長文集  5月4週  ○コミュニケーション・システムの場合も  wa-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:37:34
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 新しい言葉の指す新しい事柄を人はどうや
って理解するのか。そこにはほとんど常に、
既知の事柄へのなぞらえという作業があるの
ではないだろうか。こうした観点から「なぞ
らえ」が人の概念体系の根底にあることを説
くのがレイコフとジョンソンである。
 彼らの共著『レトリックと人生』の主旨を
一言で要約するなら、「われわれが普段、も
のを考えたり行動したりする際に基づいてい
る概念体系の本質は、根本的にメタファーに
よって成り立ってい る」ということである
。彼らの言う「メタファー」は表現技巧とし
ての隠喩ではない。理解や思考のための方略
である。彼らの規定によれば「メタファーの
本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解 
し、経験することである」。この「メタファ
ー」を日本語にするならば、「隠喩」よりも
「なぞらえ」という方が適切であろう。即ち
彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほか
ならない。「筆者らは人間の思考過程の大部
分がメタファーによって成り立っていると言
いたい」という彼らの主張は、人の思考がロ
ゴスよりも「なぞら え」に依存していると
いうことである。
 彼らは「概念」を、「固有の属性」によっ
て定義されるものではなく、むしろ各人にと
っての意味であり、従って各人が理解してい
るもののことであると考える。そして、ある
概念についての私たちの理解は、その大部分
が他の概念へのなぞらえによってなされてい
るとする。ただし、それは一観念を他の一観
念と比較することではない。「理解というも
のは、経験の領域全体に基づいて生ずるので
あって、個々の観念に基づいて生じるのでは
ない」からである。言い換えれば、私たちが
理解するものはコトの経験という全体であっ
て、個々の観念はその構成要素にすぎない。
むしろ観念はそのコトの中に位置づけられる
ことによって意味を得るのである。「なぞら
え」とは、既に理解ずみの経験領域に基づい
て未知の経験領域を理解することである。そ
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こで理解されるものは、二つの領域に共通す
る経験の「型」である。これをレイコフらは
「経験のゲシュタル ト」と呼ぶ。「なぞら
え」とは、ある領域に、別の領域の「経験の
∵ゲシュタルト」をあてはめて、その事柄を
理解することなのである。たとえば「議論」
についての理解は「戦争」のメタファーに基
づいていると彼らが言うとき、それは議論と
いうコトの経験の領域全体、即ち開始があり
、敵と味方があり、攻撃と防御があり、勝利
と敗北があるという、議論経験の全体が「戦
争」と同じ構造をもつものとして理解されて
いるということである。
 さらにレイコフらは言う。
 「重要なことは、私たちは単に戦争用語を
用いて議論のことを語っているだけではない
ということである。議論には現実に勝ち負け
があり、議論の相手は敵とみなされ、相手の
議論の立脚点(=陣 地)を攻撃し、自分の
それを守る。優勢になったり、劣勢になった
りする。戦略をたて、実行に移す。自分の議
論の立脚点(=陣地)が守りきれないとわか
れば、それを放棄して新たな戦線をしく。議
論の中でわれわれが行うことの多くは、部分
的ではあるが戦争という概念によって構造を
与えられているのである。」
 もちろんレイコフらが念頭においているの
は英語の「議論」の概念だが、日本語でも事
情は変わらないだろう。もっとも文化が違え
ば概念が違うことはありうる。そこで彼らは
「議論」を「ダンス」のメタファーによって
理解している文化を想像してみる。論者は踊
り手とみなされ、議論の目的は見た目に美し
く論じあうことにな る。多分人々は議論に
ついて「息が合わない」とか「創造性に乏し
く単調だ」とか「中だるみはあったが最後は
うまく決まった」などと語るだろう。そして
言うまでもなく、概念の異なる文化において
