ワタスゲ の山 5 月 3 週 (5)
★知人に「釣り」を(感)   池新  
 【1】知人に「釣り」をするのがいる。ただし、趣味というわけではない。「その間だけ何も考えずにいることが出来るんだ」と、彼は言っている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、景品をせしめようとか、そのこと自体が楽しいから、というのではない。【2】「あれをしていると一時的に空白になっていられるからね」と言うのである。
 このほか「料理」をするというのもいれば「推理小説」を読む、というのもいる。いずれも、仕事としてそれをやっているのでもなければ、趣味としてそれを楽しんでいるのでもない。【3】奇妙な言い方ではあるが、それらをすることによってしか、「何もしていない」状況が維持出来ない、というわけだ。
 これを、趣味の堕落と言うべきか、趣味とは本来そのようなものであると言うべきか、よくわからない。【4】ともかく現在、「何もしないでいる」状態を、「何もしない」ことで維持することは難しいのである。ぼんやりしているとこれまでの仕事の続き、これからの仕事の予定などが襲来し、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。【5】「何もしないでいる」ためには、「そうでないこと」を真剣にやることによって、それらを締め出してしまわなければいけないのである。
 もちろん「それほどまでにして、何もしないでいる状態なんか作り出さなくたっていいじゃないか。」と、よそ目にはそう思える。【6】しかし、そうではない。前述した理由で「釣り」をしたり、「パチンコ」をしたり、「料理」をしたりしている人々を見れば、よくわかる。彼らは、酸素の足りなくなった水の中の金魚が、水面に出て口をパクパクさせるように、かなり切迫して「何もしないでいる」ことを求めているのである。
 【7】日常生活における「何もしないでいる」時間というのは、芝居の「暗転」や「幕間」と似ている。多くの観客がここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレに駆けこめるからではない。【8】無意識にではあれ、それまで「流れ」として連続していた時間を、「積み重ね」として体験し直すことが出来るからであり、その呪縛から逃れ出ることが出来るからである。∵
 【9】「時間は、流れるものではなく積み重なるものである。」という何かのコマーシャルにテレビで時々お目にかかるが、我々は、恐らく、この「流れる」時間と、「積み重なる」時間の双方を交互に体験することになっており、ただここへきて「流れる」時間の呪縛力が強くなっているのだろう。【0】それを「積み重ねる」時間として体験し直すための「暗転」と「幕間」が、日常生活の中でつかまえ難くなってきているのかもしれない。
 もちろん、「睡眠」ということがある。これまで我々は、「眠ること」によって、「流れる」時間を「つみ重ねる」時間として体験し直してきたと言えるだろう。日が変わり、週が変わり、月が変わり、季節が変わり、年が変わるごとに、我々は「流れ」を「積み重ね」に切りかえてきたのである。しかしどうだろうか。「不眠症」が増えたり、それでなくとも「眠り」が浅くなったというものが増えているように、日や週や月や季節や年の「変わり目」のメリハリも、何となく薄れてきつつあるような気がする。
 つまり「流れる」時間については、放っといても体験出来るし、むしろそれに呪縛されている感が強いのだが、「積み重ねる」時間については、我々自身が意識し、工夫しなければ体験出来ないことになりつつあるのではないだろうか。「暗転」と「幕間(まくあい)」を、個々人が日常生活の中で意識的に作り出さなければいけないのであり、そうしないと酸欠状態に陥って、呼吸が出来なくなるような気配すら感じるのである。(中略)
 かつての「趣味人」は、「流れる」時間からちょっとはずれた所にいて、「積み重ねる」時間の中で、何ごとかをしていた。その知恵を、現代人が学びはじめた、ということかもしれない。ただし、前述したように現代人のそれは、必ずしも趣味とは言えない。現代のそれは、「積み重ねる」時間の中で「何ごとかをしている」ことよりも、「流れる」時間の中で「何もしていない」ことの方が重要で、必死になってそれにすがりついているからにほかならない。
 最近、「釣り」も「パチンコ」も「料理」も、「推理小説」も流行っているらしいが、それはそれら自体の手柄ではない。それらは「何もしないでいる」ための手続きにすぎないのだ。
(別役実「カナダのさけの笑い」による)