a 長文 4.1週 wa
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 緑の豊かな草原に、シカやウサギと一緒いっしょに人間が穏やかおだ  にたたずんでいる。空には小鳥が飛び交い、日は暖かく周囲を照らしている。何かのパンフレットで見た天国の光景は、このようなものだった。そのとき、私はふと天国というのは意外に退屈たいくつなところかもしれないと思った。私たちの描くえが 未来の社会は、何の矛盾むじゅんもない平和な世の中ではない。もっと溌剌はつらつと、生きるエネルギーに溢れあふ たものであるべきだ。それを、私は自由な自己実現の可能な社会と呼びたいと思う。
 個人が自由に自己実現を図るための条件として、戦争や暴力のない平和な社会はもちろん必要だ。だが、ここでは、最も重要な条件として二つのことを挙げたい。その第一は、豊かさだ。これまでの社会の豊かさは、主に奪ううば 豊かさから成り立っていたように思う。安く仕入れて高く売るという考え方に基づいた豊かさは、より安く仕入れ、より高く売るために、ライバルを落とすという考えにも結びついていた。競争によって社会は豊かになるという考えに、私たちは長い間慣らされてきた。しかし、自然界に見られる豊かさはこれとは反対のものだ。それは、いわば、それぞれの生き物が個性を生かして作り出した豊かさを分かち合うということで成り立っている。人間社会も、この分かち合う豊かさの仕組みを生かすことができるはずだ。
 個人が自由な自己実現を図るための条件の第二は、自分自身の目標を見つけるための教育だ。これまでの教育は、言わば与えあた られた一本道で序列をつけるための教育だった。そこで優先されたのは、個人の目標よりも、社会の目標に合わせることだった。学びたいものよりも、学ぶべきものが優先される教育では、学ぶ意欲はわきにくい。しかも、その学ぶべきものの多くは、何かの役に立つというよりも点数をつけるために役に立つということで学ばされてきたのではないか。これからの社会では、一人ひとりが各人の適性にあった教育を自ら選ぶことができるようになる必要がある。それは、もちろん適性の差が格差に結びつかない社会を前提にしている。
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 「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人」という言葉がある。社会は、さまざまな人の分業によって成り立っている。その分業が社会の豊かさに結びつくためには、カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人それぞれが自分の希望でその仕事につくと同時に、それぞれの仕事に待遇たいぐう面での格差がないことが必要だ。これからの社会では、個人の幸福は社会全体の幸福を抜きぬ にしてはありえない。自由な情報社会では、すべての人が納得する仕組みでなければ、安定した社会は作れないからだ。未来の社会は、天国のような外見の穏やかおだ  さの中にあるのではない。社会を構成する一人ひとりが生きがいを持って生きることの中にある。天国を作り出すのは、シカやウサギも含めふく たすべての構成員の日々の生き生きとした生活なのだ。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 4.1週 waのつづき
 田中美知太郎みちたろうさんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは書物というものをはっきり軽蔑けいべつしていたそうです。かれの考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いえが た馬の様に、いつも同じ顔をして黙っだま ている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿ばか者どもは、生齧りかじ の知識を振りふ 廻しまわ て得意にもなるのである。プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学てつがく者には、もっと大きな仕事がある。人生の大事とは、物事を辛抱強くしんぼうづよ 吟味ぎんみする人が、生活のうらに、忽然とこつぜん 悟るさと ていのものであるから、たやすく言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、かれは、その信ずべき書簡で言っているそうです。従ってかれによれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って互いにたが  全人格を賭しと て問答をするという事が、真智しんちを得る道だったのです。そういう次第であってみれば、今日残っているかれの全集は、かれの余技だったという事になる。かれのアカデミアに於けお る本当の仕事は、みな消えてなくなってしまったという事になる。そこで、プラトン研究者の立場というものは、甚だはなは みょうな事になる、と田中氏は言うのです。プラトンは、書物で本心を明かさなかったのだから、かれ自ら哲学てつがくの第一義と考えていたものを、かれがどうでもいいと思っていたかれの著作の片言隻句せっくからスパイしなければならぬ事情にあると言うのです。今日の哲学てつがく者達は、哲学てつがくの第一義を書物によって現し(ママ)、スパイの来るのを待っている。プラトンは、書物は生きた人間のかげに過ぎないと考えていたが、今日の著作者達は、かげの工夫に生活を賭しと ている。習慣は変って来る。ただ、人生の大事には汲みく 尽せつく ないものがあるという事だけが変らないのかも知れませぬ。
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 文学者は、みな口語体でものを書く様になったので、書く事と喋るしゃべ 事との区別が曖昧あいまいになったが、曖昧あいまいになっただけです。両者が歩み寄って来た様に思うのも外見に過ぎない。あれが文学で、あれが文章なら、自分にも書けそうだという人が増えた、文学を志望する事がやさしくなった、それだけの話で、とるに足らぬ事だ。それよりもよく考えてみると、実は、文学者にとって喋るしゃべ 事と書く事とが、今日の様に離れ離れはな ばな になってしまった事はないという事実に注意すべきだと思います。昔、歌われるため、語られるための台本だった書物は、印刷され定価がつけられて、世間にばらまかれれば、これを書いた人間ももうどうしようもないという事になりました。今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と離しはな ては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。昔は、名文と言えば朗々誦すしょう べきものだったが、印刷の進歩は、文章からリズムを奪いうば 、文章は沈黙ちんもくしてしまったと言えましょう。散文が詩を逃れるのが  と、詩もまた散文に近づいて来た。今日、電車の中で、岩波文庫版で金槐集きんかいしゅうを読む人の、考えながら感じている詩と、愛人の声は勿論もちろんその筆跡ひっせきまで感じて、喜び或いはある  悲しむ昔の人の詩とはなんという違いちが でしょう。散文は、人の感覚に直接訴えるうった  場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。この言わば肉体を放棄ほうきした精神の自由が、甚だはなは 不安定なものである事は、散文が、自分を強制する事も、読者を強制する事も、自ら進んで捨てた以上仕方がない事でしょう。いい散文は、決して人の弱味につけ込み  こ はしないし、人をわせもしない。読者は覚めていれば覚めている程いいと言うでしょう。優れた散文に、もし感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います。

 (小林秀雄ひでお『考えるヒント』)
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a 長文 4.2週 wa
 ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止として起こる。ところが脳が先に機能停止におちいることがある。この場合、中枢ちゅうすう神経をまとめる脳の死によって全身もやがて死ぬことになるが、人工呼吸器の力でしばらくの間は(そして現在ではかなり長期にわたって)脳死状態の身体を「生かして」おくことができる。つまり死を抑止よくしするテクノロジーの介入かいにゅうによって、生を手放しながらなお死を中断された、ある種の中間的身体が作り出されるのである。
 脳死が心臓死と決定的に違うちが のは、死が全身に及ぶおよ プロセスやそのタイムラグのためでなく、このきわめて現代的な上に述べた「中間的身体」を生み出すからである。脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格としての発現をいっさい欠いて、いわばだれでもない身体として横たわっている。(中略)
 脳死をめぐる現在の論議の中で問われているのは、実は脳死と心臓死といずれが厳密な意味で「人の死」かということではない。それは向こうから訪れる死を「みなしの死」と置き換えるお か  ということなのだ。
 移植治療ちりょうにとっては、訪れる死を確認していたのでは遅いおそ のだ。そこで脳死を人の死とみなし、その段階で身体を人格性の拘束こうそくから解放することにする。それでなければせっかく死を抑止よくししても、いずれ死にすべてを引き渡すひ わた ことになってしまう。だが、この「みなしの死」(「みなし法人」というときのように)によって、「だれでもない身体」はもはや「人ではない身体」となり、脳死身体の「資材」化への道が開けることになる。言ってみればそれは、役立たない自明の死を、人間の利益にそくして人間が規定する「役立つ死」へと転化することである。
