a 長文 1.1週 re
 ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通ふつう私たちがやっていることはだれでも類似している。自分が比較的ひかくてき得意な項目こうもく、自分が体験などを総合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っわずら ていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、大体その箇所かしょで、書物の全体を占っうらな てもそれほど見当が外れることはない。
 だが、自分の知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物に行きあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。それは、たぶん、書物に含まふく れている世界によって決められる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手の持っている世界の縮尺のようなものである。この縮尺には書き手が通りすぎてきた「山」や「谷」や、宿泊しゅくはくした「土地」や、出会った人や思い患っわずら 痕跡こんせきなどが、すべて豆粒まめつぶのように小さくなってめられている。どんな拡大鏡にかけてもこの「山」や「谷」や「土地」や「人」は目には見えないかもしれない。そう、事実それは見えない。見えない世界が含まふく れているかどうかを、どうやって知ることができるのだろうか。
 もしひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また考え込まかんが こ せ、要するにここは文字のひと続きのように見えても、実は広場みたいなところだなと感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手が幾度いくども反復して立ち止まり、また戻りもど 、また歩き出し、そして思い患っわずら た場所なのだ。かれは、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人のかげも、隣人りんじんもいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りもど つしたために、そこだけが踏みふ 固められて広場のようになってしまった。実際は広場というようなものではなく、ただの踏みふ 溜りたま でしかないほど小さな場所で、そこから先に道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひ
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とりがやっとこしを下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。けれどもそれは世界なのだ。そういう場所に行きあたった読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。
 私は、なぜ文章を書くようになったかを考えてみる。心の中に奇怪きかいな観念が横行してどうしようもなく持て余していた少年の晩期のころ、しゃべることがどうしても他者に通じないという感じに悩まさなや  れた。この思いは、極端きょくたんになるばかりであった。この感じは外にもあらわれるようになった。父親は、お前このごろ覇気はきがなくなったと言うようになった。過剰かじょうな観念をどう扱っあつか てよいかわからず、しゃべることは、自分をあらわしえないということに思い患っわずら ていたので、覇気はきがなくなったのは当然であった。われながら青年になりかかるころの素直な言動がないことを認めざるをえなかった。今思えば、「若さ」というものは、まさしくそういうことなのだ。他者にすぐわかるように外に出せる覇気はきなど、どうせ、たいした覇気はきではない、と断言できるが、そのとき、そう言いきるだけの自信はなかった。そうして、しゃべることへの不信から、書くことを覚えるようになった。それは同時に読むようになったことを意味している。
 私の読書は、出発点で何に向かって読んだのだろうか。たぶん自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。自分の思い患っわずら ていることを代弁してくれていて、しかも、自分の同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物の中に、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。
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a 長文 1.2週 re
 農業は、きわめて恣意しい的な営みである。
 土を耕す仕事は自然と調和したエコロジカルな行為こうい一般いっぱんには思われているようだが決してそうではない。恣意しい的、といって曖昧あいまいなら、人間が自然を自分の都合のよい方向にねじ曲げる行為こうい、といったらいい過ぎか。
 だいたい、野菜、という概念がいねんからして人工的なものである。
 人は野草や山菜を採集する労苦と非能率を恨んうら で、採ってきた植物を住むところの近くに置いて管理しようと試みた。種を取って播きま 、みずからの意志によって自然を手なずけようとさえした。
 人間の管理下に置かれたもののうち、栽培さいばいされることに甘んじあま  た植物もあったし、断固としてそれを拒否きょひし、野生の状態でなければ生育しないことを死をもって示した種もあったろう。
 食用になる野草山菜のうち、人の管理下での植が可能なものが「ベジタブル」と呼ばれる。生長・増殖ぞうしょくすることが可能、という意味である。
 そればかりではない。品種の「改良」という名のもとに、人間は植物の姿かたちさえも自分たちの望む通りに変えてきた。根が食べたいと思えば、根を太くする。くきが固いと思えば、柔らかくやわ   する。
 たとえばレタスとかキャベツとかいった、丸く結球する野菜を考えてみよう。
 これらの植物は、芽が出てからしばらくのようすを見ていればわかるが、最初はごくふつうの、それぞれの葉が外側に反りながら上に伸びの ていくかたちの青菜である。それが、ある時点から、しだいに外側の葉が内側の葉を包むように巻きはじめる。
 この性質は、人間がつくったものである。
 葉が丸く内側に巻きはじめるのは、過剰かじょうな栄養のために過度に増えた葉がこみあって伸びるの  場所を失うからだ。もちろん生体が想定し得る以上の栄養を与えるあた  ことができるのは人間だけであり、そうして得られた結果――つまり、結球することによって内部は日光を遮断しゃだんされて白く柔らかくやわ   なり、同時にひとつの固体の食可能な部分の体積が飛躍ひやく的に増える――を享受きょうじゅするのもまた人間なの
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だ。
 私は、野菜のために土を耕しながら、ときどきそんなことを考えた。
 「文化」という言葉の語源は「耕す」という意味だと教えられ、そうであるとすれば土を耕す農業こそはまさしく文化的な営みだと納得するが、しかしそれにしたところで、文化というのは人間が手をつけられないような荒々しいあらあら  自然をなんとか馴化じゅんかして管理下に置こうとする試みなのだ、と種明かしをすれば、それほどたいしたことをやっていないのはすぐにわかる。人は自然界にある無限の音から人の耳に美しいと感じられる楽音だけを取り出して音楽をつくり自然界の無限の風景のうち気に入った部分だけを抽出ちゅうしゅつして絵画に構成する。農耕も含めふく て、そうした「文化」的な営みの中においてだけ、人は自然を自分たちのコントロール下に置いたような気分になるのである。
