長文集  4月2週  ★ふつう死は、心臓が(感)  wa-04-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】ふつう死は、心臓が停止して血流が
とだえ、それに続く全身の生命活動の停止と
して起こる。ところが脳が先に機能停止にお
ちいることがある。この場合、中枢神経をま
とめる脳の死によって全身もやがて死ぬこと
になるが、人工呼吸器の力でしばらくの間は
(そして現在ではかなり長期にわたって)脳
死状態の身体を「生かして」おくことができ
る。【2】つまり死を抑止するテクノロジー
の介入によって、生を手放しながらなお死を
中断された、ある種の中間的身体が作り出さ
れるのである。
 【3】脳死が心臓死と決定的に違うのは、
死が全身に及ぶプロセスやそのタイムラグの
ためでなく、このきわめて現代的な上に述べ
た「中間的身体」を生み出すからである。脳
の機能を失ったこの身体は、もはや人格とし
ての発現をいっさい欠いて、いわば誰でもな
い身体として横たわっている。(中略)
 【4】脳死をめぐる現在の論議の中で問わ
れているのは、実は脳死と心臓死といずれが
厳密な意味で「人の死」かということではな
い。それは向こうから訪れる死を「みなしの
死」と置き換えるということなのだ。
 【5】移植治療にとっては、訪れる死を確
認していたのでは遅いのだ。そこで脳死を人
の死とみなし、その段階で身体を人格性の拘
束から解放することにする。それでなければ
せっかく死を抑止しても、いずれ死にすべて
を引き渡すことになってしまう。【6】だ 
が、この「みなしの死」(「みなし法人」と
いうときのように)によって、「誰でもない
身体」はもはや「人ではない身体」となり、
脳死身体の「資材」化への道が開けることに
なる。言ってみればそれは、役立たない自明
の死を、人間の利益にそくして人間が規定す
る「役立つ死」へと転化することである。
 【7】人間は、これまでありのままの世界
を否定し、それを人間にとっての世界へと転
化して、自己の可能性の領域を拡張してき 
た。その人間にとっても、死だけは最近まで
、無意味な喪失であり続けてきた。【8】だ
がテクノロジーは死を壁際まで追いつめ、つ
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
いにその領分から生に回収しうる部分を取り
戻すにいたった。この「みなしの死」によっ
て、今や死は新しい「資材」を分泌する生産
的な死、人∵間自身の規定する「人間的な死
」となった……文明の武勲詩はこの死の征服
をそんなふうに語るのかもしれない。
 【9】だが、この論理は事態の「不気味さ
」に目をつむってい る。医療のテクノロジ
ーがもたらしたのは、「人ではない身体」と
か、人体の「資材」化とかいう、人間のまっ
たく「非人間的」な可能性なのだ。核兵器や
遺伝子工学が象徴するように、現代のテクノ
ロジーはもはや人間の道具におさまる範囲を
超えて進んでいる。【0】そこでは人間に「
役立つ」はずのことが、人間を「非人間化」
するようにさえ働くことになる。人間はテク
ノロジーの主人ではなく、テクノロジーが変
えてゆく世界の中で、いつのまにか自分もい
っしょに変えられているのだ。だから、人間
はこの「不気味」な状況を欺瞞なしに受けと
め、そこに身を開きながらありうべき関係を
探ってゆくほかはない。それが「非人間化」
する世界の中で、唯一保ちうる「人間的」態
度だと言えるだろう。
 あの身体には、もはやそれを「私だ」と主
張する人はいない。では、それは「人」では
ないのか? ここで本当に問われているのは
そのことである。実はその種の問いを人間は
すでに発したことがある。世界戦争に象徴さ
れる今世紀の人間の、栄光と同じように悲惨
だった体験は、征服のテクノロジーの中で非
人格化した身体的存在を、「それでも人だ」
と言うことから出発する実存の思想を鍛えて
きた。それがこの問題に大きな示唆を与えて
いる。
 移植治療によって人が生きられるのは、人
間が身体的存在だからである。それに、移植
される臓器は「生きて」いなければ役に立た
ない。その「生きている」身体から、それで
も臓器の摘出が許されるのは、なかば死に委
ねられたこの臓器も、他者の身体に引き取ら
れてしか生きえないからである。つまり死ぬ
べき臓器は他者において復活するのだ。一方
それを引き受けた他者も、委ねられた臓器を
けっして自分のものとして同化するわけでは
ない。その人の身体は免疫抑制剤によって自
己の固有性を弱めながら、他者の臓器を受け
入れているのだ。そのようなリレーのうちに
身体的生命はそれ自身の論理を貫いており、
部分身体の受容と復活をとおして、不老長寿
とは別の「不死性」のきらめきさえのぞかせ
ている。