 人間は、これまでありのままの世界を否定し、それを人間にとっての世界へと転化して、自己の可能性の領域を拡張してきた。その人間にとっても、死だけは最近まで、無意味な喪失そうしつであり続けてきた。だがテクノロジーは死を壁際かべぎわまで追いつめ、ついにその領分から生に回収しうる部分を取り戻すと もど にいたった。この「みなしの死」によって、今や死は新しい「資材」を分泌ぶんぴつする生産的な死、人
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間自身の規定する「人間的な死」となった……文明の武勲ぶくん詩はこの死の征服せいふくをそんなふうに語るのかもしれない。
 だが、この論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。医療いりょうのテクノロジーがもたらしたのは、「人ではない身体」とか、人体の「資材」化とかいう、人間のまったく「非人間的」な可能性なのだ。核兵器かくへいきや遺伝子工学が象徴しょうちょうするように、現代のテクノロジーはもはや人間の道具におさまる範囲はんい超えこ て進んでいる。そこでは人間に「役立つ」はずのことが、人間を「非人間化」するようにさえ働くことになる。人間はテクノロジーの主人ではなく、テクノロジーが変えてゆく世界の中で、いつのまにか自分もいっしょに変えられているのだ。だから、人間はこの「不気味」な状況じょうきょう欺瞞ぎまんなしに受けとめ、そこに身を開きながらありうべき関係を探ってゆくほかはない。それが「非人間化」する世界の中で、唯一ゆいいつ保ちうる「人間的」態度だと言えるだろう。
 あの身体には、もはやそれを「私だ」と主張する人はいない。では、それは「人」ではないのか? ここで本当に問われているのはそのことである。実はその種の問いを人間はすでに発したことがある。世界戦争に象徴しょうちょうされる今世紀の人間の、栄光と同じように悲惨ひさんだった体験は、征服せいふくのテクノロジーの中で非人格化した身体的存在を、「それでも人だ」と言うことから出発する実存の思想を鍛えきた てきた。それがこの問題に大きな示唆しさ与えあた ている。
 移植治療ちりょうによって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。それに、移植される臓器は「生きて」いなければ役に立たない。その「生きている」身体から、それでも臓器の摘出てきしゅつが許されるのは、なかば死に委ねられたこの臓器も、他者の身体に引き取られてしか生きえないからである。つまり死ぬべき臓器は他者において復活するのだ。一方それを引き受けた他者も、委ねられた臓器をけっして自分のものとして同化するわけではない。その人の身体は免疫めんえき抑制よくせいざいによって自己の固有性を弱めながら、他者の臓器を受け入れているのだ。そのようなリレーのうちに身体的生命はそれ自身の論理を貫いつらぬ ており、部分身体の受容と復活をとおして、不老長寿ちょうじゅとは別の「不死性」のきらめきさえのぞかせている。
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a 長文 4.3週 wa
 何はともあれ、このようにしても、クラシック音楽への道はつけられる時代になった。あらゆるものがカジュアルになっていき、さまざまな機器の圧倒的あっとうてきな便利さと引きかえに、「傾聴けいちょう」したり「注視」する面倒めんどうな手続きがどんどん失われていく時代のなかで、「真面目」で「傾聴けいちょう迫るせま 」クラシック音楽はほんとうに伝統芸能化せずに生きのびられるのか、と心配したのが杞憂きゆうだったかのように、それは今ではおしゃれなファッションにさえなることができる。特定の商品を際立たせることをやめ、全般ぜんぱん的な生活スタイルのイメージを操作しようとしはじめた企業きぎょうの文化戦略にとって、それは軽薄けいはく短小の次に来る「さらに新しいもの」でありうる。
 しかし、こうしたことがすぐにクラシック音楽の啓蒙けいもうになり、普及ふきゅうにつながる、などとは早合点しないほうが良いだろう。なかんずく伝統的な音楽芸術の理念、とりわけ十九世紀の音楽観が要求したような「始まりと終わりがあって、そのあいだの過程は不可逆的であり、部分と部分が相互そうごに有機的に関係しあうとともに、曲全体は細部まで意味づけられた閉じた統一体である」ととらえられるような音楽作品の理念、聴くき 方から言えば「かならず最初から最後までを順序どおりに中断せずに聴きき とおし、刹那せつなの快感だけでなく、全体の構造の脈絡みゃくらくを理解すべき」であるような音楽体験の理念が、そこで受け継がう つ れているかどうかは、まったく疑わしい。たんなる「楽想」と、有機的統一体として仕上げられた「音楽作品」の違いちが は画然としているのだから、音楽作品とは本来切断してはならないもののはずなのに、それを切り刻んで差し出すコマーシャルの十五秒間は、もはや西洋近代のひとつの極限的な文化のかたちというより、おびただしく流通する商業音楽を飽食ほうしょくするなかでこそ光るエスニックのような新鮮しんせんさなのかもしれない。
 世の中にはクラシック音楽は難しいと言う人が今でも結構いる。その人たちが口をそろえて語るのは、一曲が長いので途中とちゅう退屈たいくつしてしまう、まして暗く閉ざされたコンサート会場で長時間、物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということである。このことはとりもなおさず、一様に、クラシック音楽の真髄しんずいとはそ
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の反対、つまり長い一曲を聴きき とおす、それもながら聴きき ではなく、全身耳となって聴きき とおす時に、旋律せんりつやりズムや音響おんきょうといった現象的な快楽にとどまらぬ、それを超えこ た「作品」という包括ほうかつ的でドラマティックな意味連関が体験できることにある、と了解りょうかいされていることを示している。もちろん、細部が全体に劣るおと わけではない。だが、曲全体という世界のなかに位置づけられることで、細部はそれだけで存在するより以上の意味を持つことができる。(中略)
 しかし、コマーシャルの十五秒のクラシック音楽は、そういう体験にはほど遠い、どころか、その入口でさえないのではないか、と私は思う。そこで、鳴っているのはたしかに作品の一部には違いちが ないが、その向こうに作品全体を暗示することのない、むしろ作品という根から切り離さき はな れた、それ自体で味わわれる個的で快楽的な現象である。コマーシャルにぞくぞくと登場し、しかもそれがある感銘かんめい誘っさそ ているとしても、かならずしもそれにつれて人々が容易にクラシック音楽の世界にいざなわれるとは考えないほうが良い。美しくサンプルを並べたカタログは、もはや憧憬(しょうけいの入口ではなく、憧憬(しょうけいの対象そのものになろうとしているのだから。
 とにもかくにも、こうしたことは、音楽、というよりその受けとめ方が、いつの間にか変容しつつあることを示しているのではないだろうか。
 つまり、コマーシャルのクラシック音楽が効果を上げたのは、たんにコマーシャルの世界でありふれていないので新鮮しんせんだったというだけではなく、今日では一曲を有機的統一体として把握はあくする構造的な聴きき 方のできない人、あるいは秘かな異和を抱いいだ ている人がしだいに増えており、十五秒ぽっきりという異端いたん聴きき 方がその人たちの心の間隙かんげきをついた、という一面があったのではないだろうか。

岡田おかだ敦子あつこ『永遠は瞬間しゅんかんのなかに』より)
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a 長文 4.4週 wa
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 文明とは何かを地球システム論的に考えると、「人間けんを作って生きる生き方」となります。人間けんの誕生がなぜ一万年前だったかというのは、気候システムの変動に関わってきます。気候システムが現在のような気候に安定してきたのは一万年前のことです。それに適応してそのころ、我々はその生き方を変えたんですね。
 人間けんを作って生きる生き方というのは、じつは農耕牧畜ぼくちくという生き方です。それ以前、人類は狩猟しゅりょう採集という生き方をしてきた。狩猟しゅりょう採集というのはライオンもサルも、あらゆる動物がしている生き方です。したがってこの段階までは人類と動物の間に何の差異もなかった。これを地球システム論的に分析ぶんせきすると、生物けんの中の物質循環じゅんかんを使った生き方ということになります。生物けんの中に閉じた生き方です。
 それに対して農耕牧畜ぼくちくはというと、たとえば森林を伐採ばっさいして畑に変えると、太陽からの光に対するアルベド(反射能)が変わってしまう。ということは、地球システムにおける太陽エネルギーの流れを変えているわけです。また、雨が降ったとき、大地が森林でおおわれているときと畑とではその侵食しんしょくの割合が異なります。別の言葉でいえば、そこに水が滞留たいりゅうしている時間が違っちが てくる。すなわち、エネルギーの流れだけではなく、地球の物質循環じゅんかんも変わるということです。これを地球システム論的に整理して概念がいねん化すると、人間けんを作って生きるということになる。人類が生物けんから飛び出して、人間けんを作って生き始めたために、地球システムの構成要素が変わったわけです。
 ところで、先ほど一万年前に人間けんができたのは気候が変わったからだと言いました。そういう時期は最近の一〇〇万年くらいをとっても何回かあったでしょう。人類の誕生以来の歴史七〇〇万年ぐらいまで遡っさかのぼ てみれば、一万年前と同じような時期が何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール人が農耕を始めてもよかったことになる。でも、彼らかれ はそうしなかった。農耕牧畜ぼくちくという生き方を選択せんたくし、人間けんを作ったのは、われわれ現生人類
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だけなんです。
