長文集  8月1週  ★生きもののように焔をあげ(感)  ri-08-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】生きもののように焔(ほのお)をあ
げ、やがて燃えつきて灰になっていくかつて
の火の姿には、霊的な生命を予感させる存在
感があり、すべての人びとの心に、火の思い
出にまつわるさまざまな感情を呼び起こした
ものだったが、そんな火との対話さえ、最近
では次第に忘れられていく。
 【2】それに代わって、家庭の中には、電
気釜(がま)や電子レンジが現れ、石油スト
ーブやセントラルヒーティングが普及し、か
つてのランプの焔(ほのお)のまわりに広が
っていた闇のしじまは消え失せて、いたると
ころに真昼のような人工照明の空間が出現し
てしまったのである。
 【3】考えてみれば、人類の歴史というの
は、火の使用という驚くべき体験によって幕
をあげたと同時に、じつは、いかにしてその
原初の火を手なずけ、制御可能なものにする
かという挑戦の歴史であったといえるのかも
しれない。
 【4】寒さにこごえ、飢えと動物からの襲
撃にさらされて、四六時中休まることのなか
った人類が、はじめて火を手なずけることの
できたときの感動は、想像にあまるものだっ
たろうが、それと同時に、その火は油断をす
ればたちまち消えてしまうか、反対に自分た
ちを焼き滅ぼしてしまいかねない恐るべき存
在であったのだ。【5】いわば、神と悪魔を
兼ねそなえたような、そんな火を、いつでも
好きなとき、好きな場所で、好きな目的のた
めに使えるように制御可能なものにするため
に、人類は火と格闘し、火に学び、燃焼を制
御するさまざまな知恵を発明してきたのだと
いえる。
 【6】もともと火に備わっていた熱や光の
属性を、それぞれ目的別、機能別に解体し、
それに応じて燃焼の素材や方式を多様に分化
させることで、原初の火のもつカリスマ性を
骨抜きにし、【7】いまや人畜無害で、ポケ
ットに入れて運べるミクロの「火」から、ス
イッチ一つで呼び出せる「アラジンのランプ
」まで、無数の人工的な火の代替物をつくり
出してしまったのである。
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 【8】皮肉なことに、かつての独裁者的な
火の神は、いまではすっかりおとなしくなり
、たくましく焔(ほのお)をあげて燃える原
初の火に∵触れる機会は少なくなったかわり
に、火の機能の代替物は、正体のはっきりし
ないブラックボックスとして、生活の隅々に
まで侵入しはじめている。
 【9】それはポケットの中のライターのよ
うな貧弱なものばかりではない。都市の中の
住区から個々の住宅まで、ツリー構造でのび
たパイプや針金のネットワークにそって流れ
る都市ガスや電気などの火の「素」で、その
見えない火のネットワークは、かつての原初
の火も及ばぬほどの強烈な潜在エネルギーを
秘めて、現代人の生活環境を取り巻いてしま
っているのである。【0】
 かつての原初の火は、個人のレベルで向き
合って対処することができたが、このように
社会化されてしまった現在の火は、時に個人
の知らぬところで暴発する。ネットワークの
規模が大きくなるほどその供給源と末端の間
の階層的距離は広がって、やがて個人の手に
負えないものになる。こうして、いまや熱の
機能としての現代の「火」は、一方では飼い
ならされた柔順なしもべであると同時に、他
方ではいつどこで暴走するかしれない不気味
なダモクレスの剣と化してしまっているので
ある。

(坂根厳夫(さかねいつお)「科学と芸術の
間」より。)