長文 8.1週
1. 【1】生きもののようにほのおをあげ、やがて燃えつきて灰になっていくかつての火の姿には、霊的れいてきな生命を予感させる存在感があり、すべての人びとの心に、火の思い出にまつわるさまざまな感情を呼び起こしたものだったが、そんな火との対話さえ、最近では次第に忘れられていく。
2. 【2】それに代わって、家庭の中には、電気がまや電子レンジが現れ、石油ストーブやセントラルヒーティングが普及ふきゅうし、かつてのランプのほのおのまわりに広がっていたやみのしじまは消え失せて、いたるところに真昼のような人工照明の空間が出現してしまったのである。
3. 【3】考えてみれば、人類の歴史というのは、火の使用という驚くおどろ べき体験によって幕をあげたと同時に、じつは、いかにしてその原初の火を手なずけ、制御せいぎょ可能なものにするかという挑戦ちょうせんの歴史であったといえるのかもしれない。
4. 【4】寒さにこごえ、飢えう と動物からの襲撃しゅうげきにさらされて、四六時中休まることのなかった人類が、はじめて火を手なずけることのできたときの感動は、想像にあまるものだったろうが、それと同時に、その火は油断をすればたちまち消えてしまうか、反対に自分たちを焼き滅ぼしほろ  てしまいかねない恐るべきおそ   存在であったのだ。【5】いわば、神と悪魔あくま兼ねか そなえたような、そんな火を、いつでも好きなとき、好きな場所で、好きな目的のために使えるように制御せいぎょ可能なものにするために、人類は火と格闘かくとうし、火に学び、燃焼を制御せいぎょするさまざまな知恵ちえを発明してきたのだといえる。
5. 【6】もともと火に備わっていた熱や光の属性を、それぞれ目的別、機能別に解体し、それに応じて燃焼の素材や方式を多様に分化させることで、原初の火のもつカリスマ性を骨抜きほねぬ にし、【7】いまや人畜じんちく無害で、ポケットに入れて運べるミクロの「火」から、スイッチ一つで呼び出せる「アラジンのランプ」まで、無数の人工的な火の代替だいたい物をつくり出してしまったのである。
6. 【8】皮肉なことに、かつての独裁者的な火の神は、いまではすっかりおとなしくなり、たくましくほのおをあげて燃える原初の火に∵触れるふ  機会は少なくなったかわりに、火の機能の代替だいたい物は、正体のはっきりしないブラックボックスとして、生活の隅々すみずみにまで侵入しんにゅうしはじめている。
7. 【9】それはポケットの中のライターのような貧弱なものばかりではない。都市の中の住区から個々の住宅まで、ツリー構造でのびたパイプや針金のネットワークにそって流れる都市ガスや電気などの火の「素」で、その見えない火のネットワークは、かつての原初の火も及ばおよ ぬほどの強烈きょうれつ潜在せんざいエネルギーを秘めて、現代人の生活環境かんきょうを取り巻いてしまっているのである。【0】
8. かつての原初の火は、個人のレベルで向き合って対処することができたが、このように社会化されてしまった現在の火は、時に個人の知らぬところで暴発する。ネットワークの規模が大きくなるほどその供給源と末端まったんの間の階層的距離きょりは広がって、やがて個人の手に負えないものになる。こうして、いまや熱の機能としての現代の「火」は、一方では飼いならされた柔順じゅうじゅんなしもべであると同時に、他方ではいつどこで暴走するかしれない不気味なダモクレスのけんと化してしまっているのである。

9.(坂根厳夫さかねいつお「科学と芸術の間」より。)