1. 【1】ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止として起こる。ところが脳が先に機能停止におちいることがある。この場合、
中枢神経をまとめる脳の死によって全身もやがて死ぬことになるが、人工呼吸器の力でしばらくの間は(そして現在ではかなり長期にわたって)脳死状態の身体を「生かして」おくことができる。【2】つまり死を
抑止するテクノロジーの
介入によって、生を手放しながらなお死を中断された、ある種の中間的身体が作り出されるのである。
2. 【3】脳死が心臓死と決定的に
違うのは、死が全身に
及ぶプロセスやそのタイムラグのためでなく、このきわめて現代的な上に述べた「中間的身体」を生み出すからである。脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格としての発現をいっさい欠いて、いわば
誰でもない身体として横たわっている。(中略)
3. 【4】脳死をめぐる現在の論議の中で問われているのは、実は脳死と心臓死といずれが厳密な意味で「人の死」かということではない。それは向こうから訪れる死を「みなしの死」と
置き換えるということなのだ。
4. 【5】移植
治療にとっては、訪れる死を確認していたのでは
遅いのだ。そこで脳死を人の死とみなし、その段階で身体を人格性の
拘束から解放することにする。それでなければせっかく死を
抑止しても、いずれ死にすべてを
引き渡すことになってしまう。【6】だが、この「みなしの死」(「みなし法人」というときのように)によって、「
誰でもない身体」はもはや「人ではない身体」となり、脳死身体の「資材」化への道が開けることになる。言ってみればそれは、役立たない自明の死を、人間の利益にそくして人間が規定する「役立つ死」へと転化することである。
5. 【7】人間は、これまでありのままの世界を否定し、それを人間にとっての世界へと転化して、自己の可能性の領域を拡張してきた。その人間にとっても、死だけは最近まで、無意味な
喪失であり続けてきた。【8】だがテクノロジーは死を
壁際まで追いつめ、ついにその領分から生に回収しうる部分を
取り戻すにいたった。この「みなしの死」によって、今や死は新しい「資材」を
分泌する生産的な死、人∵間自身の規定する「人間的な死」となった……文明の
武勲詩はこの死の
征服をそんなふうに語るのかもしれない。
6. 【9】だが、この論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。
医療のテクノロジーがもたらしたのは、「人ではない身体」とか、人体の「資材」化とかいう、人間のまったく「非人間的」な可能性なのだ。
核兵器や遺伝子工学が
象徴するように、現代のテクノロジーはもはや人間の道具におさまる
範囲を
超えて進んでいる。【0】そこでは人間に「役立つ」はずのことが、人間を「非人間化」するようにさえ働くことになる。人間はテクノロジーの主人ではなく、テクノロジーが変えてゆく世界の中で、いつのまにか自分もいっしょに変えられているのだ。だから、人間はこの「不気味」な
状況を
欺瞞なしに受けとめ、そこに身を開きながらありうべき関係を探ってゆくほかはない。それが「非人間化」する世界の中で、
唯一保ちうる「人間的」態度だと言えるだろう。
7. あの身体には、もはやそれを「私だ」と主張する人はいない。では、それは「人」ではないのか? ここで本当に問われているのはそのことである。実はその種の問いを人間はすでに発したことがある。世界戦争に
象徴される今世紀の人間の、栄光と同じように
悲惨だった体験は、
征服のテクノロジーの中で非人格化した身体的存在を、「それでも人だ」と言うことから出発する実存の思想を
鍛えてきた。それがこの問題に大きな
示唆を
与えている。
8. 移植
治療によって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。それに、移植される臓器は「生きて」いなければ役に立たない。その「生きている」身体から、それでも臓器の
摘出が許されるのは、なかば死に委ねられたこの臓器も、他者の身体に引き取られてしか生きえないからである。つまり死ぬべき臓器は他者において復活するのだ。一方それを引き受けた他者も、委ねられた臓器をけっして自分のものとして同化するわけではない。その人の身体は
免疫抑制剤によって自己の固有性を弱めながら、他者の臓器を受け入れているのだ。そのようなリレーのうちに身体的生命はそれ自身の論理を
貫いており、部分身体の受容と復活をとおして、不老
長寿とは別の「不死性」のきらめきさえのぞかせている。