 それはなぜなのか。現生人類に固有の、何か生物学的な理由があるのではないかと考えられます。類人猿るいじんえんや他の人類にはなく、我々だけがもっている特徴とくちょうは何だろうと考えると、まず思い当たるのは「おばあさん」の存在です。おばあさんとは、生殖せいしょく期間が過ぎても生き延びているメスのことです。たとえば、類人猿るいじんえんのチンパンジーのメスと比べても、現生人類のメスは生殖せいしょく期間終了しゅうりょう後の寿命じゅみょうが長い。なおこの場合、オスは関係ありません。オスは死ぬまで生殖せいしょく能力があります。したがって、おじいさんは現生人類以外にも存在します。しかし、おばあさんは他の哺乳類ほにゅうるいには存在しないし、ネアンデルタール人の化石からも、現生人類のおばあさんに相当する骨は見つかっていません。おばあさんの存在は、現生人類だけに特徴とくちょう的なことなんです。
 では、おばあさんが存在すると何が起こるのか。すぐに思いつくのは、人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて子供を産んだ経験をもつわけですから、お産の経験をむすめに伝えることができる。するとお産がより安全になり、新生児や妊婦にんぷの死亡率も低くなりますね。
 さらにおばあさんは、むすめが産んだ子供のめんどうもみます。たとえばむすめ生殖せいしょく期間が一五年として、子育てに五年かかるとしたら三人しか産めない。ところがおばあさんがいることで五年が三年に短縮されたら五人産める。ということで、おばあさんの存在が人口増加をもたらしたのではないかと、私は考えています。このことは最近の研究からも確かめられています。
 我々現生人類は一五万年前ぐらいにアフリカで誕生したのですが、五、六万年前ぐらいには、すでに地球上に広く分布するようになっていました。人類のような大型動物が、なぜこんな短期間に世界中に拡散していったのか。これも現生人類の人口増加という問題を考えるとその理由が判ります。

 (松井まつい孝典『松井まつい教授の東大駒場こまば講義録』)
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長文 4.4週 waのつづき
 言語と思考の関係は実は学問の世界でも同様である。言語には縁遠いえんどお と思われる数学でも、思考はイメージと言語の間の振り子ふ こ運動と言ってよい。ニュートンが解けなかった数学問題を私がいとも簡単に解いてしまうのは、数学的言語の量で私がニュートンを圧倒あっとうしているからである。知的活動とは語彙ごい獲得かくとくに他ならない。
 日本人にとって、語彙ごいを身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙ごいの半分以上は漢字だからである。これには小学生のころがもっとも適している。記憶きおく力が最高で、退屈たいくつな暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さのが ず、叩き込またた こ なくてはならない。強制でいっこうに構わない。(中略)
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退すいたいであり、その底には活字文化の衰退すいたいがある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。
 アメリカの大学で教えていたころ、数学の力では日本人学生にはるかに劣るおと むこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かさおどろ  れた。大学生でありながら(−1)×(−1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。相手の論理的飛躍ひやく指摘してきする技術にかけては小憎らしいこにく   ほど熟練しているし、自らの考えを筋道立てて表現するのも上手だ。
 これは学生に限られたことでなく、暗算のうまくできない店員でも、話してみると驚くおどろ ほどしっかりした考えを持っているし、スポーツ選手、スター、政治家などのインタビューを聞いても、実に当を得たことを明快な論旨ろんしで語る。
 これと対照的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概してがい  弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論にな
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って、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢れっせいぶりであった。
 当時、欧米おうべい人が「不可解な日本人」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼等かれらによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀ゆうしゅうな日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等かれらにはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽あうんの呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲えんきょくな非難に甘んじあま  ているわけにはいかないし、このままでは外交交渉こうしょうなどでは大きく国益を損うことにもなる。
 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしくはなは   違うちが からである。数学における論理は真(正当性一〇〇パーセント)か、(正当性〇パーセント)の二つしかない。真白か真黒かの世界である。現実世界には、絶対的な真も絶対的なも存在しない。すべては灰色である。殺人でさえ真黒ではない。死刑しけいがある。殺人は真黒に限りなく近い灰色である。
 そのうえ、数学には公理という万人共通の規約があり、そこからすべての議論は出発する。現実世界には公理はない。すべての人間がそれぞれの公理を用いていると言ってよい。
 現実世界の「論理」とは、普遍ふへん性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りたよ ないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。

 (藤原ふじわら正彦まさひこ『祖国とは国語』)
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a 長文 5.1週 wa
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 普段ふだんは人気のない夜の公園に、明るいちょうちんがいくつもともっている。思い思いのゆかたを着た子供たちがお喋り しゃべ をしながら夜店を回る。地域のお祭りには、どこも同じような懐かしいなつ   光景が広がる。しかし、このようなお祭りのにぎやかさも、翌日になると再びもとの静かな住宅街の中に消えてしまう。孤独こどくな老人、家庭にひきこもる子供たち、夜休むためだけに帰ってくる勤め人の親たちが、もっと日常的に地域に出て仲よく談笑できる社会は来るのだろうか。今の日本では、子供が成長しても同じ地域に住むという定住化傾向けいこうが強まっている。しかし、地域社会の機能はまだ不十分だ。
 その原因は第一に、これまでの私たちの生活基盤きばんが地域や家族という地縁ちえん血縁けつえん共同体ではなく、学校や会社という機能利益共同体にあったためである。明治の開国以来、日本は工業生産の労働力を農村から調達してきた。この百年間、多くの日本人は新しい職場を求めて住み慣れた地域を離れはな 全国の都市に広がっていった。新興住宅地と呼ばれる地域では、昔からそこに住んでいる住民はむしろ少数派で、全国各地から集まった新しい住民が地域の多数派を形成している。ここで必要なのは、意識改革だ。過去の地縁ちえん頼るたよ のではなく、未来の地縁ちえんを自分たちの手で作っていくという意識が求められている。
 地域社会が十分には機能していない第二の原因は、権限と予算の不足である。かつて日本が欧米おうべいの植民地主義に対抗たいこうするために形成した中央集権国家は、現在では非効率が目立つようになっている。昔、日本がいくつものはんに分かれていた時代には、そのはん象徴しょうちょうするような強力なリーダーが登場することがあった。武田信玄しんげん加藤かとう清正は、地域の振興しんこうに大きな業績を残した。
 話を広げて考えると、地球が今のように多様な生命体を宿す惑星わくせいになったのは、さまざまな環境かんきょうにそれぞれの個性で適応する生物がいたからであって、決して最も進化した生物である人間が地球を支配するようになったからではない。
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 確かに、グローバル化は今後も続く。情報も、資源も、人間も、国境を越えこ て行き来できることが世界の進歩につながっている。しかし、グローバル化は、その基盤きばんに安定したローカル化があってこそ人間の幸福に結びつく。人類のこれまでの歴史は、小さな集落から小国家へ、小国家からより大きな統合国家へという流れであった。その大きな統合国家から地球全体をひとつの国とするような流れは当然考えられる。しかし、同時にそのベクトルとは反対の地域や家族に向けての関心が生まれ出したのが現代の特徴とくちょうだ。地域社会は、地球国家の進展とともに進むものである。どんな小さな町や村にも、日常的にお祭りのにぎやかさが戻っもど てくるときが、地球と地域が結びついた新しい時代の始まりになる。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 5.1週 waのつづき
 たとえば、折り紙をわたされて、「この折り紙の3分の2の4分の3を切り取ってくれません?」と頼またの れたとしてみましょう。あなたは何をするでしょう?
 分数の計算?
