長文集  4月3週  ★何はともあれ(感)  wa-04-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】何はともあれ、このようにしても、
クラシック音楽への道はつけられる時代にな
った。あらゆるものがカジュアルになってい
き、さまざまな機器の圧倒的な便利さと引き
かえに、「傾聴」したり「注視」する面倒な
手続きがどんどん失われていく時代のなか 
で、【2】「真面目」で「傾聴を迫る」クラ
シック音楽はほんとうに伝統芸能化せずに生
きのびられるのか、と心配したのが杞憂だっ
たかのように、それは今ではおしゃれなファ
ッションにさえなることができる。【3】特
定の商品を際立たせることをやめ、全般的な
生活スタイルのイメージを操作しようとしは
じめた企業の文化戦略にとって、それは軽薄
短小の次に来る「さらに新しいもの」であり
うる。
 しかし、こうしたことがすぐにクラシック
音楽の啓蒙になり、普及につながる、などと
は早合点しないほうが良いだろう。【4】な
かんずく伝統的な音楽芸術の理念、とりわけ
十九世紀の音楽観が要求したような「始まり
と終わりがあって、そのあいだの過程は不可
逆的であり、部分と部分が相互に有機的に関
係しあうとともに、曲全体は細部まで意味づ
けられた閉じた統一体である」ととらえられ
るような音楽作品の理念、【5】聴く方から
言えば「かならず最初から最後までを順序ど
おりに中断せずに聴きとおし、刹那の快感だ
けでなく、全体の構造の脈絡を理解すべき」
であるような音楽体験の理念が、そこで受け
継がれているかどうかは、まったく疑わし 
い。【6】たんなる「楽想」と、有機的統一
体として仕上げられた「音楽作品」の違いは
画然としているのだから、音楽作品とは本来
切断してはならないもののはずなのに、それ
を切り刻んで差し出すコマーシャルの十五秒
間は、【7】もはや西洋近代のひとつの極限
的な文化のかたちというより、おびただしく
流通する商業音楽を飽食するなかでこそ光る
エスニックのような新鮮さなのかもしれな 
い。
 世の中にはクラシック音楽は難しいと言う
人が今でも結構いる。【8】その人たちが口
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をそろえて語るのは、一曲が長いので途中で
退屈してしまう、まして暗く閉ざされたコン
サート会場で長時間、物音ひとつ立てずにじ
っと座っているのは苦痛だ、ということであ
る。このことはとりもなおさず、一様に、ク
ラシック音楽の真髄とはそ∵の反対、【9】
つまり長い一曲を聴きとおす、それもながら
聴きではなく、全身耳となって聴きとおす時
に、旋律やりズムや音響といった現象的な快
楽にとどまらぬ、それを超えた「作品」とい
う包括的でドラマティックな意味連関が体験
できることにある、と了解されていることを
示している。【0】もちろん、細部が全体に
劣るわけではない。だが、曲全体という世界
のなかに位置づけられることで、細部はそれ
だけで存在するより以上の意味を持つことが
できる。(中略)
 しかし、コマーシャルの十五秒のクラシッ
ク音楽は、そういう体験にはほど遠い、どこ
ろか、その入口でさえないのではないか、と
私は思う。そこで、鳴っているのはたしかに
作品の一部には違いないが、その向こうに作
品全体を暗示することのない、むしろ作品と
いう根から切り離された、それ自体で味わわ
れる個的で快楽的な現象である。コマーシャ
ルにぞくぞくと登場し、しかもそれがある感
銘を誘っているとしても、かならずしもそれ
につれて人々が容易にクラシック音楽の世界
にいざなわれるとは考えないほうが良い。美
しくサンプルを並べたカタログは、もはや憧
憬(しょうけい)の入口ではなく、憧憬(し
ょうけい)の対象そのものになろうとしてい
るのだから。
 とにもかくにも、こうしたことは、音楽、
というよりその受けとめ方が、いつの間にか
変容しつつあることを示しているのではない
だろうか。
 つまり、コマーシャルのクラシック音楽が
効果を上げたのは、たんにコマーシャルの世
界でありふれていないので新鮮だったという
だけではなく、今日では一曲を有機的統一体
として把握する構造的な聴き方のできない人
、あるいは秘かな異和を抱いている人がしだ
いに増えており、十五秒ぽっきりという異端
の聴き方がその人たちの心の間隙をついた、
という一面があったのではないだろうか。

(岡田敦子『永遠は瞬間のなかに』より)