 私たちの農作業は、「文化」からはほど遠いところにあった。
 九二年は、前述したように乾燥かんそうした暑い夏だった。
 九三年は、一転して雨ばかり降り続く寒い夏で、コメが大凶作きょうさく見舞わみま れたことは記憶きおくに新しい。私たちの畑でもブドウには病害が発生したし、トマトは降り続く雨にたたられてひどい減収、ジャガイモは掘り返すほ かえ 前に半分が土の中で腐っくさ た。
 そして九四年はまたまた予想を裏切る酷暑こくしょ旱魃かんばつのシーズンで、ブドウは辛くもから  枯死こしをまぬがれてなんとか収穫しゅうかくにまで至ったもののブルーベリーは熟しつつある実をつけたまま立ち枯れた が 、トウモロコシも皮を剥くむ からびた実があらわれた。そのため連日水やりに追われたが、地熱があまりにも高くそれこそ焼け石に水であった。トマトもピーマンも水不足で小さな表面の乾いかわ た悲しい実しか実らせることができなかったし、秋になってようやく持ち直したと思ったら台風の風で倒さたお れた。
 まったく、自然を手なずけるどころか、自然の大きな力に翻弄ほんろうされるばかりである。
 もちろん、その理由の大きな部分が私たちの技術や予測の未熟さ設備や投資の不足にあることは明白だが、しかし必要なソフトやハ
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長文 1.2週 reのつづき
ードをすベて兼ね備えか そな ているはずの周辺のプロの農家も結局はほとんど同じような被害ひがいに苦しんでいることを考えると、そもそも農業というのは、人間が自然に働きかけかなりの程度それを飼い慣らしたように見えて、実際には単に大きな自然界のほんの少々の「おあまり」をいただくくらいのことしかできないのだ、ということがわかってくる。
 畑仕事をはじめた最初の年には、抜いぬ ても抜いぬ ても生えてくる雑草と格闘かくとうしているうちに、「いったい、おれはなんでこんなことをしているのだろう」と自問することがしばしばあった。「こんな無駄むだなことにかかわっている時間に、もっとほかにやるベきことがあるのではないのか?」そう思ってイライラしたこともある。
 しかし、そんな過渡期かときの思いも、二年めに入るとしだいに消えていった。
 畑仕事は、いくら人間が焦っあせ ても、できないものはできない。われわれの望むもののうち、自然の合意を得られた分だけを、ゆるゆるとすすめることしかできないのである。

(玉村豊男「種まく人」より)
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a 長文 1.3週 re
 われわれ自身は必ずしも意識していないかも知れないが、例えば「スミマセン」という表現は不思議だと感じられることがある。この表現は英語で言えば「Thank you」と「I am sorry」といういずれの表現の使われる場合にも用いられるが、一方は「お礼」、他方は「お詫び わ 」の表現であり、そのように一見相反するとも思えるものが同じことばで表されるのは不可解だというわけである。しかし、われわれ自身がこれらの表現を使う時の気持を少し意識的に内省してみればすぐ分かる通り、相手から何か好意あることをしてもらうことは有難い(Thank you)と同時に、負担をかけたという意味で申し訳ない(I am sorry)ことであり、こちらからもそれに応える何かをお返しするまでは事はすまないし、自分の気持ちもすまない――ということで、日本語にはそれなりの論理が背後にあるわけである。
 あるいは、このような例はどうであろうか。英語では、「I am cold」「You are cold」「He is cold」は、どれも同じように普通ふつうの自然な表現である。ところが日本語だと、「ボクハ寒イ」はよいが、「君ハ寒イ」、「かれハ寒イ」というのは不自然に聞こえる。一見、日本語の方は筋が通っていないように思えるが、それなりの論理は背後にある。つまり、寒いと感じるのは本人の感覚であり、それを本当の意味で体験できるのはその本人だけである。したがって、自分の寒いのは自分で分かるから良いが、同じことは他人についてはできないはず、というわけである。「君(かれ)ハ寒イ」などという表現を聞くと、何となく差し出がましいことを言っているという印象を受けるのもそのためである。(本人が寒いということは、本人以外にはその内的な感覚が外からも知覚できるような形で現れて初めて分かることである。「君(かれ)ハ寒ガッテイル」ならば不自然でなくなるのは、そのためである。)
 この種の例は言語のいろいろな面で、またいろいろな抽象ちゅうしょう度で、見出し議論することが可能である。そこで見出される特徴とくちょうも、この言語特有のものから、どの言語にも普遍ふへん的なものに至るまで、さまざまな段階のものがあろう。そして、また、それぞれの特徴とくちょうの持っている文化的な意味合いもさまざまであろう。それは、言語を使う人間が一方では自分なりの創造をすることのできる文化的存在であり、同時に、他方では生物学的存在として生理的・
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心理的に(例えば、発声・調音器官の構造の類似、記憶きおく力の限界など)共通の制約を有しているからである。
 しかし、いずれにせよ、一つの言語を習得して身につけるということは、その言語けんの文化の価値体系を身につけ、何をどのように捉えるとら  かに関して一つの枠組みわくぐ 与えあた られるということである。(その意味で、一つの言語を習得するということは一つの「イデオロギー」を身につけることなのである。)そこで身につけられる価値体系やものの捉えとら 方の枠組みわくぐ は、決してそこから抜け出せぬ だ ないといった性格のものではない。しかし、われわれがとりわけ日常的なレベルで、それらを「自然」なものとして受け入れている限りにおいて、自らの身につけている言語によって、ある一つの方向づけをされているのではないか。しかも、われわれ自身はそれに必ずしも気づいていないのではないか。もしそうだとすると、この点における言語の働きは、人間という存在にとって「無意識」の働きにもある程度類比できるのではないか。いや、むしろ、「無意識」の方がいろいろな意味でその働きを言語に負っているのではないか。こういった反省にまで進んでいくことになるのである。

 (池上嘉彦よしひこ「記号論への招待」)
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a 長文 1.4週 re
 なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象も手伝ったにちがいないが、「安寿あんじゅ厨子ずし王」の話は私には暴力にも似た一撃いちげきであった。グレアム・グリーンが『失われた幼年時代』で言っているように、「本というものがわれわれの人生に深い感化を及ぼすおよ  のは、おそらく幼年時代だけである。それ以後は、感心したり、面白がったり、これまでの見方を修正したりすることはあっても、多くはすでに考えていたことを本で確認するにとどまる。こいをしていると、自分の顔かたちが実物以上によく見えるような気がするのと同じである。」
