リンゴ の山 7 月 2 週 (5)
★生きることは学ぶことであり(感)   池新  
 【1】生きることは学ぶことであり、学ぶことには喜びがある。生きることは、また何かを創造していくことであり、その創造には、学びの段階では味わえない、大きな喜びがある。【2】このことはどんな人の人生にもあてはまるが、特に学問の世界では銘記すべき事柄であろう。
 言葉をかえて表現しよう。学問の世界においては学ぶこと、創造することの喜びはとりもなおさず、考えることの喜びだと思う。【3】どんな分野の学問でも何か新しいものを発見し、創っていくことに本来の意義がある。「発見」と「創造」にこそ、意味がある。単なる知識の受け売りは学問とはいえないし評価に値することもない。【4】さまざまな知識は考えるための資料であり、読書は考えるためのきっかけを提供してくれるものである。
 そう思えば、知識を集めることも案外楽しいことだし、読書も苦にならない。耳で聴き、体で感じ、目で読んで考える。【5】考えたあとでは聴いたこと読んだことは忘れ去ってもよいわけだ。覚えていなければならない、忘れてはならないと思うと、学問する前に疲れてしまい、学ぶこと自体が億劫になってしまう。【6】本来、学問はそんなに難しいことではなく、考えることの好きな人間なら誰でも学問することができるし、その喜びを味わうことができるものである。
 それにしても、そもそも創造を生み出す力はどこからやってくるのか。【7】創造性の背景にある重要な条件とは何なのか。
 まず、こんな言葉がある。フランスの有名な数学者ポアンカレがいった、「創造とは、マッシュルームのようなものだ」という言葉である。
 マッシュルームは、キノコの一種である。【8】キノコというと、日本人の私はすぐに松茸を連想してしまうのだが、すなわち、その松茸のようなものが創造だ、とポアンカレはいうのだ。
 松茸は、周知のように地表下に菌根と呼ばれる根をもっている。【9】この根は、きわめていい条件が与えられると次第に円形に広がりながら発達していく。ところが、この好条件がいつまでも続くと、根だけが発達してキノコをつくらずに、ついには老化して死んでしまうのである。【0】植物に詳しい知人の話によると、実に五百年にわたって根だけが発達し、枯死した松茸があるらしい。∵
 では、どうするか。発達してきた根に、ある時点で、根の成長を妨害する条件が与えられなければならないのである。その妨害条件は、例えば季節の変化による温度の上昇あるいは下降といった外界の条件であったり、また、松やにとか、酸性の物質とかの物質的条件であったりするようだ。このような条件が与えられると、その妨害にもめげずに生きるために、根は胞子という形で種子をつくって発達を続けようとする。そうして、やがて松茸となるのである。(中略)
 仏教の「因縁」という言葉を創造性にあてはめて考えてみると、「因」とは、地表下で発達をとげた松茸の根のように、人が親から受け継いだり、周囲の人間から学んだり、あるいは学校で勉強したりしながら自分の中に蓄積していったものではないかと私は思う。だが、この「因」だけがあれば、創造あるいは飛躍ができるわけではない。「縁」となるものが必要なのである。ある時点で、松茸に与えられる妨害条件に相当するものが、人がものを創造する上でも必要なのである。蓄積を表出させる条件が要るのである。それが「縁」である。ただし「縁」にも二種類ある。「順縁」と「逆縁」である。実生活では、しばしば「逆縁」が表出エネルギーとなる。「逆縁」という言葉を一般的な言葉に置き換えると、「逆境」という言葉にあてはまるのではないだろうか。
 世の中で成功した人は、大抵、逆境を自分の人生にプラスに取り込んでいく能力をそなえているように私には見える。創造にも、この逆境が深く関係している、といわなければならない。

(広中平祐(ひろなかへいすけ)「生きること学ぶこと」による。)