長文集  6月1週  ★美とは、本来、自然の(感)  wa-06-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/16 04:09:52
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の
長文は課題の長文で す。】
 【1】ケンタウロスは、人間の上半身に馬
の胴と脚がついた生き物だ。人魚姫は、人間
の上半身に魚の胴と尾がついている。インド
のガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がつ
いている。これらの不思議な神話上の生物を
作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手
に入れつつある。【2】科学の進歩は、科学
の悪用の可能性と不可分の関係にある。その
典型的な分野のひとつが、核物理学である。
物質が持っている膨大な熱量の可能性を、人
間はエネルギーとして利用することもできる
し、兵器として利用することもできる。【3
】同様のことが、バイオテクノロジーの未来
についても言えるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後の発展から予想
される第一の問題は、できることとやってい
いことは違うという区別の基準がまだはっき
りしていないことである。【4】遺伝子の解
析技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病の
改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝
的素質による就職や結婚の差別を生み出すこ
とにもつながる可能性がある。人類のこれま
での歴史は、無条件に病気を悪、健康を善と
してきた。【5】しかし、不老不死が技術的
に可能になりつつある時代に大切なのは、い
かに生きるかという技術よりもいかによりよ
く生きるかという哲学である。自然界を見れ
ばわかるように、生き物はみな成長し子孫を
残し年老いて死んでいく。【6】永遠の生命
を求めることは、大きく見れば自然の摂理に
反することではないだろうか。自然の摂理と
人間の倫理の統合がこれから求められてく 
る。
 問題点の第二は、科学の発達による恩恵が
強力なものであればあるほど、あとでその弊
害がわかったときに、手後れとなることも多
いということである。【7】特に、生命に関
することについては、人間の知識は肝心なこ
とは何もわかっていないと言ってよい。生命
を生み出す知識さえないのに、生命を部分的
に操作する技術だけはあるという状態が最も
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
危険なのだ。【8】この危険性を防ぐために
は、多様性の確保を技術の発達以上に優先す
ることだ。農業の品種改良で、F1雑種によ
る成果が取り上げられることは多いが、それ
が地域固有種の絶滅に結びつくようなことが
あってはならない。大きな恩恵は、大きな弊
害と裏腹の関係にある。∵
 【9】バイオテクノロジーは大きな可能性
を秘めている。それ は、肉体の変容だけで
なく、精神の変容に生かすことさえできるよ
うになるだろう。大切なのは、その可能性を
発展させるか、その危険性を抑止するかとい
うことではない。【0】どのような技術も、
それを生かす社会の仕組みによって、人間を
助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武
器にもなる。ケンタウロスや人魚姫やガネー
シャが人間と一緒に暮らすようになってもよ
い。しかし、大事なことは、すべての生物が
自分の存在に自信と誇りと喜びを感じて生き
ていくための技術でなければならないという
ことである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】美とは、本来、自然の造化による創
造物の性質を言いあらわす言葉である。自然
はその創造するすべてのものに、美という性
質のほかは与えない。もとよりそれは、美と
いう性質を与えようと自然が望んだ結果与え
られた性質ではなく、自性としてそうなった
性質である。【2】たとえば、花はどんな種
類の花でも同じ美という性質を持っている。
そしてその美しさは、花が自然の造化によっ
て生れたために、本質的にそなわっている性
質なのである。それを私たちは美と呼ぶのだ

 【3】美はだから、人間の存在以前から、
滅亡のあとまで、自然が存在して造化を続け
る限り、人間に関係なく持続し続ける性質で
あることを、確かに承知し直さなければなら
ない。この美に惹か れ、あやかろうとして
、人間は創作活動を営んだ。【4】東洋的な
考えかたでは、自然美を手本とすることで人
間の造型活動が行わ れ、西洋的な意図では
、自然美を補いあるいは自然美を超越する造
型美を得ようとして、造型活動が営まれてき
た。【5】概括的な言い方ではあるけれども
、その永い歴史において生み出されてきた造
型作品の美しさとは、畢竟人間の能力が自然
の造化の力に立ち向かって、どこまで肉迫(
にくはく)し得たかの記録にほかならない。
芸術美とか、個性美とか、言葉の綾はいくら
でも織れる。【6】しかし人間の造型の美し
さは、自然美の前では多くは低い次元の美で
あった。なぜ低い次元の美と言わざるを得な
いのか。究極性、価値性において、それは相
対性の範囲内にとどまりがちだからである。
 【7】自然の美の本質は、美醜の対立を超
越したところにある。自然には醜いものがな
い。醜いものに対する美しいものがあるので
はなくて、どんなものもそのままの性質にお
いて美しいのだ。この超越性の故に自然美は
究極の美であり得る。【8】しかるに人間の
造型美は、人間が持つところの意識や欲望や
迷妄や懐疑、その他もろもろの執着心の規制
を、どうしても受けざるを得ない。美しいも
のを作ろうとする意識、美しいものを作るこ
とで自分の才能をひろく一般に認めさせよう
という欲望、【9】生きることについてのさ
まざまの迷妄、存在に関する懐疑、要するに
仏教の言う煩悩は、ただ生み出すだけの自然
の無心の美を、人間の創造に容易に許してく
れな∵いのである。規制され限定された美、
人間の個性の範囲の 美、特殊な性質の美。
【0】それらはいずれも醜()の対立概念と
しての美にとどまって、自然美の超越性にま
で到達することが困難なのである。
 無論、それを可能にした時と場合もあった
。人間が煩悩を脱した状態でものを作る場合
、自然と同じような無心の行為をとり得た場
合、そこには美醜の二元を越えた美が生れ得
た。原始の美、宗教造型の美、民芸の美、そ
して個人の能力が煩悩を超克した美。それら
は自然美と同じような性質をあらわしている
ことを、私たちは容易に知ることができる。
 けれども、近代に始まった美術は、当初か
ら人間の能力に絶対的な信頼をおいて出発し
たものであり、才能と個性への賛美によって
貫かれてきた。自我を基調とし、煩悩を素材
とする方向を目指してきた。人間性の認識を
目途とする近代の成行は、人間の作り出す美
にしか関心を示さず、視界に入れなくなって
しまった。美の基準は個性におかれ、醜()
と対立する美という範囲内でしか考えられな
くなり、自ら美の次元を低い段階に限定する
状態となったのであった。

(水尾比呂志「美の終焉」より)