 私が鴎外おうがいの『山椒さんしょう大夫』を読んだのは、大人になってからであった。そして今度また久しぶりに再読したが、結末のところを見て、そうかと思った。あの母親は、可愛いさかりのむすめと息子をさらわれた哀しみかな  に夜も昼も泣いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてしまった、というくだりがあるような気がしていたからである。むろん、作者はそんなことは書いていなかった。書く必要もなかったにちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読んだのか、でなければ自分でそう考えたのであろう。いずれにしても、私の心には絵本のイメージのほうが生きていたのである。
 私が鴎外おうがいの結末でいい加減に読み過ごしていた箇所かしょは、もう一つあった。作者はこう書いている。
「女はすずめでない、大きいものがあわをあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いうるお が出た。女は目がいた。
 『厨子ずし王』という叫びさけ が女の口から出た。二人はぴったり抱き合っだ あ た。」
 それは厨子ずし王が姉の形見に肌身はだみ離さはな ず持っていた守り本尊の力であるという。そこが、ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほうはどうであったかは、もう覚えていない。子供心にも、この最後の奇蹟きせきはいくぶん付けたりのように思われたかもしれない。今の私には、親の一念、子の一念とはそれほどのものかもしれないと思う気持ちもある一方で、不幸な女の盲目もうもくという書き方に、何か古い物語
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慈悲じひのようなものを感じる。ハッピーエンドがつまらぬというのではなく、目が明くことのほうが残酷ざんこくな場合も人生にはあるだろうからである。
 作者鴎外おうがいは、この作品の発表(大正四年)と同時に『歴史其儘そのままと歴史離ればな 』という文章を書き、自ら詳しいくわ  解題を行っている。そして、「山椒さんしょう大夫のような伝説は、書いて行く途中とちゅうで、想像が道草を食って迷子にならぬ位の程度に筋が立っているというだけで、わたくしの辿ったど て行く糸には人を縛るしば 強さはない。わたくしは伝説そのものをもあまり精しく探らずに、夢のような物語を夢のように思い浮かべおも う  て見た」と言っている。
 「夢のような物語を夢のように」というその夢は、ある特定の個人が見る夢というより、われわれ日本人のだれしもが民族の血の中に受け継いう つ できた古い歴史の余映のようなものであろう。夏目漱石そうせきも短編集『夢十夜』(明治四十一年)で、われわれの現在を支配する過去の恐ろしいおそ   姿を、不条理なイメージの断片を突きつけるつ    ようにして、あばいて見せた。伝説のみならず、お伽噺 とぎばなしや民話や怪談かいだんのたぐいがいつの世にも子供の心をとらえるのは、子供自身の血の中に、自分が生まれる何代も前の記憶きおくを呼び起こそうとする本能が潜んひそ でいるからだとでも考える他はない。

阿部あべ昭『短編小説礼さん』)
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a 長文 2.1週 re
二番目の長文が課題の長文です。
 どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは海浜かいひん、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しくくわ  見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡めいしょきゅうせきなどのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し詳しくくわ  具体的な事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を捜し出しさが だ て読んでみる。そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら詳細しょうさいな案内記を丁寧ていねいに読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後にはつまりいいかげんに、さいでも投げると同じような偶然ぐうぜん機縁きえんによって目的の地をどうにかきめるほかはない。
 こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない違算いさんを生ずる心配が少ない。そうして主要な名所旧跡めいしょきゅうせきをうっかり見落とす気づかいもない。
 しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初からさいをふって行く所をきめてしまう。あるいは偶然ぐうぜんに読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡めいしょきゅうせきなどのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いへテロドックスのやり方である。これはうっかり一般いっぱんの人にすすめる事のできかねるやり方である。
 しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人
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の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠しかく 耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李こうりの中にでも押しこめお   られたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽きょうらくしたりすると同じような事になる、こういうふうになりたがるおそれがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
 しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。
 しかしそれではわざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んふ で、その見る景色踏むふ 大地と自分とが直接にぴったり触れ合うふ あ 時にのみ感じ得られる鋭いするど 感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けさ たがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるおそ  からである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出すほ だ 機会がある。

(寺田寅彦とらひこ「案内者」より)
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長文 2.1週 reのつづき
 現代はアイデンティティ不定の時代といわれている。私はなにものか。私は何をして生きていけばよいのか。どうすれば自分らしさを発見できるのか。これらの問いは青年期につきものだが、最近では、青年期に限らず、およそライフステージのどこにおいても、このような問いにつきまとわれることが多い。