 やってみていただくと分かりますが、答えは、2分の1になります。2分の1を切り取るのであれば、計算すれば話は簡単、と思われるかもしれませんが、実際この問いをあちこちで人にしてみたところ、計算する人は一〇人に一人くらいしかいませんでした。たいていの人は、直接紙を折って答えを出そうとします。三等分は折りにくいですが、何とか折ります。そしてできた3分の2の部分について、またこれもそこを四等分するような折り方を工夫し4分の3を求めてくれるのです。つまり、小学校で十分練習問題をやっていても、折り紙があれば人は計算しなくてもいい、そうやって外の世界にあるものを、その場の目的に合わせて上手に使うことがむしろ人間の知性の現れなのではないかと考えてみることができるでしょう。人間の知とは何かについての考え方が、頭の中ですばやく計算できることといったものから、経験を生かし、外の世界にある道具(折り紙など)をうまく使って求められている答えを引き出すこと、といった見方に変わりつつあります。
 人間の認知能力にこういう側面があることを強力に主張してきたのは、人を、その人が毎日普通ふつうに生活している場のなかで観察し、そこから人間の能力について考えてきた研究者の人たちで、その多くは文化人類学などのバックグラウンドをもっています。上の3分の2の4分の3の話も、ジーン・レイヴなどを中心としたそういった研究者が台所でした観察がもとになっています。
 その人たちによると、学校という生活場所はそれ自体が一つの文化であって、学校でよい成績を収めるということは、その文化への適応の程度がよくてその文化のなかで十分有能にふるまえることを意味します。だから、学校を卒業した後も、学校でやったように新しいことを次々覚える必要があったり、教えられたとおりのやり方で仕事をきちんとこなすことが求められたり、定期的に昇進しょうしん試験があったりする社会でなら、学校で有能だった人がいきいきと生きられるでしょう。
 ただ、そういう人たちが、学校ではあまり教えられないこと、奨励しょうれいされないこともうまくやる、という保証はありません。むしろそういうことはできない、と考えたほうがいいような証拠しょうこがあげられてきています。
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 学校で奨励しょうれいしないようなこと、暴力だとか、セックスだとか、ドラッグだとか、そんなものに若い人が染まらないほうがいいに決まっている、という範囲はんいでなら、この話はこれでいいのかもしれません。けれど、今学校であまり教えないことのなかに、たとえば与えあた られたわくをはずれるとか、これまでだれも試したことのない問題に取り組むとか、これまでのやり方を大幅おおはば作り替えつく か てみるとか、もうけっこう成果があがると言われている定評のある方法をわざわざ壊しこわ 作り替えよつく か  うとしてみるとか、そういうたぐいの、これからの世の中でいままでよりもっと大切になるだろうと感じられていることが含まふく れていないでしょうか。含まふく れているのだとすると、レイヴたちの言うことは「学校ではそういうたとえば創造性と呼ばれるような能力はあんまり身につかないよ」という警告ともとれるのです。(中略)
 「言われたとおりにすること」でテストにいい点が取れるなら、いい点を取るプログラムを作ることはむずかしくないでしょう。困るのは、人の有能さが、言われたとおりにできるかどうかでは決まらないというところです。人は、3分の2の4分の3を計算用紙の上で計算するのが適切だと判断すればそうするし、折り紙の上で折ってしまうほうがきれいで速いと思えば計算しないですませます。
 こういう、場への適応力が、人間の有能さの本質でしょう。学校は、人の有能さを育てるところですから、子どもの頭の中に「いつでも分数の掛け算か ざんを絶対間違えまちが ずに速くできる」プログラムを作りたいのではなくて、その場に与えあた られた状況じょうきょうを最大限に利用するにはどうしたらいいかが苦労せずに分かる適応力を目指したいはずだと思います。

(三宅なほみ『インターネットの子どもたち』による)
(注)ジーン・レイヴー=認知心理学者
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a 長文 5.2週 wa
 一つの集団は、一人の裏切者と、一人の犠牲ぎせい者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。キリストとユダの伝説が、私にこのヒントを与えあた てくれた。恐らくおそ  あの十三人は、対人関係を独立したメカニズムとして純粋じゅんすい培養ばいようするためのベテラン達だったのであり、またそうせざるを得ない環境かんきょうにおかれていたのだろう。(中略)
 私は、はじめにキリストがあって、そこに十二人が従ったという説を、ほぼ信じない。まず、変転としてとらえどころのない奇妙きみょうな関係の中に十三人が居たのであり、それが果てしない放浪ほうろうの末に、ユダとキリストを生むことによって、一つの「関係」として完成されたのである。
 ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを含むふく 「十三人目」だったに違いちが ないと、私は考えている。そして、何よりも、ユダが「裏切者」として発明されることによってはじめて、キリストが「犠牲ぎせい者」となり得たのであろう。新約時代、彼等かれら十三人が為しな た最大のことは、「裏切者」としてのユダを発明したことであり、むしろキリストを発明したことではなかったのではないかと、私は考えているのだ。(中略)
 創世記に、アブラハムについての奇妙きみょうなエピソードが語られている。「神はアブラハムを試みて言われた。『アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、かれをささげなさい』(中略)彼らかれ が神の示された場所にきたとき、アブラハムは、そこに祭壇さいだんを築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛っしば 祭壇さいだんのたき木の上にのせた。そしてアブラハムが手を差しのべ、刃物はものをとってその子を殺そうとした時、主の使が天からかれを呼んで言った。『アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何もかれにしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえわたしのために惜しまお  ないので、あなたが神を恐れるおそ  者であることをわたしは今知った』」(第三十二章)
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 ここから、私は「裏切者」がやがて発明されねばならないという予感を読み取れそうな気がする。このアブラハムの、神に対して一方的にのめりこんでゆく無気味な心情は、恐らくおそ  一方で自らのうちに「裏切者」を用意しそれに対する憎悪ぞうお相殺そうさいされ、安定する事を期待するに違いちが ないからである。つまり、この一方に「裏切者」が存在する事によってはじめて、わが子を殺すという行為こういは、アブラハムにて自己完結するからである。「裏切者」とは集団の対人関係の、独立して自己完結しようとするメカニズムが必然的に生み出す、ある形態である。集団は、「神に対するおそれ」というとめどもなく一方的な不安定な心情を、「裏切者」によって、緊張きんちょうしあう安定したものにすることが出来る。「裏切者」というのは絶対的な悪ではない。「裏切る」という行為こういは相対的なものであり、従って集団は永遠にそれを対象化することが出来ない。故にそれは、集団の内部を律するメカニズムを持続的に緊張きんちょうさせつづけることが出来るのである。
 新約によれば、キリストは、かれ死刑しけいにした外部勢力に対してよりも、ユダに対して緊張きんちょうしあっている。つまり、その時、その集団は、外部勢力に対して拮抗きっこうすることではなく、集団として自己完結することを選びつつあったのであり、そのために自ら「裏切者」を用意してみせたのであろう。
 言うまでもなく、集団が自己完結を目指すのは、集団が衰弱すいじゃくしはじめている証拠しょうこである。しかし、集団は常に、いつかは衰弱すいじゃく期を迎えるむか  ものであり、自己完結することを目指すのである。現に今でも「裏切者」と「犠牲ぎせい者」によって自己完結を目指しつつある集団をたびたび目にする事ができる。一つの集団を律する原理は、新約時代からちっとも進歩していないのかもしれないのだ。

(別役実「電信柱のある宇宙」から)
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a 長文 5.3週 wa
 知人に「釣りつ 」をするのがいる。ただし、趣味しゅみというわけではない。「その間だけ何も考えずにいることが出来るんだ」と、かれは言っている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、景品をせしめようとか、そのこと自体が楽しいから、というのではない。「あれをしていると一時的に空白になっていられるからね」と言うのである。
 このほか「料理」をするというのもいれば「推理小説」を読む、というのもいる。いずれも、仕事としてそれをやっているのでもなければ、趣味しゅみとしてそれを楽しんでいるのでもない。奇妙きみょうな言い方ではあるが、それらをすることによってしか、「何もしていない」状況じょうきょう維持いじ出来ない、というわけだ。
