長文 6.1週
1.【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
2. 【1】ケンタウロスは、人間の上半身に馬のどうあしがついた生き物だ。人魚ひめは、人間の上半身に魚のどうがついている。インドのガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がついている。これらの不思議な神話上の生物を作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手に入れつつある。【2】科学の進歩は、科学の悪用の可能性と不可分の関係にある。その典型的な分野のひとつが、かく物理学である。物質が持っている膨大ぼうだいな熱量の可能性を、人間はエネルギーとして利用することもできるし、兵器として利用することもできる。【3】同様のことが、バイオテクノロジーの未来についても言えるのではないか。
3. バイオテクノロジーの今後の発展から予想される第一の問題は、できることとやっていいことは違うちが という区別の基準がまだはっきりしていないことである。【4】遺伝子の解析かいせき技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病しっぺいの改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝的素質による就職や結婚けっこんの差別を生み出すことにもつながる可能性がある。人類のこれまでの歴史は、無条件に病気を悪、健康を善としてきた。【5】しかし、不老不死が技術的に可能になりつつある時代に大切なのは、いかに生きるかという技術よりもいかによりよく生きるかという哲学てつがくである。自然界を見ればわかるように、生き物はみな成長し子孫を残し年老いて死んでいく。【6】永遠の生命を求めることは、大きく見れば自然の摂理せつりに反することではないだろうか。自然の摂理せつりと人間の倫理りんりの統合がこれから求められてくる。
4. 問題点の第二は、科学の発達による恩恵おんけいが強力なものであればあるほど、あとでその弊害へいがいがわかったときに、手後れとなることも多いということである。【7】特に、生命に関することについては、人間の知識は肝心かんじんなことは何もわかっていないと言ってよい。生命を生み出す知識さえないのに、生命を部分的に操作する技術だけはあるという状態が最も危険なのだ。【8】この危険性を防ぐためには、多様性の確保を技術の発達以上に優先することだ。農業の品種改良で、F1雑種による成果が取り上げられることは多いが、それが地域固有種の絶滅ぜつめつに結びつくようなことがあってはならない。大きな恩恵おんけいは、大きな弊害へいがいと裏腹の関係にある。∵
5. 【9】バイオテクノロジーは大きな可能性を秘めている。それは、肉体の変容だけでなく、精神の変容に生かすことさえできるようになるだろう。大切なのは、その可能性を発展させるか、その危険性を抑止よくしするかということではない。【0】どのような技術も、それを生かす社会の仕組みによって、人間を助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武器にもなる。ケンタウロスや人魚ひめやガネーシャが人間と一緒いっしょに暮らすようになってもよい。しかし、大事なことは、すべての生物が自分の存在に自信と誇りほこ と喜びを感じて生きていくための技術でなければならないということである。

6.(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
7. 【1】美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言いあらわす言葉である。自然はその創造するすべてのものに、美という性質のほかは与えあた ない。もとよりそれは、美という性質を与えよあた  うと自然が望んだ結果与えあた られた性質ではなく、自性としてそうなった性質である。【2】たとえば、花はどんな種類の花でも同じ美という性質を持っている。そしてその美しさは、花が自然の造化によって生れたために、本質的にそなわっている性質なのである。それを私たちは美と呼ぶのだ。
8. 【3】美はだから、人間の存在以前から、滅亡めつぼうのあとまで、自然が存在して造化を続ける限り、人間に関係なく持続し続ける性質であることを、確かに承知し直さなければならない。この美に惹かひ れ、あやかろうとして、人間は創作活動を営んだ。【4】東洋的な考えかたでは、自然美を手本とすることで人間の造型活動が行われ、西洋的な意図では、自然美を補いあるいは自然美を超越ちょうえつする造型美を得ようとして、造型活動が営まれてきた。【5】概括がいかつ的な言い方ではあるけれども、その永い歴史において生み出されてきた造型作品の美しさとは、畢竟ひっきょう人間の能力が自然の造化の力に立ち向かって、どこまで肉迫にくはくし得たかの記録にほかならない。芸術美とか、個性美とか、言葉のあやはいくらでも織れる。【6】しかし人間の造型の美しさは、自然美の前では多くは低い次元の美であった。なぜ低い次元の美と言わざるを得ないのか。究極性、価値性において、それは相対性の範囲はんい内にとどまりがちだからである。
9. 【7】自然の美の本質は、美醜びしゅうの対立を超越ちょうえつしたところにある。自然には醜いみにく ものがない。醜いみにく ものに対する美しいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの性質において美しいのだ。この超越ちょうえつ性の故に自然美は究極の美であり得る。【8】しかるに人間の造型美は、人間が持つところの意識や欲望や迷妄めいもう懐疑かいぎ、その他もろもろの執着心しゅうちゃくしんの規制を、どうしても受けざるを得ない。美しいものを作ろうとする意識、美しいものを作ることで自分の才能をひろく一般いっぱんに認めさせようという欲望、【9】生きることについてのさまざまの迷妄めいもう、存在に関する懐疑かいぎ、要するに仏教の言う煩悩ぼんのうは、ただ生み出すだけの自然の無心の美を、人間の創造に容易に許してくれな∵いのである。規制され限定された美、人間の個性の範囲はんいの美、特殊とくしゅな性質の美。【0】それらはいずれもの対立概念がいねんとしての美にとどまって、自然美の超越ちょうえつ性にまで到達とうたつすることが困難なのである。
10. 無論、それを可能にした時と場合もあった。人間が煩悩ぼんのう脱しだっ た状態でものを作る場合、自然と同じような無心の行為こういをとり得た場合、そこには美醜びしゅうの二元を越えこ た美が生れ得た。原始の美、宗教造型の美、民芸の美、そして個人の能力が煩悩ぼんのう超克ちょうこくした美。それらは自然美と同じような性質をあらわしていることを、私たちは容易に知ることができる。
11. けれども、近代に始まった美術は、当初から人間の能力に絶対的な信頼しんらいをおいて出発したものであり、才能と個性への賛美によって貫かつらぬ れてきた。自我を基調とし、煩悩ぼんのうを素材とする方向を目指してきた。人間性の認識を目途もくととする近代の成行は、人間の作り出す美にしか関心を示さず、視界に入れなくなってしまった。美の基準は個性におかれ、と対立する美という範囲はんい内でしか考えられなくなり、自ら美の次元を低い段階に限定する状態となったのであった。

12.(水尾みずお比呂志ひろし「美の終焉しゅうえん」より)