長文集  6月2週  ★科学技術は地域や民族の(感)  wa-06-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】科学技術は地域や民族の差異を越え
、それゆえにヨーロッパに生まれたという出
自の制約を抜け出て、全地球に広がった。そ
の普遍性は、あたかもすべてを均等にきりそ
ろえる刃物のような硬さをもって地域文化を
水平化し、生活空間を均一化し、社会システ
ムを一元化していく。【2】その傾向は「硬
い普遍性」をもっている。それに対し、文化
は特定の地域の伝統や民族のエトスに育まれ
るものとして本性上ローカルな性格をもちな
がら、しかも、ある「柔らかい普遍性」をふ
くんでいる。文化の柔らかい普遍性は、究極
的には宗教の普遍性にあらわれるといってよ
いであろう。【3】宗教はかならずその発生
地のローカルな神観念や自然観と密接にむす
びつき、民族宗教的でありながら、しかも人
間の生死にかかわる事柄として、大なり小な
りユニヴァーサルで世界宗教的な側面をもつ
のである。
 【4】簡単な言い方をすれば、ヨーロッパ
においては、科学技術の硬い普遍性と文化の
柔らかい普遍性とは根本的には対立すること
なく、いわば同心円をなしたのである。それ
は科学技術が自らの精神の自発自展だったと
いうことと同じである。【5】厳密に言え 
ば、「技術」を受け入れる地盤に文化のエト
スがふくまれる以上、技術それ自体は必ずそ
の内に「柔らかい普遍性」をふくむはずであ
る。一元性の硬さは、厳密には技術にではな
くて科学に帰せられ る。【6】ヨーロッパ
では、科学の思考が自らの精神そのものに胚
胎していたがゆえに、柔らかさの中心が硬い
科学技術の殻を形成したといえる。
 そのことは一見普遍的に見えたヨーロッパ
的世界が、実はひとつのローカルな地域であ
ることを意味する。【7】もちろん科学技術
によって可能となった牧歌的「文明」が、「
文化」の精神性を脅かすという危機意識は、
いろいろな思想家において表明された。しか
し、それは、ヨーロッパ精神の内部での危機
意識にとどまっていたのである。【8】それ
はどこまでも「自己」批判であり、その自己
のうちに非ヨーロッパ世界という「他者」を
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含むことはなかった。
 それに対して、日本近代がヨーロッパ近代
の受容をともなって成立したとき、両者は同
心円を形成するわけではなかった。【9】硬
い普遍性と柔らかい普遍性とは、いわばそれ
ぞれの中心をずらして∵併存(へいぞん)し
つつ、同一のエポックを形成したのである。
あるいは、柔らかい普遍性がいろいろの中心
を併存せしめ、そのひとつとして科学技術を
内につつんだのである。【0】その多中心的
な複合構造が、自己同一性を基本とするヨー
ロッパ近代と日本近代の構造上のちがいだと
もいえる。
 分かりやすい例をひとつ挙げよう。火薬の
発明により戦争の仕方が一変したことは、周
知のとおりである。そのことは、洋の東西に
おいて同じである。しかし子細(しさい)に
みればどうか。ドイツの文化史家フリーデル
がその名著『近世文化史』の中で指摘したよ
うに、火薬の発明によって人間のあり方が変
わった。「騎士」は「兵士」になったのであ
る。自分の名をもち、名を名乗ることによっ
て戦いを始め、自分と自分の家門の名誉を何
より重んじた騎士の武芸は、鉄砲の前には児
戯に等しいものとなり、それに対抗すべく騎
士は兵士となった。人間はそれによって、鉄
砲と同じくひとつの部品として調達される、
代替可能な存在となった。(中略)
 それに対して、日本では事情は異なってい
た。武士は火薬の発明以後に代替可能で、匿
名の兵士というあり方を兼ねつつも、武士と
いうあり方を失わなかったのである。日本の
「武士」は、別のエトスの中で生きていたか
らである。武士と主君とをむすびつけたもの
は、解消可能な「契約」ではなくて、領地を
媒体とした共同体意識である。そこでは、自
己の主体性を主張し、他を客体として吟味す
るという姿勢はない。暗愚の主君だから仕え
ることを止めるといえば、ヨーロッパの契約
の精神からすればあり得るが、日本の武士道
の精神では理にそむく。主君に仕えるという
ことは自分の主体的決断でなされることでは
なくて、自分の決定以前のことなのである。
そこでは、主体性の確立よりは自我の滅却が
尊ばれる。そういう武士にとって、火薬や鉄
砲は文字どおり舶来の武器である。彼らは、
その舶来の武器を駆使するようになった。し
かし武士はそれによって戦争の仕方を一変さ
せはしたが、武士であることを止めなかった
のである。
(大橋良介「武士的なもの、ヨーロッパ的な
もの」)