長文集  7月4週  ○むかしぼくらは、  ri-07-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:52:54
 むかしぼくらは、学生で合宿していたころ
、よく上野の動物園へ出かけていった。近か
ったし、ほかに遊びを持ってなかったし、二
〜三枚の銀貨でみんなそろって遊べるので、
よくいっしょにドヤドヤッと出かけていった

 しかしぼくは、全体としての動物園をあま
りすかなかった。第 一、水禽のガアガアな
きたてる声があまり愉快でなかった。第二、
広い動物園にいっぱいになってるケモノのに
おいがたまらなかっ た。それがひどくから
だを疲れさせた。らくだなどことにひどかっ
た。ぼくがみんなといっしょによく出かけた
のは主として山猫を見ようためだった。
 山猫めは全身まっ黒の毛に包まれて金いろ
の目をしていた。かれのしっぽはからだより
も長く、イザというときにはこん棒のように
なるにちがいない一種特別のふくらみを見せ
ていた。ぼくの知るかぎりかれは、おりの奥
行きの半分より前へは一度も出てこなかっ 
た。いつも奥の方にすわって、けっして人に
なれることがなかっ た。ぼくはかれに「ご
ろつき」の名を与えた。かれはぼくに、ごろ
つき、ニヒリスト、かっぱらい、海賊等のこ
とばを思い出させた。
 熊はおりの金棒につかまって臆面もなく芸
当をして見せていた。虎は金いろのしま目を
きらめかしておりのなかを行き来していた。
それは落ちぶれた貴族のようにものあわれで
あったが、同時に落ちぶれた貴族のように浅
ましい媚びを感じさせた。獅子ときては話に
もならなかった。かれはすっかり食(くら)
い肥(ふと)って、むかしのこともすっかり
忘れはててしまい、ここでいつかかれをつか
まえた人間どもから比較的よく待遇されてる
ことにいい気になってしまい、その「あてが
いぶち」に満足しきっていた。鈍感になって
しまったかれは、ここの動物園のなかでさえ
自分を王様と考えてるように見えた。それは
豚にも劣るものだった。
 しかし山猫めにそんなことはなかった。
 かれはまっ黒の顔をしてその金いろの目を
ピカピカ光らせてい た。おりの暗い奥の方
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でそれは燐のように燃えていた。かれはけっ
して人前で歩いて見せたりはしなかった。こ
んなところへ押し込め∵になっていてもいつ
もかれの国のことを考えていた。かるがると
飛び、飛び越し、全力でかみ、思う存分血を
流すかれの国でそれができないくらいなら、
そんなところでたとえそれをすることから肉
の一片(ひときれ)を手に入れることができ
るとしても、そんなことのまねをする必要は
ないと考えていた。虎や獅子や大蛇なぞがこ
んなばかものになってしまったとすれば、や
つらがそんなに堕落してしまったというその
一事のためにもがんばらなければならないと
考えていた。かれは本能的に捨て身にかかっ
ていた。それでかれのおりは一種のうすっ気
味悪さで見る人に襲いかかった。それで人び
とはかれのおりの前にあまり長く立ちどまら
ず、なるべく黙殺する方針をとり、果ては知
らず識らず黙殺して、とうとうそのことに平
気になってしまっていた。

(中野重治『山猫その他』)