リンゴ2 の山 8 月 1 週
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○自由な題名
○道
○勉強の目的、結果と過程
○nature around them(感) 英文のみのページ(翻訳用)
All kinds of life stay alive by using nature around them. All do activities for the purpose of using things found in nature for their own good. Plants take in water and sunlight. Animals eat plants or other animals. Of course, to use readymade materials of nature is not true work; work is an activity that changes these materials from their natural state to improve their usefulness. The bird, the bee, and the spider, in building nests, hives, and webs are all working. So both humans and animals work: they change nature to make it more fitting for their needs.
However, human work has important differences from the work of other animals. The work of the bird in building its nest shows more continual steady effort than most humans in their building plans. The work of the spider in making its web goes beyond the work of most human weavers. A bee's work is better than the building work of most human architects. But the biggest difference between the work of an architect and a bee, for example, is that the architect can picture in his mind a building before building it, while a bee cannot. At the end of every human work process, we get a result that already was in the mind of the worker before it was started. Human workers not only change the form of the material they work with but also know the purpose for their work, while animals do not.
Human work is conscious, while the work of other animals is instinctive. Instinctive activities are inborn rather than learned. Instinctive activities are part of a fixed pattern. For example, it has been seen that a spider which has finished half of its web will continue to make the second half even if the first half is taken away.

★骨董はいじるもので(感)
 【1】骨董はいじるものである。美術は鑑賞するものである。そんなことをいうと無意味な酒落のように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。【2】この間の微妙な消息に一番早く気づいたのは骨董屋さん達であって、誰が言いだしたともなく、鑑賞陶器という、昔は考えてもみなかった言葉が、通用するに至っている。【3】言葉は妙だが、骨董屋さんの気持ちから言えば、それはいじろうにも、残念ながらいじれない陶器をいうのである。鑑賞陶器という新語の発明が、いつごろか無論はっきりしないが、おそらく昭和以後の事であろうと思えば、日本人が陶器に対して、茶人的態度を引き続きとっていた期間の驚くほどの長さを、今さらのように思うのである。
 【4】僕は、茶道の歴史などにはまるで不案内であるが、茶器類の不自然な衰弱した姿が、意外に早くから現れているところから勝手に推断して、利休の健全な思想は、意外に短命なものだったのではあるまいか、と思っている。【5】しかし、茶道の衰弱と堕落の期間がいかに長かったとはいえ、器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、美しい器物を見ることと、それを使用することが一体となっていて、その間に区別がない、そういう態度は、極めて自然な健全な態度であるとは言えるのである。【6】焼き物いじりが僕にそのことを痛感させた。僕も現代知識人の常として、茶人趣味などにはおよそ無関心なものだが、利休が徳利にも猪口にも生きていることは確かめ得た。【7】美しい器物を創り出す行為を美しい器物を使用するうちに再発見しようとした、そういうところに利休の美学(妙な言葉だが)があったと言えるなら、それが西洋十九世紀の美学とほとんど正面衝突をする様を、僕の焼き物いじりの経験が教えてくれた。【8】そしてこの奇怪な衝突は、茶人が隣の隠居となり終わった今日でも、しかと経験し得るものなのである。
 【9】先日、何年ぶりかでトルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見奇矯と思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に鋭くて正しい作者の感受性に裏∵付けられているように思われた。【0】行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、聖餐を受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。誰も知らぬ。わけの解らぬ行為を挑発するわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆は、行為を禁止されて椅子に釘付けになっている。
 行為をもって表現されないエネルギーは、彼等の頭脳を芸術鑑賞という美名の下にあらゆる空虚な妄想で満たすというのだ。何と疑い様のない明瞭な説であるか。心理学的あるいは哲学的美学の意匠を凝らして、身動きも出来ない美の近代的鑑賞に対しては、この説は、ほとんど裸体で立っていると形容してよいくらいである。周知のように、トルストイは、ここから近代芸術一般を否定する天才的独断へ向かって、真っすぐに歩いた。無論そんな天才の孤独が、僕の凡庸な経験に関係があるわけはない。ただ、彼が遂にあの異様な「芸術とは何か」を書かざるを得なくなった所以は、彼が選んだそもそもの出発点、彼の審美的経験の純粋さ素朴さにある。その裸のままの姿から、強引に合理的結論を得ようとしたところにある。これは注意すべきことなのである。
 もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為を禁止された美の近代的鑑賞の不思議な架空性に関するトルストイの洞察は、僕達の経験にも親しいはずなのである。昔は建築を離れた絵画というような奇妙なものを誰も考えつかなかったが、近代絵画には額縁という家しか、本当に頼りになる住居がなくなって来ている。

(小林秀雄の文より)