 これを、趣味しゅみ堕落だらくと言うべきか、趣味しゅみとは本来そのようなものであると言うべきか、よくわからない。ともかく現在、「何もしないでいる」状態を、「何もしない」ことで維持いじすることは難しいのである。ぼんやりしているとこれまでの仕事の続き、これからの仕事の予定などが襲来しゅうらいし、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。「何もしないでいる」ためには、「そうでないこと」を真剣しんけんにやることによって、それらを締め出しし だ てしまわなければいけないのである。
 もちろん「それほどまでにして、何もしないでいる状態なんか作り出さなくたっていいじゃないか。」と、よそ目にはそう思える。しかし、そうではない。前述した理由で「釣りつ 」をしたり、「パチンコ」をしたり、「料理」をしたりしている人々を見れば、よくわかる。彼らかれ は、酸素の足りなくなった水の中の金魚が、水面に出て口をパクパクさせるように、かなり切迫せっぱくして「何もしないでいる」ことを求めているのである。
 日常生活における「何もしないでいる」時間というのは、芝居しばいの「暗転」や「幕間」と似ている。多くの観客がここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレに駆けか こめるからではない。無意識にではあれ、それまで「流れ」として連続していた時間を、「積み重ね」として体験し直すことが出来るからであり、その呪縛じゅばくから逃れのが 出ることが出来るからである。
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 「時間は、流れるものではなく積み重なるものである。」という何かのコマーシャルにテレビで時々お目にかかるが、我々は、恐らくおそ  、この「流れる」時間と、「積み重なる」時間の双方そうほう交互こうごに体験することになっており、ただここへきて「流れる」時間の呪縛じゅばく力が強くなっているのだろう。それを「積み重ねる」時間として体験し直すための「暗転」と「幕間」が、日常生活の中でつかまえ難くなってきているのかもしれない。
 もちろん、「睡眠すいみん」ということがある。これまで我々は、「眠るねむ こと」によって、「流れる」時間を「つみ重ねる」時間として体験し直してきたと言えるだろう。日が変わり、週が変わり、月が変わり、季節が変わり、年が変わるごとに、我々は「流れ」を「積み重ね」に切りかえてきたのである。しかしどうだろうか。「不眠症ふみんしょう」が増えたり、それでなくとも「眠りねむ 」が浅くなったというものが増えているように、日や週や月や季節や年の「変わり目」のメリハリも、何となく薄れうす てきつつあるような気がする。
 つまり「流れる」時間については、放っといても体験出来るし、むしろそれに呪縛じゅばくされている感が強いのだが、「積み重ねる」時間については、我々自身が意識し、工夫しなければ体験出来ないことになりつつあるのではないだろうか。「暗転」と「幕間まくあい」を、個々人が日常生活の中で意識的に作り出さなければいけないのであり、そうしないと酸欠状態に陥っおちい て、呼吸が出来なくなるような気配すら感じるのである。(中略)
 かつての「趣味しゅみ人」は、「流れる」時間からちょっとはずれた所にいて、「積み重ねる」時間の中で、何ごとかをしていた。その知恵ちえを、現代人が学びはじめた、ということかもしれない。ただし、前述したように現代人のそれは、必ずしも趣味しゅみとは言えない。現代のそれは、「積み重ねる」時間の中で「何ごとかをしている」ことよりも、「流れる」時間の中で「何もしていない」ことの方が重要で、必死になってそれにすがりついているからにほかならない。
 最近、「釣りつ 」も「パチンコ」も「料理」も、「推理小説」も流行っているらしいが、それはそれら自体の手柄てがらではない。それらは「何もしないでいる」ための手続きにすぎないのだ。
(別役実「カナダのさけの笑い」による)
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a 長文 5.4週 wa
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 新しい言葉の指す新しい事柄を人はどうやって理解するのか。そこにはほとんど常に、既知の事柄へのなぞらえという作業があるのではないだろうか。こうした観点から「なぞらえ」が人の概念体系の根底にあることを説くのがレイコフとジョンソンである。
 彼らの共著『レトリックと人生』の主旨を一言で要約するなら、「われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っている」ということである。彼らの言う「メタファー」は表現技巧としての隠喩ではない。理解や思考のための方略である。彼らの規定によれば「メタファーの本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験することである」。この「メタファー」を日本語にするならば、「隠喩」よりも「なぞらえ」という方が適切であろう。即ち彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほかならない。「筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたい」という彼らの主張は、人の思考がロゴスよりも「なぞらえ」に依存しているということである。
 彼らは「概念」を、「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味であり、従って各人が理解しているもののことであると考える。そして、ある概念についての私たちの理解は、その大部分が他の概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは一観念を他の一観念と比較することではない。「理解というものは、経験の領域全体に基づいて生ずるのであって、個々の観念に基づいて生じるのではない」からである。言い換えれば、私たちが理解するものはコトの経験という全体であって、個々の観念はその構成要素にすぎない。むしろ観念はそのコトの中に位置づけられることによって意味を得るのである。「なぞらえ」とは、既に理解ずみの経験領域に基づいて未知の経験領域を理解することである。そこで理解されるものは、二つの領域に共通する経験の「型」である。これをレイコフらは「経験のゲシュタルト」と呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある領域に、別の領域の「経験の
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ゲシュタルト」をあてはめて、その事柄を理解することなのである。たとえば「議論」についての理解は「戦争」のメタファーに基づいていると彼らが言うとき、それは議論というコトの経験の領域全体、即ち開始があり、敵と味方があり、攻撃と防御があり、勝利と敗北があるという、議論経験の全体が「戦争」と同じ構造をもつものとして理解されているということである。
 さらにレイコフらは言う。
 「重要なことは、私たちは単に戦争用語を用いて議論のことを語っているだけではないということである。議論には現実に勝ち負けがあり、議論の相手は敵とみなされ、相手の議論の立脚点(=陣地)を攻撃し、自分のそれを守る。優勢になったり、劣勢になったりする。戦略をたて、実行に移す。自分の議論の立脚点(=陣地)が守りきれないとわかれば、それを放棄して新たな戦線をしく。議論の中でわれわれが行うことの多くは、部分的ではあるが戦争という概念によって構造を与えられているのである。」
 もちろんレイコフらが念頭においているのは英語の「議論」の概念だが、日本語でも事情は変わらないだろう。もっとも文化が違えば概念が違うことはありうる。そこで彼らは「議論」を「ダンス」のメタファーによって理解している文化を想像してみる。論者は踊り手とみなされ、議論の目的は見た目に美しく論じあうことになる。多分人々は議論について「息が合わない」とか「創造性に乏しく単調だ」とか「中だるみはあったが最後はうまく決まった」などと語るだろう。そして言うまでもなく、概念の異なる文化においては、行動も異なるであろう。
 「われわれは議論を戦争とみなし、戦争をするような議論の仕方をするが、彼らはダンスとみなして、ダンスをするような仕方で議論をする、ということになるであろう。」
 私たちの概念のほとんどは、他の概念への「なぞらえ」によって理解されているということである。従って、私たちの概念体系は「なぞらえ」を原理として構築されているということである。

 (尼ケ崎彬の文章)
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長文 5.4週 waのつづき
 コミュニケーション・システムの場合も、少し以前の交通システムは多分にツリー型だった。だから交通ストがあると社会問題になったわけですが、最近はあまり問題にならない。スト慣れということもありますが、それだけではなく交通システム自体がだんだんネット状になり、代替だいたい経路が確保されるようになったということがあります。ツリー型のシステムでは、二つのセットのオーヴァーラップ、重なりあい、そこから生ずる両義性というものは本来許されない。しかし実際のリヴィング・システムでは、あとでのべますように、ツリー型のシステムがそのままであることは珍しくめずら  、裏のシステムや補完システムが非公式に形成されます。
 それにたいしてもう一つのシステム・モデルは網状もうじょう交叉こうさ図式です。(中略)たとえば3というメンバーは1、2、3を含むふく クラスに属すると同時に、3、4、5を含むふく クラスに属しているし、3、4、5、6を含むふく クラスにも属している。そういう点ではある意味での多義性がそこに生まれてくる。
