長文集  6月4週  ○翌日も朝から夕方までの  wa-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:38:15
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 一九世紀の自由主義は、危険とは誰の目に
も見えるもので、危険回避は各自の自己決定
に委ねればいいという考え方に立脚してい 
た。危険の経験的自明性と自由主義は内側で
つながっていた。すなわちJ・S・ミルの『
自由論』が出された一八五九年には、見えな
い微生物が危険だという医学思想はまだ成立
していなかった。病原体説の成立は、コッホ
による結核菌の発見が一八八二年であり、パ
スツールによる狂犬病研究が一八八〇年以降
である。自由主義の原則は、危険の経験的自
明性というある意味では誤った想定の上に作
られてしまった。
 その後、われわれは見えない危険の時代を
迎えることになった。自動車を走らせると地
球が温暖化する。だれもその因果関係を見る
ことはできない。手に取った黒土のひとかた
まりにダイオキシンがどれだけ含まれている
か、見ることはできない。トウモロコシDN
Aの中の危険な塩基配列も見えない。吹き寄
せる風のなかの放射能も見えない。
 現代で安全性を理解するためには、「地球
全体で人間が空気の中にすてる炭酸ガスが原
因になって地球が温暖化し南極にある氷河が
溶けて、二〇年後に太平洋のなかの珊瑚礁の
国を水没させる」ということを理解しなくて
はならない。
 この文章の中には見えないものがたくさん
ある。「地球全体」は見えない。「空気の中
にすてる炭酸ガス」は見えない。「地球の温
暖化」は見えない。「炭酸ガスという原因に
よる温暖化という結 果」は見えない。「南
極の氷河」は見えない。「二〇年後」は見え
ない。「太平洋のなかの珊瑚礁」は見えない
。それではどうして「ゴミをへらせば地球を
守ることになるのか」が分かると言えるだろ
う。もしも、「疑わしいことを信じてはいけ
ない」というタテマエを守るなら、「ゴミを
へらせば地球を守ることになる」と信じては
いけないという結論になるのだろうか。
 そこで真理をつきとめることにしよう。「
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科学的真理は何度も同じ条件で実験を繰り返
すことによって確かめられる」というタテマ
エにしたがうとする。石油をたくさん燃やし
て何度も実験をして見たら、「地球に砂漠が
増える」、「たくさんの生物が絶滅する」、
「人間が生きていくための地下資源がなくな
る」、「地面の下がゴミだらけになって水が
飲めなくなる」という結果が起こったと仮定
∵しよう。やっぱり「ゴミをへらせば地球を
守ることになる」というのは正しかったとい
う結論がでるだろう。しかし、そのことを確
かめる人間は、生き物のいない砂漠で食べ物
も水もないという状況にいるかもしれない。
 「ゴミをへらせば地球を守ることになる」
が本当かどうか。何度も繰り返して確かめる
ことができない。環境問題は日常の経験だけ
では判断がつかないので、高度の専門的な知
識を学ばなくてはならない。情報依存的にし
か因果関係は把握できない。悪い結果がでて
しまった後では取り返しがつかないので、後
悔しないですむように情報を捉えて事前に予
防しなくてはならない。
 どんな事柄でも「悪い結果がでないように
完全に予防すること」はとてもむずかしい。
「風邪の予防」の場合には、予防に失敗して
もあまり心配はいらない。予防に失敗しても
風邪は必ずなおるからである。ところが「砂
漠が増える」とか「珊瑚礁が水没する」とか
「明日から使う石油がない」とか「鯨が絶滅
する」とかということは、予防に失敗したら
永遠に取り返しがつかない。完全予防という
側面からも安全の情報依存が成立する。
 ベックは、その『危険社会』(一九八六年
)で「ヒューム以後明らかとなったように、
因果関係は本質的に知覚を通じては推定でき
ない。因果関係の推定はあくまで理論に基づ
くのである」と述べている。
 安全性について情報依存型の社会を作りあ
げることなしには、われわれは安全を確保で
きない。安全性は古典的自由主義のタテマエ