は、行動も異なるであろう。
 「われわれは議論を戦争とみなし、戦争を
するような議論の仕方をするが、彼らはダン
スとみなして、ダンスをするような仕方で議
論をする、ということになるであろう。」
 私たちの概念のほとんどは、他の概念への
「なぞらえ」によって理解されているという
ことである。従って、私たちの概念体系は「
なぞらえ」を原理として構築されているとい
うことである。

 (尼ケ崎彬の文章)∵
 【1】コミュニケーション・システムの場
合も、少し以前の交通システムは多分にツリ
ー型だった。だから交通ストがあると社会問
題になったわけですが、最近はあまり問題に
ならない。【2】スト慣れということもあり
ますが、それだけではなく交通システム自体
がだんだんネット状になり、代替経路が確保
されるようになったということがあります。
ツリー型のシステムでは、二つのセットのオ
ーヴァーラップ、重なりあい、そこから生ず
る両義性というものは本来許されない。【3
】しかし実際のリヴィング・システムでは、
あとでのべますように、ツリー型のシステム
がそのままであることは珍しく、裏のシステ
ムや補完システムが非公式に形成されます。
 それにたいしてもう一つのシステム・モデ
ルは網状交叉図式で す。(中略)【4】た
とえば3というメンバーは1、2、3を含む
クラスに属すると同時に、3、4、5を含む
クラスに属している し、3、4、5、6を
含むクラスにも属している。そういう点では
ある意味での多義性がそこに生まれてくる。
 【5】身の構造は、多分にこういう交叉型
網状図式の構造をもっている。一般に人工的
なシステムはツリー的な性格をもつものが多
いのにたいして、自然発生的なシステムはセ
ミ・ラティス的あるいはむしろネットワーク
的である。【6】クリストファー・アレグザ
ンダーという人は都市デザイナーですが、二
〇世紀に考案されたル・コルビュジエからニ
ーマイアー、丹下健三にいたるすべての都市
計画は、全部ツリー型だということをはっき
りさせた。【7】それにたいして自然に形成
されてきた都市、あるいは最初は計画都市で
あっても歴史のなかで自然都市に近くなって
きた都市(たとえば京都)は、セミ・ラティ
ス的な構造をもっているということを指摘し
ています。
 【8】またさまざまな芸術作品が構成する
間テキスト空間とか文化空間というようなも
のを考えてみると、その構造は多分に交叉型
の網状図式となっている。一般に人間の生世
界にかかわるリヴィング・システムは、たえ
ずクラスが重合し多義的になる。グラフでい
えばネットワーク状の形式をもつようになり
ます。(中略)∵
 【9】組織図としては、こういう組織をと
る会社はまだ少ないわけで、ほとんどの会社
がツリー的な組織図をとっている。しかしよ
く考えてみますと、それでは成りたってゆか
ない。そこで無意識的にツリーを補完する非
公式の制度として活用されているのが、たと
えば広い意味での宴会政治である。【0】つ
まり一時的に裏の組織がつくられて、宴会の
席ではこの上下関係や業務のなわばりがある
程度破られるわけですね。これを〈シャドー
・システム〉と呼びたいと思います。組織を
考える上で重要なのは、組織図に現われたメ
インのシステムだけではなく、実際のはたら
きの上で補構造をなしているシャドー・シス
テムを含めた組織全体のはたらきをとらえる
ことです。
 宴会政治とまではゆかなくても、たとえば
4のメンバーが6のメンバーの仕事と密接に
関係することをやっていて、調整したいとい
う場合、ふつうは上司を通して交渉しなけれ
ばいけないけれども、前もって、まあ一杯や
ろうというわけで根回しをするというような
ことが行われる。そういうツリー型のシステ
ムの裏の補構造ともいうべきものが、タテ社
会ではどうしても必要になってくるのではな
いか。
 それを意識的に表面化し、公式に制度化す
る試みが最近盛んになってきました。たとえ
ばプロジェクト・チームというのは、いろん
な部署から専門家を選び、元の部署での上下
関係はあるていど解体して、そのプロジェク
トにふさわしい組織を一時的につくるという
アド・ホック・システムです。松戸市に「す
ぐやる課」というのがあります。あれはツリ
ー型の組織の不備を補い、ネットワーク型の
はたらきをもたせるための制度化されたゲリ
ラ型組織ということができます。
 (市川浩『「身」の構造』)