長文集  5月3週  ★知人に「釣り」を(感)  wa-05-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】知人に「釣り」をするのがいる。た
だし、趣味というわけではない。「その間だ
け何も考えずにいることが出来るんだ」と、
彼は言っている。「パチンコ」をする、とい
うのもいる。これも、景品をせしめようとか
、そのこと自体が楽しいから、というのでは
ない。【2】「あれをしていると一時的に空
白になっていられるからね」と言うのである

 このほか「料理」をするというのもいれば
「推理小説」を読む、というのもいる。いず
れも、仕事としてそれをやっているのでもな
ければ、趣味としてそれを楽しんでいるので
もない。【3】奇妙な言い方ではあるが、そ
れらをすることによってしか、「何もしてい
ない」状況が維持出来ない、というわけだ。
 これを、趣味の堕落と言うべきか、趣味と
は本来そのようなものであると言うべきか、
よくわからない。【4】ともかく現在、「何
もしないでいる」状態を、「何もしない」こ
とで維持することは難しいのである。ぼんや
りしているとこれまでの仕事の続き、これか
らの仕事の予定などが襲来し、「あれをこう
して、これをああし て」と、たちまちいた
たまれなくなってしまう。【5】「何もしな
いでいる」ためには、「そうでないこと」を
真剣にやることによって、それらを締め出し
てしまわなければいけないのである。
 もちろん「それほどまでにして、何もしな
いでいる状態なんか作り出さなくたっていい
じゃないか。」と、よそ目にはそう思える。
【6】しかし、そうではない。前述した理由
で「釣り」をしたり、「パチンコ」をしたり
、「料理」をしたりしている人々を見れば、
よくわかる。彼らは、酸素の足りなくなった
水の中の金魚が、水面に出て口をパクパクさ
せるように、かなり切迫して「何もしないで
いる」ことを求めているのである。
 【7】日常生活における「何もしないでい
る」時間というのは、芝居の「暗転」や「幕
間」と似ている。多くの観客がここでホッと
するのは、こらえていたオシッコをするため
にトイレに駆けこめるからではない。【8】
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
無意識にではあれ、それまで「流れ」として
連続していた時間を、「積み重ね」として体
験し直すことが出来るからであり、その呪縛
から逃れ出ることが出来るからである。∵
 【9】「時間は、流れるものではなく積み
重なるものである。」という何かのコマーシ
ャルにテレビで時々お目にかかるが、我々 
は、恐らく、この「流れる」時間と、「積み
重なる」時間の双方を交互に体験することに
なっており、ただここへきて「流れる」時間
の呪縛力が強くなっているのだろう。【0】
それを「積み重ねる」時間として体験し直す
ための「暗転」と「幕間」が、日常生活の中
でつかまえ難くなってきているのかもしれな
い。
 もちろん、「睡眠」ということがある。こ
れまで我々は、「眠ること」によって、「流
れる」時間を「つみ重ねる」時間として体験
し直してきたと言えるだろう。日が変わり、
週が変わり、月が変わり、季節が変わり、年
が変わるごとに、我々は「流れ」を「積み重
ね」に切りかえてきたのである。しかしどう
だろうか。「不眠症」が増えたり、それでな
くとも「眠り」が浅くなったというものが増
えているように、日や週や月や季節や年の「
変わり目」のメリハリも、何となく薄れてき
つつあるような気がする。
 つまり「流れる」時間については、放っと
いても体験出来るし、むしろそれに呪縛され
ている感が強いのだが、「積み重ねる」時間
については、我々自身が意識し、工夫しなけ
れば体験出来ないことになりつつあるのでは
ないだろうか。「暗転」と「幕間(まくあ 
い)」を、個々人が日常生活の中で意識的に
作り出さなければいけないのであり、そうし
ないと酸欠状態に陥って、呼吸が出来なくな
るような気配すら感じるのである。(中略)
 かつての「趣味人」は、「流れる」時間か
らちょっとはずれた所にいて、「積み重ねる
」時間の中で、何ごとかをしていた。その知
恵を、現代人が学びはじめた、ということか
もしれない。ただし、前述したように現代人
のそれは、必ずしも趣味とは言えない。現代
のそれは、「積み重ねる」時間の中で「何ご
とかをしている」ことよりも、「流れる」時
間の中で「何もしていない」ことの方が重要
で、必死になってそれにすがりついているか
らにほかならない。
 最近、「釣り」も「パチンコ」も「料理」
も、「推理小説」も流行っているらしいが、
それはそれら自体の手柄ではない。それらは
「何もしないでいる」ための手続きにすぎな
いのだ。
(別役実「カナダのさけの笑い」による)