 近代社会は、前時代の共同性を解体させ、一人の個人がある具体的な共同体に属することの内的な意味を希薄きはく化させた。それが、私たちのアイデンティティ不定の大きな要因として関係している。それは同時に、私たちの社会において「大人である」とか「大人になる」とかいうことが、何を指すのかがはっきりしないことをも意味する。
 なぜならば、かつては、大人になることは、端的たんてきに、個人が自分の属すべき共同体の一員としての資格を得ることを意味していたからである。共同体があるひとつの精神のもとに統一性を保っていれば、大人であることの意味はおのずから決まってきた。したがって大人になることは、その共同体のかくをなしている精神を心身両面において理解し、それを自分が生きていくための基本の型として承認することを意味していた。
 よく知られているように、近代以前の社会には、それぞれの社会の要請ようせいに見合った何らかの通過儀礼ぎれいが存在した。子どもと大人はこの儀式ぎしきによってはっきりと分けられていた。たとえば、わが国の武家社会における元服の儀式ぎしきは、それを最もよく象徴しょうちょうしている。一定の年齢ねんれいになると、男子は幼名をはい烏帽子えぼし名をつけ、服を改めて、かみを結いなおしたりさかやきを剃っす たりした。
 ところが近代は、子どもから大人への変化期からこの単純な境目を取り払いと はら 、代わりに「教育課程」という、長い射程をもったシステムをあてがうことにした。いうまでもなく、学校制度がその機能を果たすことになったのである。
 「教育課程」は、節目のはっきりしないたいへん間延びしたプロセスである。それは、人間はだんだんと段階的に成長していって大人になるものだというイメージを私たちのなかに知らず知らずのうちに植えつける。近代の教育制度は、自分がどこで大人になったのかという自覚を曖昧あいまいなものにさせる効果を持っていたのである。
 一方では、いま述べた認識と一見矛盾むじゅんする次のようなこともいわれている。
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 近代以前には、子ども期と呼べるような時期は存在せず、子どもはみな小さな大人であった。幼児期をすぎると、ごく早い時期から子どもは大人の集団に仲間入りして、かれらの話や行動のなかから見よう見まねで大人社会の規範きはんやそのありさまを学び、明瞭めいりょうに問題化されることとひそやかに語られることとの区別などを身につけるようになっていった。(中略)
 ところが近代になって、資本主義的生産が飛躍ひやく的な発展を遂げると  に従い、一人の生産者が複数の消費者を養えるようになると、「家族」が、一般いっぱん世間から明瞭めいりょう輪郭りんかくをもって成立するようになった。
 この、一般いっぱん世間からの家族の明瞭めいりょうな自立が、年少の人々を内部に囲い込みかこ こ 、そこに子ども期と呼ベるような独立した時期を誕生させた。人間の成長・成熟にとって、家族生活の重要性が浮かび上がるう  あ  ようになった。(中略)
 それまでは、子どもは生むにまかせ、大した配慮はいりょもなく育つにまかせていた。子どもは、家族の内側と外側のはっきりしない境界線を、早くから行き来していた。そして、親から身体的な意味で自立できるようになるごく早い年齢ねんれい段階から生産にかり出され、大人の世界に参加させられていた。
 ところが、ある時期から、人々は、子どもをまさに子どもとして「大切に」あつかうようになった(あつかいが実質的に少なくなったのかどうかという判断の尺度にはならない)。フィリップ・アリエスのいう「十七世紀までは子どもは小さな大人にすぎなかった。子ども期は近代になって発見されたのだ」という有名なことばはそういう意味である。
 したがって、両方の認識は矛盾むじゅんするのではなく、同じ一つのことを異なる二つの側面から観察したものと考えるべきだ。要するに、子どもと大人との間に単純に荒々しくあらあら  引かれていた境界線が取り払わと はら れ、それまでは半ばどうでもいいものとして無造作に考えられていた子どもが、もっと細心な視線を注がなければならない存在として、大人たちの意識のなかにクローズアップされてきたのである。そしてその結果、子ども期は、いくつかの段階を抱えかか 持ちつつ、次第に大人になってゆく、「過程的な」存在とみなされるに至ったのである。

小浜(こはま 逸郎いつお「大人への条件」による)
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a 長文 2.2週 re
 私の英語力はほとんど中学三年間の教育に依拠いきょしている。高校時代に覚えた難しい単語は記憶きおく彼方かなた霧散むさんしてしまったし、大学時代の英語教育はなきに等しかった。大学にはLL教室があったけれども、テレビモニターを相手におうむ返しに発声するという行為こういの単純さと滑稽こっけいさには耐え難いた がた ものを感じた。現代小説を読むリーディングの授業は他力本願で何も身につかなかった。一番ひどかったのがアメリカ人講師による会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その主な理由は、講師の「笑顔」にあった。金髪きんぱつかれは、授業の間中、表情豊かに微笑びしょうしつつ頻繁ひんぱんに学生たちに語りかけていた。たいてい私はうつむいて、机の下でつめをいじったりしながらそれを聞いていた。それがいけなかった。
 視線を落として指先のあたりを見つめるのは「意識を集中して何かを聞く」ときの私の定型ポーズにすぎないのに、かれにかかると、それは授業に対する「不満の表明」とみなされる。しょっちゅう机のわきに来ては、「何か問題がありますか?」「具合でも悪いのですか?」と尋ねたず られてうっとうしいことこの上ない。私は無表情に首を振るふ 。「別に、何もありません」心の中では思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに笑っちゃいられないわよ。馬鹿ばかじゃないんだから……。そうこうする間に私の英語力は息絶えた。
 それから十年以上が経った昨夏、女子大生の語学研修に同行してアイオワ州のある私大へ行った。私自身は英語のレッスンに参加したわけではなかったけれども、ひと月近く滞在たいざいするうちに、あちらの教授じんとかなり緊密きんみつな付き合いをすることになった。なにしろ、朝昼晩の食事が一緒いっしょである。毎日、レッスンの前後にあちこちへ案内され、週末には自宅へ招待される。それはもう逃げ場に ばもなく英語攻めぜ ということでもあり、苦しさ半分有り難さ半分といった日々。苦しさの方は、言葉が頭の中に渦巻くうずま ばかりで口から発射されないことだ。だいたいすれ違う  ちが たびに見知らぬ人と挨拶あいさつを交わすという習慣からして私にはつらい。にっこり笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと疲れつか てしまう。
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 有り難さの方は彼らかれ のあふれるホスピタリティに触れふ たことだ。アルバイトの学生から役付きの偉いえら 教授までが、私の日常の細やかな部分に気を遣っつか てくれる。立場が逆だったら、こうまでは出来ない。「笑顔」である。彼らかれ 揃いそろ 揃っそろ てにこやかな人々だった。いつ会ってもキゲン良さそうに微笑んほほえ でいる。ほとんど朝から晩まで笑っているのかと思うほどだ。もしかすると表情筋が笑顔に固定されているのかもしれないとさえ思った。陽気な奴らやつ なんだ、きっと。笑顔の民族なんだな。ある時私は見てしまったのだ。今までにこやかに笑顔を振りまいふ   ていた教授が、一人になったとたん、考え深げな、どことなく徒労感の漂うただよ 表情に戻るもど のを。かれはふと、まだ傍らかたわ に私がいるのに気づいたけれども、再び同じテンションの笑顔に持っていくまでには驚くおどろ ほど時間がかかった。その時、彼らかれ の笑顔が意識的な努力の賜物たまものであることを私は悟っさと た。
