ワタスゲ の山 6 月 1 週 (5)
★美とは、本来、自然の(感)   池新  
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】ケンタウロスは、人間の上半身に馬の胴と脚がついた生き物だ。人魚姫は、人間の上半身に魚の胴と尾がついている。インドのガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がついている。これらの不思議な神話上の生物を作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手に入れつつある。【2】科学の進歩は、科学の悪用の可能性と不可分の関係にある。その典型的な分野のひとつが、核物理学である。物質が持っている膨大な熱量の可能性を、人間はエネルギーとして利用することもできるし、兵器として利用することもできる。【3】同様のことが、バイオテクノロジーの未来についても言えるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後の発展から予想される第一の問題は、できることとやっていいことは違うという区別の基準がまだはっきりしていないことである。【4】遺伝子の解析技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病の改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝的素質による就職や結婚の差別を生み出すことにもつながる可能性がある。人類のこれまでの歴史は、無条件に病気を悪、健康を善としてきた。【5】しかし、不老不死が技術的に可能になりつつある時代に大切なのは、いかに生きるかという技術よりもいかによりよく生きるかという哲学である。自然界を見ればわかるように、生き物はみな成長し子孫を残し年老いて死んでいく。【6】永遠の生命を求めることは、大きく見れば自然の摂理に反することではないだろうか。自然の摂理と人間の倫理の統合がこれから求められてくる。
 問題点の第二は、科学の発達による恩恵が強力なものであればあるほど、あとでその弊害がわかったときに、手後れとなることも多いということである。【7】特に、生命に関することについては、人間の知識は肝心なことは何もわかっていないと言ってよい。生命を生み出す知識さえないのに、生命を部分的に操作する技術だけはあるという状態が最も危険なのだ。【8】この危険性を防ぐためには、多様性の確保を技術の発達以上に優先することだ。農業の品種改良で、F1雑種による成果が取り上げられることは多いが、それが地域固有種の絶滅に結びつくようなことがあってはならない。大きな恩恵は、大きな弊害と裏腹の関係にある。∵
 【9】バイオテクノロジーは大きな可能性を秘めている。それは、肉体の変容だけでなく、精神の変容に生かすことさえできるようになるだろう。大切なのは、その可能性を発展させるか、その危険性を抑止するかということではない。【0】どのような技術も、それを生かす社会の仕組みによって、人間を助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武器にもなる。ケンタウロスや人魚姫やガネーシャが人間と一緒に暮らすようになってもよい。しかし、大事なことは、すべての生物が自分の存在に自信と誇りと喜びを感じて生きていくための技術でなければならないということである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言いあらわす言葉である。自然はその創造するすべてのものに、美という性質のほかは与えない。もとよりそれは、美という性質を与えようと自然が望んだ結果与えられた性質ではなく、自性としてそうなった性質である。【2】たとえば、花はどんな種類の花でも同じ美という性質を持っている。そしてその美しさは、花が自然の造化によって生れたために、本質的にそなわっている性質なのである。それを私たちは美と呼ぶのだ。
 【3】美はだから、人間の存在以前から、滅亡のあとまで、自然が存在して造化を続ける限り、人間に関係なく持続し続ける性質であることを、確かに承知し直さなければならない。この美に惹かれ、あやかろうとして、人間は創作活動を営んだ。【4】東洋的な考えかたでは、自然美を手本とすることで人間の造型活動が行われ、西洋的な意図では、自然美を補いあるいは自然美を超越する造型美を得ようとして、造型活動が営まれてきた。【5】概括的な言い方ではあるけれども、その永い歴史において生み出されてきた造型作品の美しさとは、畢竟人間の能力が自然の造化の力に立ち向かって、どこまで肉迫(にくはく)し得たかの記録にほかならない。芸術美とか、個性美とか、言葉の綾はいくらでも織れる。【6】しかし人間の造型の美しさは、自然美の前では多くは低い次元の美であった。なぜ低い次元の美と言わざるを得ないのか。究極性、価値性において、それは相対性の範囲内にとどまりがちだからである。
 【7】自然の美の本質は、美醜の対立を超越したところにある。自然には醜いものがない。醜いものに対する美しいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの性質において美しいのだ。この超越性の故に自然美は究極の美であり得る。【8】しかるに人間の造型美は、人間が持つところの意識や欲望や迷妄や懐疑、その他もろもろの執着心の規制を、どうしても受けざるを得ない。美しいものを作ろうとする意識、美しいものを作ることで自分の才能をひろく一般に認めさせようという欲望、【9】生きることについてのさまざまの迷妄、存在に関する懐疑、要するに仏教の言う煩悩は、ただ生み出すだけの自然の無心の美を、人間の創造に容易に許してくれな∵いのである。規制され限定された美、人間の個性の範囲の美、特殊な性質の美。【0】それらはいずれも醜()の対立概念としての美にとどまって、自然美の超越性にまで到達することが困難なのである。
 無論、それを可能にした時と場合もあった。人間が煩悩を脱した状態でものを作る場合、自然と同じような無心の行為をとり得た場合、そこには美醜の二元を越えた美が生れ得た。原始の美、宗教造型の美、民芸の美、そして個人の能力が煩悩を超克した美。それらは自然美と同じような性質をあらわしていることを、私たちは容易に知ることができる。
 けれども、近代に始まった美術は、当初から人間の能力に絶対的な信頼をおいて出発したものであり、才能と個性への賛美によって貫かれてきた。自我を基調とし、煩悩を素材とする方向を目指してきた。人間性の認識を目途とする近代の成行は、人間の作り出す美にしか関心を示さず、視界に入れなくなってしまった。美の基準は個性におかれ、醜()と対立する美という範囲内でしか考えられなくなり、自ら美の次元を低い段階に限定する状態となったのであった。

(水尾比呂志「美の終焉」より)