 身の構造は、多分にこういう交叉こうさ網状もうじょう図式の構造をもっている。一般いっぱんに人工的なシステムはツリー的な性格をもつものが多いのにたいして、自然発生的なシステムはセミ・ラティス的あるいはむしろネットワーク的である。クリストファー・アレグザンダーという人は都市デザイナーですが、二〇世紀に考案されたル・コルビュジエからニーマイアー、丹下たんげ健三にいたるすべての都市計画は、全部ツリー型だということをはっきりさせた。それにたいして自然に形成されてきた都市、あるいは最初は計画都市であっても歴史のなかで自然都市に近くなってきた都市(たとえば京都)は、セミ・ラティス的な構造をもっているということを指摘してきしています。
 またさまざまな芸術作品が構成する間テキスト空間とか文化空間というようなものを考えてみると、その構造は多分に交叉こうさ型の網状もうじょう図式となっている。一般いっぱんに人間の生世界にかかわるリヴィング・システムは、たえずクラスが重合し多義的になる。グラフでいえばネットワーク状の形式をもつようになります。(中略)
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 組織図としては、こういう組織をとる会社はまだ少ないわけで、ほとんどの会社がツリー的な組織図をとっている。しかしよく考えてみますと、それでは成りたってゆかない。そこで無意識的にツリーを補完する非公式の制度として活用されているのが、たとえば広い意味での宴会えんかい政治である。つまり一時的に裏の組織がつくられて、宴会えんかいの席ではこの上下関係や業務のなわばりがある程度破られるわけですね。これを〈シャドー・システム〉と呼びたいと思います。組織を考える上で重要なのは、組織図に現われたメインのシステムだけではなく、実際のはたらきの上で補構造をなしているシャドー・システムを含めふく た組織全体のはたらきをとらえることです。
 宴会えんかい政治とまではゆかなくても、たとえば4のメンバーが6のメンバーの仕事と密接に関係することをやっていて、調整したいという場合、ふつうは上司を通して交渉こうしょうしなければいけないけれども、前もって、まあ一杯いっぱいやろうというわけで根回しをするというようなことが行われる。そういうツリー型のシステムの裏の補構造ともいうべきものが、タテ社会ではどうしても必要になってくるのではないか。
 それを意識的に表面化し、公式に制度化する試みが最近盛んになってきました。たとえばプロジェクト・チームというのは、いろんな部署から専門家を選び、元の部署での上下関係はあるていど解体して、そのプロジェクトにふさわしい組織を一時的につくるというアド・ホック・システムです。松戸市に「すぐやる課」というのがあります。あれはツリー型の組織の不備を補い、ネットワーク型のはたらきをもたせるための制度化されたゲリラ型組織ということができます。
 (市川ひろし『「身」の構造』)
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a 長文 6.1週 wa
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 ケンタウロスは、人間の上半身に馬のどうあしがついた生き物だ。人魚ひめは、人間の上半身に魚のどうがついている。インドのガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がついている。これらの不思議な神話上の生物を作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手に入れつつある。科学の進歩は、科学の悪用の可能性と不可分の関係にある。その典型的な分野のひとつが、かく物理学である。物質が持っている膨大ぼうだいな熱量の可能性を、人間はエネルギーとして利用することもできるし、兵器として利用することもできる。同様のことが、バイオテクノロジーの未来についても言えるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後の発展から予想される第一の問題は、できることとやっていいことは違うちが という区別の基準がまだはっきりしていないことである。遺伝子の解析かいせき技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病しっぺいの改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝的素質による就職や結婚けっこんの差別を生み出すことにもつながる可能性がある。人類のこれまでの歴史は、無条件に病気を悪、健康を善としてきた。しかし、不老不死が技術的に可能になりつつある時代に大切なのは、いかに生きるかという技術よりもいかによりよく生きるかという哲学てつがくである。自然界を見ればわかるように、生き物はみな成長し子孫を残し年老いて死んでいく。永遠の生命を求めることは、大きく見れば自然の摂理せつりに反することではないだろうか。自然の摂理せつりと人間の倫理りんりの統合がこれから求められてくる。
 問題点の第二は、科学の発達による恩恵おんけいが強力なものであればあるほど、あとでその弊害へいがいがわかったときに、手後れとなることも多いということである。特に、生命に関することについては、人間の知識は肝心かんじんなことは何もわかっていないと言ってよい。生命を生み出す知識さえないのに、生命を部分的に操作する技術だけはあるという状態が最も危険なのだ。この危険性を防ぐためには、多様性の確保を技術の発達以上に優先することだ。農業の品種改良で、F1雑種による成果が取り上げられることは多いが、それが地域固有種の絶滅ぜつめつに結びつくようなことがあってはならない。大きな恩恵おんけいは、大きな弊害へいがいと裏腹の関係にある。
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 バイオテクノロジーは大きな可能性を秘めている。それは、肉体の変容だけでなく、精神の変容に生かすことさえできるようになるだろう。大切なのは、その可能性を発展させるか、その危険性を抑止よくしするかということではない。どのような技術も、それを生かす社会の仕組みによって、人間を助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武器にもなる。ケンタウロスや人魚ひめやガネーシャが人間と一緒いっしょに暮らすようになってもよい。しかし、大事なことは、すべての生物が自分の存在に自信と誇りほこ と喜びを感じて生きていくための技術でなければならないということである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 6.1週 waのつづき
 美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言いあらわす言葉である。自然はその創造するすべてのものに、美という性質のほかは与えあた ない。もとよりそれは、美という性質を与えよあた  うと自然が望んだ結果与えあた られた性質ではなく、自性としてそうなった性質である。たとえば、花はどんな種類の花でも同じ美という性質を持っている。そしてその美しさは、花が自然の造化によって生れたために、本質的にそなわっている性質なのである。それを私たちは美と呼ぶのだ。
 美はだから、人間の存在以前から、滅亡めつぼうのあとまで、自然が存在して造化を続ける限り、人間に関係なく持続し続ける性質であることを、確かに承知し直さなければならない。この美に惹かひ れ、あやかろうとして、人間は創作活動を営んだ。東洋的な考えかたでは、自然美を手本とすることで人間の造型活動が行われ、西洋的な意図では、自然美を補いあるいは自然美を超越ちょうえつする造型美を得ようとして、造型活動が営まれてきた。概括がいかつ的な言い方ではあるけれども、その永い歴史において生み出されてきた造型作品の美しさとは、畢竟ひっきょう人間の能力が自然の造化の力に立ち向かって、どこまで肉迫にくはくし得たかの記録にほかならない。芸術美とか、個性美とか、言葉のあやはいくらでも織れる。しかし人間の造型の美しさは、自然美の前では多くは低い次元の美であった。なぜ低い次元の美と言わざるを得ないのか。究極性、価値性において、それは相対性の範囲はんい内にとどまりがちだからである。
 自然の美の本質は、美醜びしゅうの対立を超越ちょうえつしたところにある。自然には醜いみにく ものがない。醜いみにく ものに対する美しいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの性質において美しいのだ。この超越ちょうえつ性の故に自然美は究極の美であり得る。しかるに人間の造型美は、人間が持つところの意識や欲望や迷妄めいもう懐疑かいぎ、その他もろもろの執着心しゅうちゃくしんの規制を、どうしても受けざるを得ない。美しいものを作ろうとする意識、美しいものを作ることで自分の才能をひろく一般いっぱんに認めさせようという欲望、生きることについてのさまざまの迷妄めいもう、存在に関する懐疑かいぎ、要するに仏教の言う煩悩ぼんのうは、ただ生み出すだけの自然の無心の美を、人間の創造に容易に許してくれな
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いのである。規制され限定された美、人間の個性の範囲はんいの美、特殊とくしゅな性質の美。それらはいずれもの対立概念がいねんとしての美にとどまって、自然美の超越ちょうえつ性にまで到達とうたつすることが困難なのである。