 彼らかれ は実に意識的な人々だった。明快な価値観を持ち、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん選択せんたくし、行動に移す。笑うべきだと思うから笑うということだ。たとえ一番気が抜けるぬ  はずの家庭でさえ、意志の力で支えていかなければあっという間に瓦解がかいするという厳しい認識が、日常の些細ささい行為こういの背後にも痛いほどに感じられる。現実は厳しく、それを乗り越えるの こ  ためには強靭きょうじんな意志力と行動が必要なのだ。
 その厳しい現実の一つがきっと理解不可能な他者の存在なのだろう。ひと月の間に、さまざまな場所でさまざまなアメリカ人とすれ違う  ちが うちに、私は一つの妄想もうそう抱くいだ ようになった。「向こうから知らない人が歩いてくる。言葉は通じそうにない。何か誤解されたらナイフを突き付けつ つ られるかもしれない。ピストルだったら即死そくしだ」そのような心理的風土のもとでなら、過剰かじょうだろうがなんだろうが誤解の余地もないほどに微笑んほほえ で敵意のないことを相手に示そうとするだろう。相手もそうするだろう。摩擦まさつを起こさず、安心してくらせる市民社会の、それがルールになるだろう。
 ここにいたって、その昔、苦手だった英会話のクラスで何が起こ
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長文 2.2週 reのつづき
っていたのか、私はようやく理解した気がするのだ。こういう国から来た人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの努力を怠っおこた た私には苛立っいらだ たはずだ。今思えば、かれもまた強靭きょうじんな意志力によって精一杯せいいっぱい私たちに微笑みほほえ かけていた。こちらが無表情だった分、かれ微笑みほほえ 過剰かじょうになるのかもしれなかった。英語表現の基礎きそ語彙ごいでも構文でもなく、伝えようとする意志、微笑むほほえ その姿勢だと教えていたのかもしれなかった。
 アメリカ人は、あんなに毎日一生懸命いっしょうけんめいに生きていて疲れつか ないのだろうか。
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a 長文 2.3週 re
 大相撲おおずもうをはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの緊迫きんぱく感がぜんぜんないということだ。それどころか、そもそも立ち会いの瞬間しゅんかんも注意をこらしていないと、すぐ見逃しみのが てしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。テレビの相撲すもう中継ちゅうけいでは、懸賞けんしょうの提供者紹介しょうかいや客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは遮断しゃだんされていて、制限時間いっぱいになってから観客の声援せいえんを入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、一抹いちまつ緊張きんちょう感がただようわけだ。ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一ます四人食べ物を拡げ、酒やビールを呑みの ながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
 演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台ぶたいとそれを鑑賞かんしょうする観客とを空間的に分離ぶんりすること、そういう制度になれてしまうと、大相撲おおずもうとか歌舞伎かぶきの楽しみかたに、はじめはとまどう。けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑賞かんしょうする西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷きゅうていの庭や居間で、あるいは街の芝居しばい小屋や路上で、催しもよお として行われていたわけで、必ずしも純粋じゅんすい鑑賞かんしょうの対象であったわけではない。渡辺わたなべひろしによれば、たとえば十八世紀の演奏会は極端きょくたんな言い方をすると「音楽のあるパーティー」といったおもむきの社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を聴くき 場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
 「おしゃべりだけではない。聴衆ちょうしゅうは演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコ
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ンサートの回想の中で、「無数のパイプから立ち上った煙草たばこけむりのもやの中で指揮をすることは容易ではなかったろう」と述べている。また一七八四年のエアフルトでの演奏会の記録によれば、ビールや煙草たばこが認められていただけでなく「とりわけ音楽が好きでない人々は気晴らしにトランプをやっており、ご婦人方は徐々にじょじょ そちらに加わっていった」。フランクフルトのコンサート協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れてくることは禁止」と書かれていたというのも興味深い。そんなことをわざわざ断らなければならないというのは、そういうことを何とも思っていないやからがいたということのあらわれである。(渡辺わたなべ格「聴衆ちょうしゅうの誕生」)」
 じっと息をこらして、作品の世界にひたりきるという「集中的聴取ちょうしゅ」の思想はまだなかったわけである。いま、たまたま思想ということばを使ったが、居ずまいを正して作品に集中するというような聴取ちょうしゅの態度はかならずしも自明のものではなく、「芸術の享受きょうじゅ」あるいは「作品の鑑賞かんしょう」という一つの思想をバックボーンとして、制度化されてきた態度にほかならないということである。そしてそのために、演ずる者、演奏する者と見る者、聴くき 者とを空間的に分割する装置が、劇場やコンサート・ホールとして建造されたのだ。
 「隔たりへだ  」ということが、ここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見る者、聴くき 者、つまりは、見られるものと見るものとを空間的に分離ぶんりする装置のなかで、二つの距離きょりが発生する。主体と対象との隔たりへだ  と、主体とただの主体との隔たりへだ  である。
