ピラカンサ の山 7 月 2 週 (5)
★最近のいじめの例では(感)   池新  
 【1】最近のいじめの例では、先輩後輩関係の中ではいじめが発生していないという点が特徴的であるように思われる。上級生が下級生をいじめるというケースがほとんどない。【2】実際に子どもの付き合いの範囲が、兄弟姉妹という世代間関係ではなくて同一の学年に集中してきている。子どもの大半が「ひとりっこ」で、世代間関係の付き合いのしかたが子どもの文化のなかで育っていないように見える。
 【3】私がいじめられたときには先輩が守ってくれた。先輩からいじめられることもあったが、さすがに手加減してくる。つまり、先輩後輩関係は、それもいじめの発生原因ではあるが、「管理されたいじめ」という特徴をもちやすい。【4】兄姉は家庭のなかでも、弟妹に対して保護しながら利用するという関係をつくる。この世代間関係が、「管理されたいじめ」という関係を生み出していた。それが現在、ひとりっこ化で失われてしまった。
 【5】いじめに対する対策として、子どものなかに世代間関係を育てることは試みられてよいと思う。年長者が、年少者を保護したり指導したりするというタイプの経験が、今の子どもにはなさすぎる。【6】具体的な役割の決まった行動が不足しているので、子どもはいじめる人、いじめられる人という役割をつくり出してしまう。
 学校では、先生という頂点をもとに各人が機械的に平均的な態度をとるようにつねに圧力が働いている。【7】成績の良い子、身体の強い子などの差異は、極力、控えめにしか表現されないように仕向けられている。子どもには、自分が何であるのかの確認ができないという漠然とした不安がある。【8】自分というものを発揮しようとすれば、成績を上げるよりほかにはない。学校のなかでの評価価値基準が、あまりにも単純化してしまっている。
 【9】差異を示すこと、攻撃性を示すことは、学校のなかではなるべく回避される傾向にある。たとえば運動会では、昔は花形だった騎馬戦がなくなった。1、馬になる生徒と乗り手になる生徒が差別される。2、危険があって事故の場合の責任がとれない。【0】3、子どもに攻撃性を身に付けさせる必要はない。このような現代の学校を支配する差別排除の文化の中で失われたのは、次のような要素で∵ある。1、上下、強弱、男女、大小、長幼などの違いに応じた役割分担で共同の目的を達成する。2、危険について自己責任の範囲を明確にする。3、攻撃性の管理された発揮の方法を教える。
 現在、学校で教えていることは、攻撃性を発揮してはいけないという口先だけのタテマエである。競争心を煽ることもいけないとされている。しかし、実際には、できる子どもとできない子どもがいる。この違いを学校は隠そうとするが、隠しきれない。(中略)
 子どもに競争に勝つことによる優越感を経験させるほうがいじめ減らしになる。ただし、その競争の種目が一つではいけない。一つしか種目がないとビリの子どもは永遠にビリである。複数の種目があって、数学でトップでもカラオケでビリ、短距離走でトップでも習字でビリというような複合的な組み合わせで競争すべきである。子どもは自分が勝てる種目を選んで自分の優越感を満たそうとするだろう。これが個性の発揮である。
 現在の学校は受験競争という種目しか提供していないし、それもタテマエ上、子どもの競争心を煽ってはいけないという欺瞞的な平等主義が支配している。
 他者危害の原則は、「競争に勝ってよい」ということを含んでいる。自由競争の禁止ではなくて、自由競争の条件の公平を保証することが倫理的な条件である。競争するということは、心理的には攻撃性の発揮であるが、相手にチャンスの平等を保証する限りで、倫理的な他者危害ではない。フェアプレーの精神を高めて、競争させることは、いじめ対策の大事な点であるが、現在の教育者の多くは「競争をさせないこと」がいじめ対策だと誤解している。基本は「他者危害の原則」である。この原則を学校で教えられる体制になっていないということが、最大の問題点である。

(加藤尚武「現代を読み解く倫理学――応用倫理学のすすめ2」より)