長文 7.4週
1. むかしぼくらは、学生で合宿していたころ、よく上野の動物園へ出かけていった。近かったし、ほかに遊びを持ってなかったし、二〜三枚の銀貨でみんなそろって遊べるので、よくいっしょにドヤドヤッと出かけていった。
2. しかしぼくは、全体としての動物園をあまりすかなかった。第一、水禽すいきんのガアガアなきたてる声があまり愉快ゆかいでなかった。第二、広い動物園にいっぱいになってるケモノのにおいがたまらなかった。それがひどくからだを疲れつか させた。らくだなどことにひどかった。ぼくがみんなといっしょによく出かけたのは主として山猫やまねこを見ようためだった。
3. 山猫やまねこめは全身まっ黒の毛に包まれて金いろの目をしていた。かれのしっぽはからだよりも長く、イザというときにはこん棒のようになるにちがいない一種特別のふくらみを見せていた。ぼくの知るかぎりかれは、おりの奥行きおくゆ の半分より前へは一度も出てこなかった。いつもおくの方にすわって、けっして人になれることがなかった。ぼくはかれに「ごろつき」の名を与えあた た。かれはぼくに、ごろつき、ニヒリスト、かっぱらい、海賊かいぞく等のことばを思い出させた。
4. くまはおりの金棒につかまって臆面おくめんもなく芸当をして見せていた。とらは金いろのしま目をきらめかしておりのなかを行き来していた。それは落ちぶれた貴族のようにものあわれであったが、同時に落ちぶれた貴族のように浅ましい媚びこ を感じさせた。獅子ししときては話にもならなかった。かれはすっかりくらふとって、むかしのこともすっかり忘れはててしまい、ここでいつかかれをつかまえた人間どもから比較的ひかくてきよく待遇たいぐうされてることにいい気になってしまい、その「あてがいぶち」に満足しきっていた。鈍感どんかんになってしまったかれは、ここの動物園のなかでさえ自分を王様と考えてるように見えた。それはぶたにも劣るおと ものだった。
5. しかし山猫やまねこめにそんなことはなかった。
6. かれはまっ黒の顔をしてその金いろの目をピカピカ光らせていた。おりの暗いおくの方でそれはりんのように燃えていた。かれはけっして人前で歩いて見せたりはしなかった。こんなところへ押し込めお こ ∵になっていてもいつもかれの国のことを考えていた。かるがると飛び、飛び越しと こ 、全力でかみ、思う存分血を流すかれの国でそれができないくらいなら、そんなところでたとえそれをすることから肉の一片ひときれを手に入れることができるとしても、そんなことのまねをする必要はないと考えていた。とら獅子しし大蛇だいじゃなぞがこんなばかものになってしまったとすれば、やつらがそんなに堕落だらくしてしまったというその一事のためにもがんばらなければならないと考えていた。かれは本能的に捨て身にかかっていた。それでかれのおりは一種のうすっ気味悪さで見る人に襲いかかっおそ    た。それで人びとはかれのおりの前にあまり長く立ちどまらず、なるべく黙殺もくさつする方針をとり、果ては知らず識らず黙殺もくさつして、とうとうそのことに平気になってしまっていた。

7.(中野重治『山猫やまねこその他』)