 無論、それを可能にした時と場合もあった。人間が煩悩ぼんのう脱しだっ た状態でものを作る場合、自然と同じような無心の行為こういをとり得た場合、そこには美醜びしゅうの二元を越えこ た美が生れ得た。原始の美、宗教造型の美、民芸の美、そして個人の能力が煩悩ぼんのう超克ちょうこくした美。それらは自然美と同じような性質をあらわしていることを、私たちは容易に知ることができる。
 けれども、近代に始まった美術は、当初から人間の能力に絶対的な信頼しんらいをおいて出発したものであり、才能と個性への賛美によって貫かつらぬ れてきた。自我を基調とし、煩悩ぼんのうを素材とする方向を目指してきた。人間性の認識を目途もくととする近代の成行は、人間の作り出す美にしか関心を示さず、視界に入れなくなってしまった。美の基準は個性におかれ、と対立する美という範囲はんい内でしか考えられなくなり、自ら美の次元を低い段階に限定する状態となったのであった。

水尾みずお比呂志ひろし「美の終焉しゅうえん」より)
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a 長文 6.2週 wa
 科学技術は地域や民族の差異を越えこ 、それゆえにヨーロッパに生まれたという出自の制約を抜け出ぬ でて、全地球に広がった。その普遍ふへん性は、あたかもすべてを均等にきりそろえる刃物はもののようなかたさをもって地域文化を水平化し、生活空間を均一化し、社会システムを一元化していく。その傾向けいこうは「硬いかた 普遍ふへん性」をもっている。それに対し、文化は特定の地域の伝統や民族のエトスに育まれるものとして本性上ローカルな性格をもちながら、しかも、ある「柔らかいやわ   普遍ふへん性」をふくんでいる。文化の柔らかいやわ   普遍ふへん性は、究極的には宗教の普遍ふへん性にあらわれるといってよいであろう。宗教はかならずその発生地のローカルな神観念や自然観と密接にむすびつき、民族宗教的でありながら、しかも人間の生死にかかわる事柄ことがらとして、大なり小なりユニヴァーサルで世界宗教的な側面をもつのである。
 簡単な言い方をすれば、ヨーロッパにおいては、科学技術の硬いかた 普遍ふへん性と文化の柔らかいやわ   普遍ふへん性とは根本的には対立することなく、いわば同心円をなしたのである。それは科学技術が自らの精神の自発自展だったということと同じである。厳密に言えば、「技術」を受け入れる地盤じばんに文化のエトスがふくまれる以上、技術それ自体は必ずその内に「柔らかいやわ   普遍ふへん性」をふくむはずである。一元性のかたさは、厳密には技術にではなくて科学に帰せられる。ヨーロッパでは、科学の思考が自らの精神そのものに胚胎はいたいしていたがゆえに、柔らかやわ  さの中心が硬いかた 科学技術のからを形成したといえる。
 そのことは一見普遍ふへん的に見えたヨーロッパ的世界が、実はひとつのローカルな地域であることを意味する。もちろん科学技術によって可能となった牧歌的「文明」が、「文化」の精神性を脅かすおびや  という危機意識は、いろいろな思想家において表明された。しかし、それは、ヨーロッパ精神の内部での危機意識にとどまっていたのである。それはどこまでも「自己」批判であり、その自己のうちに非ヨーロッパ世界という「他者」を含むふく ことはなかった。
 それに対して、日本近代がヨーロッパ近代の受容をともなって成立したとき、両者は同心円を形成するわけではなかった。硬いかた 普遍ふへん性と柔らかいやわ   普遍ふへん性とは、いわばそれぞれの中心をずらして
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併存へいぞんしつつ、同一のエポックを形成したのである。あるいは、柔らかいやわ   普遍ふへん性がいろいろの中心を併存へいそんせしめ、そのひとつとして科学技術を内につつんだのである。その多中心的な複合構造が、自己同一性を基本とするヨーロッパ近代と日本近代の構造上のちがいだともいえる。
 分かりやすい例をひとつ挙げよう。火薬の発明により戦争の仕方が一変したことは、周知のとおりである。そのことは、洋の東西において同じである。しかし子細しさいにみればどうか。ドイツの文化史家フリーデルがその名著『近世文化史』の中で指摘してきしたように、火薬の発明によって人間のあり方が変わった。「騎士きし」は「兵士」になったのである。自分の名をもち、名を名乗ることによって戦いを始め、自分と自分の家門の名誉めいよを何より重んじた騎士きしの武芸は、鉄砲てっぽうの前には児戯じぎに等しいものとなり、それに対抗たいこうすべく騎士きしは兵士となった。人間はそれによって、鉄砲てっぽうと同じくひとつの部品として調達される、代替だいたい可能な存在となった。(中略)
 それに対して、日本では事情は異なっていた。武士は火薬の発明以後に代替だいたい可能で、匿名とくめいの兵士というあり方を兼ねか つつも、武士というあり方を失わなかったのである。日本の「武士」は、別のエトスの中で生きていたからである。武士と主君とをむすびつけたものは、解消可能な「契約けいやく」ではなくて、領地を媒体ばいたいとした共同体意識である。そこでは、自己の主体性を主張し、他を客体として吟味ぎんみするという姿勢はない。暗愚あんぐの主君だから仕えることを止めるといえば、ヨーロッパの契約けいやくの精神からすればあり得るが、日本の武士道の精神では理にそむく。主君に仕えるということは自分の主体的決断でなされることではなくて、自分の決定以前のことなのである。そこでは、主体性の確立よりは自我の滅却めっきゃくが尊ばれる。そういう武士にとって、火薬や鉄砲てっぽうは文字どおり舶来はくらいの武器である。彼らかれ は、その舶来はくらいの武器を駆使くしするようになった。しかし武士はそれによって戦争の仕方を一変させはしたが、武士であることを止めなかったのである。
(大橋良介りょうすけ「武士的なもの、ヨーロッパ的なもの」)
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a 長文 6.3週 wa
 要するに、一九八〇年代に入って一挙に噴出ふんしゅつしたコンピュータ・コミュニケーション技術の発展と普及ふきゅうは、連続的に進行していた技術が人々の欲求変化によって方向を変え、予想外の分野においても爆発ばくはつ的に広まりだした現象なのだ。そしてそれを生み出したのは、七〇年代に浸透しんとうした資源有限感によって生じた人々の欲求の変化、つまり美意識と倫理りんり観の変化だといえる。
 この点において、目下進行中のコンピュータ・コミュニケーションを中心とする技術進歩、一九世紀末から二〇世紀の前半にかけて操り返された内燃機関や電気技術、化学工業の発達などとは、全く違っちが た社会的影響えいきょうを持っている。つまり、産業革命以来の技術革新は、物財の量的増大を求める欲求にそって進んだものであり、主として物財供給量の増大と加工度の向上に役立った。ところが、今進行している技術革新は、主として多様化、情報化による「知価」部分の増大と省資源化による物財消費の削減さくげんを目指すものだ。いいかえれば、創造的知価の増加にこそ役立つ種類のものなのである。
 この違いちが は、きわめて重要であり、本質的でもある。産業革命以来、技術革新は、内燃機関も電気技術も化学工業も、それが増大させようとした物財生産はみな、数値化が可能なものだった。お米や鉄などの素材は勿論もちろん、自動車やテレビ、建造物といった高度加工品でもそれぞれの加工度を換算かんさんして統一された単位(もっぱら価格換算かんさんされた)で計上することが、少なくとも理論的には可能である。従って、国民総生産(GNP)といった概念がいねんも成り立ったし、それを時系列的に、あるいは国際的に比較ひかくすることも可能であった。
 しかし、いま進んでいる技術革新が増加させようとしている「知価」創造は、現実的にも理論的にも数値化不可能な性格のものである。デザインの善し悪し、イメージ価値の大小、技術の高低、生活の快適さや都市空間のアメニティといったものは、本質的に主観的か、少なくとも相対的である。これらの価値や価格が経済統計に計上されるのは、人々がそれぞれの主観に応じて対価を支払っしはら た結果の集計に過ぎない。従って、その価格が、それを生産するのに投入された費用と見合うという保証は、長期的に考えても全く存
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在しない。
 一人のデザイナーがヒット商品を創造することもある代わりに、千人の大事務所でも全く流行を生み出せないこともある。一八さいの少年がコンピュータ・ソフトで大儲けおおもう することもあるが、三〇年のベテランも全くだめなこともある。口コミだけで最高のイメージを得るお店もあれば、大広告の成果が全くないこともある。主観に依存いぞんする知価は、いかにそれが社会化されてもやっぱり数値化不可能であり、コストとの関係も存在しない値打ちなのだ。
 こうした社会的主観に依存いぞんする数値化できない「知価」への傾斜けいしゃが深まることは、もっぱら数値による客観性を重視してきた工業社会的合理精神には、許容しがたい事だ。当然、それ故の反発も反感もある。そこから「いろんな運不運があっても全体として巨視的きょしてき平均的に見れば、やっぱり価格はコストに見合うはずだ」という主張も出てくるに違いちが ない。
 しかし、仮に日本全体、あるいは日本全体の何年間かといった大数たいすう平均をした結果が「価格はコストに見合う」としても(こんな事実があるという保証は全くない)、物財や単純なサービスにおけるごとく「コストに価格が接近する運動を繰り返すく かえ 」ためではなく、コストから上下双方そうほうに大きく乖離かいりした価格がそれぞれ単独に発生した結果の偶然ぐうぜんに過ぎない。
 要するに、「知価」の値打ちの形成原理は、工業社会的ではないし、そんな知価に対して欲求を募らつの せ、惜しみお  なく対価を支払うしはら 精神も、工業社会的合理精神とは異質のものである。