 見る主体と見られる対象との隔たりへだ  は、芸術の場合、「鑑賞かんしょう」という概念がいねんと連動している。愉したの みの「享受きょうじゅ」というよりもむしろ、距離きょり隔てへだ て「鑑賞かんしょう」すべき客体として「芸術作品」が主体から空間的に分離ぶんりされていくそのプロセスを支配していたのは、近代芸術における「美の自律性」という考えかた、「美」はそれ自体としての独立の価値をもつという考えかただ。「芸術作品」は、それが創られた時代や環境かんきょう超えこ た独自の「美的」世界をもつ。それが置かれた状況じょうきょう、あるいはそれを前にした鑑賞かんしょう者によって価値
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長文 2.3週 reのつづき
を変えるなどということは、本来、「芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの作品は味覚とか嗅覚きゅうかく触覚しょっかくといった、そのつどの状況じょうきょうによって感覚内容が変化するような「低級」な感覚に支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、視覚や聴覚ちょうかくのような、距離きょりをおいた感覚、対象と接触せっしょくしたり混じりあったりすることのない「普遍ふへん的な感覚」によって支えられるのでなければならない、とされるのである。
 さて「隔たりへだ  」のもう一つの意味は、他者との隔たりへだ  ということである。たとえばコンサートでも演劇でも、開演にあたってまず客席の照明が落とされる。これはまずは、見るものと見られるもの、演奏するものと聴くき ものとを空間的に分離ぶんりするためもあるが(客席を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見る人ではなく見られるばかりの人になり観客は見られることなく見るだけの人になる)、同時に、まわりにいる他の人間たちから個人を分離ぶんりし、隔離かくりするためのものでもある。観客が、他人にじゃまされることなく、個人として作品鑑賞かんしょうに集中できるよう、作品世界に投入できるように、照明が落とされるのだ。だから建物は、純粋じゅんすいに「作品」の世界だけに集中できるよう、周囲の騒音そうおん遮断しゃだんする構造になっているし、観客は観客で、持ち物、パンフレット、咳払いせきばら などで余計な物音を立てることのないよう注意しなければならないのである。
 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、例えば演奏中に客が絶叫ぜっきょうするようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に巻き込みま こ 、ストーリー展開のなかに偶然ぐうぜん的な要素をどんどん導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路上で予告なしに劇が開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような近代の「芸術鑑賞かんしょう」という制度そのものに攻撃こうげきの照準を合わせていたのであった。

 (鷲田わしだ清一)
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a 長文 2.4週 re
 その翌日であった。母親は青葉の映りの濃くこ 射す縁側えんがわへ新しい茣蓙ござ敷きし 俎板まないただの包丁だの水おけだの蠅帳はいちょうだの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
 母親は、自分と俎板まないたてた向こう側に子供を坐らすわ せた。子供の前にはぜんの上に一つの皿を置いた。
 母親は、うで捲りめく して、薔薇ばらいろのてのひらを差し出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて擦りこす ながら云っい た。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵えるこしら  人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
 母親は、はちの中で炊きた さました飯にを混ぜた。母親も子供もこんこん噎せむ た。それから母親はそのはち傍らかたわ に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴みつか 出して、両手で小さく長方形に握っにぎ た。
 蠅帳はいちょうの中には、すでにすしの具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取り出してそれからちょっと押さえお  て、長方形に握っにぎ た飯の上へ載せの た。子供の前のぜんの上の皿へ置いた。玉子焼すしだった。
「ほら、すしだよ。おすしだよ。手々で、じかに掴んつか べても好いのだよ」
 子供は、その通りにした。はだかのはだをするする撫でな られるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつべてしまうと体を母に拠りよ つけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめたこう湯のように子供の身うちに湧いわ た。
 子供はおいしいと云うい のが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握りにぎ 蠅帳はいちょうから具の一片ひときれを取りだして押しつけお   、子供の皿に置
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いた。
 子供は今度は握っにぎ た飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いのぞ た。すると母親は怖くこわ ない程度の威丈高いたけだかになって、
「何でもありません。白い玉子焼きだと思ってべればいいんです」
といった。
 かくて、子供は、烏賊いかというものを生まれて初めてべた。象牙ぞうげのように滑らかなめ  さがあって、生もちより、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊いかすしべていたその冒険ぼうけんのさなか、詰めつ ていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現さなかった。
 母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおるす    切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かさおびや  れるにおいに掠めかす られたが、鼻を詰まらつ  せて、思い切って口の中へ入れた。
 白く透き通るす とお 切片は、咀嚼そしゃくのために、上品なうま味に衝きつ くずされ、程よい滋味じみの圧感に混じって、子供の細い咽喉いんこうへ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いちが ない。自分は、魚がべられたのだ――」
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺しか ころ たような征服せいふく新鮮しんせんを感じ、あたりを広く見廻しみまわ たい歓びよろこ を感じた。むずむずする両方の脇腹わきばらを、同じような歓びよろこ で、じっとしていられない手の指で掴みつか 掻いか た。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
