1. 【1】何はともあれ、このようにしても、クラシック音楽への道はつけられる時代になった。あらゆるものがカジュアルになっていき、さまざまな機器の
圧倒的な便利さと引きかえに、「
傾聴」したり「注視」する
面倒な手続きがどんどん失われていく時代のなかで、【2】「真面目」で「
傾聴を
迫る」クラシック音楽はほんとうに伝統芸能化せずに生きのびられるのか、と心配したのが
杞憂だったかのように、それは今ではおしゃれなファッションにさえなることができる。【3】特定の商品を際立たせることをやめ、
全般的な生活スタイルのイメージを操作しようとしはじめた
企業の文化戦略にとって、それは
軽薄短小の次に来る「さらに新しいもの」でありうる。
2. しかし、こうしたことがすぐにクラシック音楽の
啓蒙になり、
普及につながる、などとは早合点しないほうが良いだろう。【4】なかんずく伝統的な音楽芸術の理念、とりわけ十九世紀の音楽観が要求したような「始まりと終わりがあって、そのあいだの過程は不可逆的であり、部分と部分が
相互に有機的に関係しあうとともに、曲全体は細部まで意味づけられた閉じた統一体である」ととらえられるような音楽作品の理念、【5】
聴く方から言えば「かならず最初から最後までを順序どおりに中断せずに
聴きとおし、
刹那の快感だけでなく、全体の構造の
脈絡を理解すべき」であるような音楽体験の理念が、そこで
受け継がれているかどうかは、まったく疑わしい。【6】たんなる「楽想」と、有機的統一体として仕上げられた「音楽作品」の
違いは画然としているのだから、音楽作品とは本来切断してはならないもののはずなのに、それを切り刻んで差し出すコマーシャルの十五秒間は、【7】もはや西洋近代のひとつの極限的な文化のかたちというより、おびただしく流通する商業音楽を
飽食するなかでこそ光るエスニックのような
新鮮さなのかもしれない。
3. 世の中にはクラシック音楽は難しいと言う人が今でも結構いる。【8】その人たちが口をそろえて語るのは、一曲が長いので
途中で
退屈してしまう、まして暗く閉ざされたコンサート会場で長時間、物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということである。このことはとりもなおさず、一様に、クラシック音楽の
真髄とはそ∵の反対、【9】つまり長い一曲を
聴きとおす、それもながら
聴きではなく、全身耳となって
聴きとおす時に、
旋律やりズムや
音響といった現象的な快楽にとどまらぬ、それを
超えた「作品」という
包括的でドラマティックな意味連関が体験できることにある、と
了解されていることを示している。【0】もちろん、細部が全体に
劣るわけではない。だが、曲全体という世界のなかに位置づけられることで、細部はそれだけで存在するより以上の意味を持つことができる。(中略)
4. しかし、コマーシャルの十五秒のクラシック音楽は、そういう体験にはほど遠い、どころか、その入口でさえないのではないか、と私は思う。そこで、鳴っているのはたしかに作品の一部には
違いないが、その向こうに作品全体を暗示することのない、むしろ作品という根から
切り離された、それ自体で味わわれる個的で快楽的な現象である。コマーシャルにぞくぞくと登場し、しかもそれがある
感銘を
誘っているとしても、かならずしもそれにつれて人々が容易にクラシック音楽の世界にいざなわれるとは考えないほうが良い。美しくサンプルを並べたカタログは、もはや
憧憬の入口ではなく、
憧憬の対象そのものになろうとしているのだから。
5. とにもかくにも、こうしたことは、音楽、というよりその受けとめ方が、いつの間にか変容しつつあることを示しているのではないだろうか。
6. つまり、コマーシャルのクラシック音楽が効果を上げたのは、たんにコマーシャルの世界でありふれていないので
新鮮だったというだけではなく、今日では一曲を有機的統一体として
把握する構造的な
聴き方のできない人、あるいは秘かな異和を
抱いている人がしだいに増えており、十五秒ぽっきりという
異端の
聴き方がその人たちの心の
間隙をついた、という一面があったのではないだろうか。
7.(
岡田敦子『永遠は
瞬間のなかに』より)