からすれば自己決定権の範囲に含まれる。こ
れは自分の生命の自己防衛権と同種のものと
受けとめられている。実際には、安全である
か否かは経験的に自明ではなく、信頼できる
情報に依存している。

 (加藤尚武『価値観と科学/技術』)∵
 【1】翌日も朝から夕方までのおよそ七時
間程度の発表を終え、そして再び、夕食後を
迎えた。私は何か特定のテーマに沿って、学
生達と討論することを考えなかったわけでは
なかったが、昨日の風景が脳裏から離れなか
った。【2】昨日のあの不思議な風景は教育
者としての私よりも、実験心理学者としての
私をはるかに刺激していた。昨日と同じよう
な状況下で、二日目の夜を学生達がはたして
どのように過ごすのだろうかという疑問の誘
惑に、私は、抗しきれないでいた。【3】そ
こで再び昨日と同様の自由時間を彼らに与え
ることにした。そして、結果は再現された。
昨日と同様に。二日目もゲームが深夜まで展
開された。
 「今の彼らにはゲームをするよりも、もっ
と大切なことはないのだろうか。【4】例え
ば自分の関心のあることを人に聞いてもらっ
たり、人の話を聞いてみたいとは思わないの
だろうか」。この再現された不思議な風景を
説明するためにいささかの考察を試みようと
したが、結局成功しないまま、私は浅い眠り
についた。【5】そして私の愚問は、何の解
答をも見いだせないままに、初秋を迎えてし
まっていた。
 ところが私は一つの解答らしきものへの指
針を、合宿後しばらくして研究室を訪れた一
人の学生との会話の一端に、見いだした。【
6】その学生の言葉を要約すると「ある種の
シリアスな話題を気軽に口にしてはいけない
。それは相手に重荷を背負わせることになる
かもしれないし、もし相手が話に乗ってこな
かった場合には、自分だけが浮き上がってし
まうかもしれないから」。【7】言葉を補っ
ていえば、学生達はシリアスな話題で相手を
困らせたくもないし、自分自身も困りたくは
ないのである。そして彼らは他人も自分も傷
付けたくはないのである。また今までに十分
、不自由な思いをしてきたから、過去の不自
由さを取り戻すために、今眼前のそれが何か
わからないままに、とにかく今をこなすのに
忙しいのである。【8】シリアスな状況に関
わって困るということは立ち止ることであ 
り、立ち止るということは彼らにとって、無
条件に「いけないこ と」なのである。少な
くともゲームをしていれば、その世界で擬似
的にシリアス∵な状況に陥るとしても、現実
の人間関係の世界でのわずらわしさに関与す
る機会を回避できるのかもしれない。
 【9】結論を急げば、彼らは限りなく優し
いのである。ただ他人に対してだけではなく
、自分に対しても。また彼らは幼いのではな
く、幼い時期にするべきことを十分にさせて
もらえなかっただけなのかもしれない。【0
】私にとって不思議と思えた風景を私自身の
大学時代の記憶に求めたことが間違いであっ
て、その原風景を私は高校や中学時代の記憶
に求めるべきだったのである。
 学生達の行動に対するこうした私の拡大解
釈は、しかし、私を次のような杞憂へと誘う
。小学校の時代に、やりたかったけれどもで
きなかったことを、中学校の時期へと先延ば
しし、中学校でやろうと思ってもできなかっ
たことを、高校へと先延ばしにし、高校でで
きなかったことを、大学に、大学でのことは
、大学院へと、あるいは社会生活へと、順次
先延ばしにしているのではないだろうか。(
中略)
 「幸せの姿はたった一つであるが、不幸の
姿は数限りない」。しかし、現今の世情を眺
めると、幸せの姿は曖昧すぎて記述できず、
不幸の姿はまた多すぎて記述できない。とす
れば、私達には「困って立ち止る」という贅
沢は許されていないのであり、そのために逆
説的な意味で、学生達は困らないための智恵
としての擬似実践力を身に付けてきたのでは
ないだろうか。何故なら、男女として話すこ
とも、個人的な重荷を語ることも聞くことも
、それらいっさいの作業は、すべて状況をシ
リアスに捉え、吾と彼とを抜き差しならない
人間として認識することを前提として始まる
からである。すなわ ち、そうした状況認識
は畢竟、吾も彼も心身両面にわたって傷つく
べき生身の生きものであるという認識の共有
を求めているのであ る。

 (斉藤洋典『幸福の順延方程式』)