 だからこそ、「知価」が重要な役割を果たすような社会――「知価社会」は、工業社会の延長上にある「高度社会」などではなく、工業社会とは全く別の「新社会」なのである。
 今、この一九八〇年代に、日本で、そして世界の先進諸国(とりわけアメリカ)で起こっている変革は、単なる技術革新でもなければ、一時的な流行でもない。それは、産業革命以来二百年振りふ に人類が迎えむか た「新社会」を生み出す大変革、いわば「知価革命」なのである。

堺屋さかいや太一 『知価革命』による)
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a 長文 6.4週 wa
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 一九世紀の自由主義は、危険とはだれの目にも見えるもので、危険回避かいひは各自の自己決定に委ねればいいという考え方に立脚りっきゃくしていた。危険の経験的自明性と自由主義は内側でつながっていた。すなわちJ・S・ミルの『自由論』が出された一八五九年には、見えない微生物びせいぶつが危険だという医学思想はまだ成立していなかった。病原体説の成立は、コッホによる結核けっかくきんの発見が一八八二年であり、パスツールによる狂犬病きょうけんびょう研究が一八八〇年以降である。自由主義の原則は、危険の経験的自明性というある意味では誤った想定の上に作られてしまった。
 その後、われわれは見えない危険の時代を迎えるむか  ことになった。自動車を走らせると地球が温暖化する。だれもその因果関係を見ることはできない。手に取った黒土のひとかたまりにダイオキシンがどれだけ含まふく れているか、見ることはできない。トウモロコシDNAの中の危険な塩基配列も見えない。吹きふ 寄せる風のなかの放射能も見えない。
 現代で安全性を理解するためには、「地球全体で人間が空気の中にすてる炭酸ガスが原因になって地球が温暖化し南極にある氷河が溶けと て、二〇年後に太平洋のなかの珊瑚礁さんごしょうの国を水没すいぼつさせる」ということを理解しなくてはならない。
 この文章の中には見えないものがたくさんある。「地球全体」は見えない。「空気の中にすてる炭酸ガス」は見えない。「地球の温暖化」は見えない。「炭酸ガスという原因による温暖化という結果」は見えない。「南極の氷河」は見えない。「二〇年後」は見えない。「太平洋のなかの珊瑚礁さんごしょう」は見えない。それではどうして「ゴミをへらせば地球を守ることになるのか」が分かると言えるだろう。もしも、「疑わしいことを信じてはいけない」というタテマエを守るなら、「ゴミをへらせば地球を守ることになる」と信じてはいけないという結論になるのだろうか。
 そこで真理をつきとめることにしよう。「科学的真理は何度も同じ条件で実験を繰り返すく かえ ことによって確かめられる」というタテマエにしたがうとする。石油をたくさん燃やして何度も実験をして見たら、「地球に砂漠さばくが増える」、「たくさんの生物が絶滅ぜつめつする」、「人間が生きていくための地下資源がなくなる」、「地面の下がゴミだらけになって水が飲めなくなる」という結果が起こったと仮定
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しよう。やっぱり「ゴミをへらせば地球を守ることになる」というのは正しかったという結論がでるだろう。しかし、そのことを確かめる人間は、生き物のいない砂漠さばくで食べ物も水もないという状況じょうきょうにいるかもしれない。
 「ゴミをへらせば地球を守ることになる」が本当かどうか。何度も繰り返しく かえ て確かめることができない。環境かんきょう問題は日常の経験だけでは判断がつかないので、高度の専門的な知識を学ばなくてはならない。情報依存いぞん的にしか因果関係は把握はあくできない。悪い結果がでてしまった後では取り返しがつかないので、後悔こうかいしないですむように情報を捉えとら て事前に予防しなくてはならない。
 どんな事柄ことがらでも「悪い結果がでないように完全に予防すること」はとてもむずかしい。「風邪かぜの予防」の場合には、予防に失敗してもあまり心配はいらない。予防に失敗しても風邪かぜは必ずなおるからである。ところが「砂漠さばくが増える」とか「珊瑚礁さんごしょう水没すいぼつする」とか「明日から使う石油がない」とか「くじら絶滅ぜつめつする」とかということは、予防に失敗したら永遠に取り返しがつかない。完全予防という側面からも安全の情報依存いぞんが成立する。
 ベックは、その『危険社会』(一九八六年)で「ヒューム以後明らかとなったように、因果関係は本質的に知覚を通じては推定できない。因果関係の推定はあくまで理論に基づくのである」と述べている。
 安全性について情報依存いぞん型の社会を作りあげることなしには、われわれは安全を確保できない。安全性は古典的自由主義のタテマエからすれば自己決定権の範囲はんい含まふく れる。これは自分の生命の自己防衛権と同種のものと受けとめられている。実際には、安全であるか否かは経験的に自明ではなく、信頼しんらいできる情報に依存いぞんしている。

 (加藤かとう尚武なおたけ『価値観と科学/技術』)
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長文 6.4週 waのつづき
 翌日も朝から夕方までのおよそ七時間程度の発表を終え、そして再び、夕食後を迎えむか た。私は何か特定のテーマに沿って、学生達と討論することを考えなかったわけではなかったが、昨日の風景が脳裏から離れはな なかった。昨日のあの不思議な風景は教育者としての私よりも、実験心理学者としての私をはるかに刺激しげきしていた。昨日と同じような状況じょうきょう下で、二日目の夜を学生達がはたしてどのように過ごすのだろうかという疑問の誘惑ゆうわくに、私は、こうしきれないでいた。そこで再び昨日と同様の自由時間を彼らかれ 与えるあた  ことにした。そして、結果は再現された。昨日と同様に。二日目もゲームが深夜まで展開された。
 「今の彼らかれ にはゲームをするよりも、もっと大切なことはないのだろうか。例えば自分の関心のあることを人に聞いてもらったり、人の話を聞いてみたいとは思わないのだろうか」。この再現された不思議な風景を説明するためにいささかの考察を試みようとしたが、結局成功しないまま、私は浅い眠りねむ についた。そして私の愚問ぐもんは、何の解答をも見いだせないままに、初秋を迎えむか てしまっていた。
 ところが私は一つの解答らしきものへの指針を、合宿後しばらくして研究室を訪れた一人の学生との会話の一端いったんに、見いだした。その学生の言葉を要約すると「ある種のシリアスな話題を気軽に口にしてはいけない。それは相手に重荷を背負わせることになるかもしれないし、もし相手が話に乗ってこなかった場合には、自分だけが浮き上がっう あ  てしまうかもしれないから」。言葉を補っていえば、学生達はシリアスな話題で相手を困らせたくもないし、自分自身も困りたくはないのである。そして彼らかれ は他人も自分も傷付けたくはないのである。また今までに十分、不自由な思いをしてきたから、過去の不自由さを取り戻すと もど ために、今眼前のそれが何かわからないままに、とにかく今をこなすのに忙しいいそが  のである。シリアスな状況じょうきょうに関わって困るということは立ち止ることであり、立ち止るということは彼らかれ にとって、無条件に「いけないこと」なのである。少なくともゲームをしていれば、その世界で擬似ぎじ的にシリアス
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状況じょうきょう陥るおちい としても、現実の人間関係の世界でのわずらわしさに関与かんよする機会を回避かいひできるのかもしれない。
 結論を急げば、彼らかれ は限りなく優しいのである。ただ他人に対してだけではなく、自分に対しても。また彼らかれ は幼いのではなく、幼い時期にするべきことを十分にさせてもらえなかっただけなのかもしれない。私にとって不思議と思えた風景を私自身の大学時代の記憶きおくに求めたことが間違いまちが であって、その原風景を私は高校や中学時代の記憶きおくに求めるべきだったのである。
 学生達の行動に対するこうした私の拡大解釈かいしゃくは、しかし、私を次のような杞憂きゆうへと誘うさそ 。小学校の時代に、やりたかったけれどもできなかったことを、中学校の時期へと先延ばしし、中学校でやろうと思ってもできなかったことを、高校へと先延ばしにし、高校でできなかったことを、大学に、大学でのことは、大学院へと、あるいは社会生活へと、順次先延ばしにしているのではないだろうか。(中略)
 「幸せの姿はたった一つであるが、不幸の姿は数限りない」。しかし、現今の世情を眺めるなが  と、幸せの姿は曖昧あいまいすぎて記述できず、不幸の姿はまた多すぎて記述できない。とすれば、私達には「困って立ち止る」という贅沢ぜいたくは許されていないのであり、そのために逆説的な意味で、学生達は困らないための智恵ちえとしての擬似ぎじ実践じっせん力を身に付けてきたのではないだろうか。何故なら、男女として話すことも、個人的な重荷を語ることも聞くことも、それらいっさいの作業は、すべて状況じょうきょうをシリアスに捉えとら われかれとを抜き差しぬ さ ならない人間として認識することを前提として始まるからである。すなわち、そうした状況じょうきょう認識は畢竟ひっきょうわれかれも心身両面にわたって傷つくべき生身の生きものであるという認識の共有を求めているのである。

 (斉藤さいとう洋典『幸福の順延方程式』)
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