1. 身近な
自然はありふれているだけに、
失ってからでないとたいせつさに気づかないという
矛盾をかかえています。それだけでなく、高度
成長の時代には、
住民自らが
望んで遠ざけたのです。
2. 親しみやすい等身大の
自然も、
油断すると
大敵に
変身します。
裸足で小川に入ると、ガラスの
破片やとがった岩で足を切るし、まれにはおぼれて命をとられることもあります。
淀川などすこし大きくなると、
不思議にもあきらめが先に立ちます。しかし等身大の小川やため池になると、くやしさがまさり、だれかに
怒りをぶつけたくなり、
裁判に
訴えるケースが
増えてきました。
3.
民主主義がみんなのものになり、
泣き寝入りしないで
行政の
責任を問う
市民が
増えたこと、
裁判所が
行政責任をきびしく問い、
住民が
勝訴するばあいがあったことは
評価できます。しかし
地域住民が
参加しないで、後の
対策を
行政だけに負わせる
結果になったことは、いまから考えると大きな
矛盾を生みだしていたのです。
4.
淀川など大きな川にはない
金網が、小さな川に
張られてしまいました。落ちたりけがをすることは
確かに少なくなりましたが、反面で身近な
自然を生活の場から遠ざけることになってしまいました。子どもの遊び場でなくなると、とうぜん
関心がうすれます。自転車や
単車が
捨てられていても長いあいだそのままになっていますし、
雑草も年一回
刈り取られるくらいなので
景観もよくありません。家庭
排水の
捨て場になり、
汚れてくると
埋立てて道路にしたほうがいいということになり、小さな川が
街のなかから消えていきました。
5. 思わぬところで
矛盾が頭をもたげます。十年ほど前、
子供会で遠足に行ったとき、
就学前の女の子がなにかにつまずいて
倒れました。手が出ず顔をまともに地面にぶつけたのです。
本能で手が出るのではなく、戸外で遊びながら身につける運動
能力の一つだった∵のです。
最近は小学生にもいるとの
報道がありました。
6. ある
衛星都市の
保育所では、すこし手足にけがをすると、もうれつに
怒るお母さんがいるそうです。
理屈上はけがをさせたことになるので、
責任を問われると
対応せざるをえません。朝来園したとき、家でついた
傷か
否かのチェックをしなければならなくなったそうです。家庭での生活
能力がおとろえるにしたがって
増えてきた
遅刻指導がエスカレートして、
生徒を
殺してしまった
状況と
似ています。「すみません」ですまない世界がどんどんひろがりつつあるようです。
7.(森住
明弘「
環境とつきあう50話」)