 無暗に疳高かんだかに子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒めしつぶを、ひとつひとつ払いはら 落としたりしてから、わざと落ちついて蠅帳はいちょうのなかを子供に見せぬよう覗いのぞ 云っい た。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」子供は焦立いらだって絶叫ぜっきょうする。
「すし! すし!」
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長文 2.4週 reのつづき
 母親は、嬉しいうれ  のをぐっとこらえる少しとぼけたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯しょうがい忘れ得ない美しい顔をして、
「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」
 最初のときのように、薔薇ばらいろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてからすし握りにぎ 出した。同じような白い身の魚のすし握りにぎ 出された。
 母親はまず最初の試みに注意深く色と生臭なまぐさの無い魚肉を選んだらしい。それはたいと比良目であった。
 子供は続けてべた。母親が握っにぎ て皿の上に置くのと、子供が掴みつか 取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの痺れしび た世界に牽きひ 入れた。五つ六つのすし握らにぎ れて、掴みつか 取られて、べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の握るにぎ すしは、いちいち大きさが違っちが ていて、形も不細工だった。すしは、皿の上に、ころりと倒れたお て、載せの た具を傍らかたわ へ落とすものもあった。子供は、そういうものへ却ってかえ  愛感を覚え、自分で形を調えてべると余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃ひごろ、内しょで呼んでいるも一人の幻想げんそうのなかの母といま目の前にすし握っにぎ ている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致いっちしかけ一重の姿に紛れまぎ ている気がした。

岡本おかもとかの子「すし」)
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a 長文 3.1週 re
二番目の長文が課題の長文です。
 先進国の後を追いかける途上とじょう国経済と、世界の先頭を走る先進国経済のもっとも重要な差は何かというと、「途上とじょう国経済では物まねができたけれども、先進国経済では自分で新しい知識を創造しないとそれ以上の発展ができない」ということである。途上とじょう国の有利な点は、第一に、先進国モデルが存在し、容易に産業化のための目標がみいだせること、第二に、先進国から技術を導入できること、そして第三に、賃金など全体的なコストが先進国に比べて有利であることなどである。
 このような有利性が存在しているかぎり、自らオリジナルな技術や知識を創造する必要性はそれほど高くない。先進国から使える技術を輸入し、それに安い賃金の勤勉な労働力を張り付けるだけで競争力を身につけることはできるだろう。もっとも、これとてどこの国にでもできるほど簡単なことではないが、日本や現在急成長中の東アジア諸国はいずれもこのシナリオで成功してきた。
 しかし、日本についていえば、これらの好条件はすべて消滅しょうめつしたといってよいだろう。十年ほど前に、日本経済は歴史的なコスト条件の逆転を経験した。またインプット拡大による成長にも人口の高齢こうれい化、労働力人口の減少、貯蓄ちょちく率の低下などの理由から多くを期待することはできない。その結果、日本は先進国の宿命すなわち自らの行く先を自らの創意工夫で切り開かなければならないという宿命を、好むと好まざるとにかかわらず背負うことになったのである。
 日本の社会経済体制は、欧米おうべいに追いつき、追い越すお こ という明治以来の国策にそって形成されてきた。たとえば、日本の教育制度は欧米おうべいの先進的知識を詰め込むつ こ ことを目指して発達してきた。これはすばらしい戦略であった。欧米おうべいと日本の間に、科学技術や近代思想などの点で大きな知識のギャップがあったのだから、まずはこのギャップを一刻も早く埋めるう  ことが必要であったし、そうすることがキャッチアップを効率的に進める唯一ゆいいつの方法であった。
 しかし、日本がキャッチアップを終えた今となっては話は変わってくる。外来の知識を学ぶだけでは必ずしも独創的な知識は生まれない。日本の学校教育(とくに義務教育)はすばらしいという説があるが、それは少なくとも今日的観点からはとんでもない誤解である。たしかに、先進国に追いつく目的のために、先生が生徒に
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知識の押し売りお う 詰め込みつ こ を強要することは理にかなっていたかもしれない。いや、欧米おうべいとの巨大きょだいな知識ギャップを一刻も早く埋めるう  ためには、大車輪で知識の吸収に努めなければならないことは当然であった。知識吸収を急ぐあまり、時に青年たちの独創性、オリジナルなものの考え方を育成するもうひとつの教育の重要な役割が多少なおざりにされたとしても、それはある意味ではやむをえなかったことといえるかもしれない。
 しかし、今日のように、自ら価値を創造することが要求される時代になっても、教育システムが本質的な意味で何も変わっていないとすればそれは大きな問題であろう。最近の教育改革論議は当然のことながらこのような観点からなされることが多い。しかし、教育の現場では、相変わらず先生が大教室で黒板に知識を羅列られつし、日本的な意味での「優秀ゆうしゅうな」生徒は、試験のときにそれを正確に再現することを要求されている。生徒の能力差や、興味の所在などは無視し、とにかく上から与えあた られた課題を、先生が決めたスピードでこなしていくことが「優秀ゆうしゅうな」生徒の絶対的条件である。極度に一律化された教育風景である。
 日本の教育現場で自分の頭で考えた独自の意見を前面に押し出すお だ ことが高得点につながるという話はおよそ聞いた試しがない。試験では先生が正解と認定する答を書くことが得策であって、先生の頭になかったようなユニークな答を尊重する風潮はない。生徒は一定のわくのなかで発想する習慣をたちまち身につけてしまう。このように「優秀ゆうしゅうな」生徒はいくつかの入試を経て、完璧かんぺきなまでに「知識吸収型」のわくにはまった答しかできない受動的人間になってしまう。

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長文 3.1週 reのつづき
 今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会がふつうの社会となり、国家となっている。しかし、今日、共同体が完全につぶされたわけではない。豪族ごうぞくなど大きな共同体はすでにつぶされてしまっているが、依然としていぜん   最小単位共同体の家族は残っている。そして一方、共同体意識の方は、今も人々の間にしぶとく生き続けてきている。
