問題」云々という場 合、そこにはあるべき
「自我」についての了解がすでにあり、それ
が歪められ、しかも今日では失われていると
いう見地が前提に含まれている。しかしそう
して歪みや喪失を、かりにわれわれが日本人
とその社会について倫理的に糾弾してもあま
り有意味ではないだろう。なぜならもともと
「自我」概念そのものが、すぐれて近代哲学
の産物であり、その哲学とはソクラテスや、
ルターや、フランス革命などを経てきた西洋
の伝統だからである。
 またそれだけに、「自我の形骸化」は西洋
人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆
」をキーワードとしたヤスパースの状況判断
なども、単に冷徹な時代分析というようなも
のではなく、あるべき「自我」の喪失への危
機感に裏打ちされた切実なものであった。だ
とすれば、そうした思想伝統を持たない日本
人の場合に、「自我」の「喪失」云々を言う
ことは本来できないはずであろう。
 ただ、「自我」概念が輸入された明治期に
は、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な
自我という観念は、単なる浪漫主義に尽きる
ものではなく、それにはそれなりのリアリテ
ィーがあった。旧来の封建制度や、その因習
から生じるさまざまな抑圧に対する反抗を通
じて「自我」が強調されたからである。すな
わち、克服されるべき過去の遺物への「反」
として強調された。だが、今日のわれわれの
社会ではそうした抑圧も因習も多くは姿を消
し、形だけが受容された「自我」概念も、そ
れに伴い中身は急速に曖昧かつ稀薄になって
きている。そう感じるのは私だけであろうか

 西洋近代の啓蒙思想、科学、民主主義等を
受容した後の、とくに戦後の日本で教育され
たわれわれは、「自我」を確立すべきだと 
か、他人も自分と同じようにそれぞれの自我
を持っているに違いないと容易に信じてしま
う。学校教育の場でも「主体性のある人間」
が目標に掲げられる。「自らの意志で考え、
行動を選択し、決定す∵る」生き方こそ、あ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
るべき「自我」の姿だとされる。そこから自
由と責任の表裏一体化が強く示唆される。
 だがそうしようとすると、われわれは現実
の社会や人間関係のなかでそのつど挫折し、
当惑してしまう。連続的でもなく主体的でも
なく合理的でもないような自我たちが一般的
なのであり、そしてまた自分もその一人だか
らである。
 そもそも通常の生活では、「自らの意志で
考え、行動を選択し、決定する」ような場面
は実際のところかなり稀ではないだろうか。
多くの選択や決定は周囲の個々の状況のなか
で、異なった要因の複雑なからみあいの結果
として生じるからだ。
 しかしわれわれは他方では、自我の同一性
や主体性を自分にも他人にも要求してやまな
い。信頼していた人がもし従来の言動を急に
変えると、われわれは多少とも当惑する。喜
ぶ人はまずいない。あげくは裏切られたと憤
慨するかもしれない。それは、自我は西洋の
「実体」概念のように、持続的、同一的なも
のであるという、ほとんど信仰にも近い前提
が、われわれの日常の意識にすでに染み込ん
でいるからだ。かりに環境や性質がある程度
変化しても、人格はいちいち変わらないだろ
うと予想する。こうして人格の不変は倫理的
に賞賛されるべき事柄であるのに対し、人格
の変化は倫理的に悪であるかのように非難さ
れる。(中略)
 そこで、いっそ前提を転換して、むしろ、
西洋でいわれるような意味での不変の「自我
」など、少なくとも日本人の社会では誰も始
めから持っていなかったし、持つと期待して
もならない、と考えることはできないだろう
か。「主体」的自我という啓蒙の信仰を止め
たほうが、われわれは誤解や絶望に陥らず、
したがって無用の摩擦や疲労を起こさずに済
むのではないだろうか。

(酒井潔『自我の哲学史』による)