 共同体の本質は感覚であるから、理屈りくつ、理論すなわち知よりも情が尊ばれる。漱石そうせきの言う「に働けば角が立つ」わけである。しかし、法が現代の社会を動かすものとなっていることを認めざるをえないから、「情に流されまい」とする努力が必要となる。この両者の間をゆれているのが、現代の人間である。
 しかし、孔子こうしはそうではなかった。かれが生きていた時代は、法が登場しはじめたころであり、当時、法優先は異端いたんの思想であった。それは、共同体という体制の根幹をゆるがす「悪の思想」とみなされていたのである。孔子こうしはその「悪」の摘発てきはつ者であった。こういう話がある。
 晩年、おそらく六十代も半ばを越えこ たころ、孔子こうし為政者いせいしゃとしての地位を求めて、諸国を流浪るろうしていた。あるとき、しょうという小さな街に立ち寄ったらしい。この街は、南方の強国であった国の一行政地区である。その街の長官のしょう公が、孔子こうしにこう言った。自分の街に「直躬(ちょくきゅう」(正直者の(きゅう)という仇名あだなの者がいる。その父親が羊を盗んぬす だとき、その子は父の犯罪を隠さかく ないのみならず、盗んぬす だことの証言をした、と。
 ところが孔子こうしは言い返した。私の仲間の「直」という仇名あだなの男の行動は違いちが ます。「父は子のために(子の犯罪を)隠しかく 、子は父のために(父の犯罪を)隠すかく 。直(の本当のありかたは)、その中に在り」と。
 この問答を読んだとき、現代人のわれわれの大半は、おそらくしょう公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。それは人間社会における法優先の立場である。近代国家では、それが正
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しい、善いことである。
 しかし、前述のように、孔子こうしのころは、まだ各種共同体が現実に機能していた時代である。仮に犯罪が起っても、共同体でそれを裁く長老は、いろいろと事情を考えてばつを決める。時には、罪として公にしないで、事件をやみからやみへと処理するだろうし、時には、みなへの見せしめに、窃盗せっとう程度でも死刑しけいにすることすらある。そのように裁量のはばが広い。そのばつを決めるのは、共同体をリードする道徳にどのようにそむいているかという点においてである。
 だからたとえば共同体の有力者が、明らかに罪を犯し、裁かれるとき、その有力者の犯罪の証言を拒否きょひする部下は、法優先の公の立場からは指弾しだんされても、同じ共同体メンバーの立場からは、逆に賞賛を受けることであろう。このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断のむつかしい問題を抱えかか ているのである。
 しん始皇帝しこうていを代表者として、中国古代のしん・漢帝国ていこくが成立したころ、法的社会を作ろうとする側と、従来からの道徳的共同体とは、至るところで衝突しょうとつを起こしたのである。まして、法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代、すなわち孔子こうしが生きていた時代では、法は、共同体側から見れば、自分たちの体制を崩すくず 悪であるとするのが常である。各種共同体が機能しなくなってしまった現代では、法的処理の間にはさみこまれる共同体的処理が、逆に不正なこと、悪であるとされる。たとえば、今日、老父の罪を見逃しみのが てもらうために、贈賄ぞうわいすれば、どうなるか。子は罪を犯すことになる。しかし、老父を捕えとら た検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。共同体的感覚による行為こういである贈賄ぞうわいと美談とは紙一重の差なのである。
 このように、法的社会が形成されて以後、共同体との関係というやっかいな問題を人間は抱えこんかか   できて今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいる。
 さて、共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件
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長文 3.1週 reのつづき
として道徳性を身につけなくてはならない。ちょうど、法的社会の指導原理が法であり、指導者はその条件として、法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならないのと同じように。あえて言えば、共同体社会は規模が小さく、前例主義なので、新しい政策の立案といったようなことはあまりなかった。
 この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。 だから孔子こうししょう公に対して、「近き者(近くの人々)は説び、遠き者(遠くの人々)は(慕いした )来る」と述べている。これが道徳政治というものの姿である。
 すなわち「共同体→共同体のきまり(慣習)→道徳」という体系に合わせて「共同体の指導者→共同体のきまり(慣習)の熟達者→道徳的完成者(聖人)」という図式を考えだしたのである。そして道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治を道徳政治(徳治政治)としたのである。これは、「法的社会→法的社会のきまり→法」に基づく「法的社会の指導者→法的社会のきまりの実行者や政策プランナー」という図式による法的政治(法治政治)と鋭くするど 対立する。
 前者の道徳政治を主張したのが、儒家じゅかであり、その組織的理論化や、理論的指導を行なった最初の人が孔子こうしであった。
 後者の法的政治を主張したのが、孔子こうしよりずっと後に出てきた法家ほうか(たとえば韓非子かんぴし)であり、その方式に基づく大政治家が、しん王朝を建てた始皇帝しこうていである。

 (「論語を読む」加地伸行のぶゆきより)
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a 長文 3.2週 re
 イロリの社交は、家族結合の社交であった。一家団欒だんらんということばは言うまでもなく家族がおなじ火をかこんでいることを指した。ひとつの火を通じて心がかよいあう。そういう不思議な力を火はもっていた。家族だけではない。客人もまた、おなじ火をかこむことで、他人ではなくなる。火は人間を近づけるのである。若者たちが夏の山や海で火を燃やしてひらくファイヤー・ストームなども、まさしく火による人間結合の現代的なあらわれのひとつであろう。
 イロリの社交には、秩序ちつじょがあった。よく知られているように、イロリの四辺にはだれがどうすわるかについての約束事がある。土間に面していちばんおくの辺は横座である。そこには戸主以外の人間がすわってはいけない。横座からみて左がわの辺にすわるのは主婦によって代表される家の女たちである。この座席はカカ座などと呼ばれる。そして客人の席、すなわち客座は横座からみて右、横座の正面は使用人や場合によってはよめの座る下座――そんなふうに席の割りふりがきまっていたのである。こんにち、比喩ひゆ的に、たとえば「主婦の座」というようなことばが使われるのは、このようなイロリの座の割りつけから延長されたものだと考えてよいだろう。
 それぞれの座がきめられ、冬の夜などイロリをかこんで世間話がつづく。火を共有しているという事実が、そして、ときにはバチバチと音をたてて燃えるほのおが、いわばその世間話の背景音のようなものになる。火は、家庭の健在をしめす象徴しょうちょうなのでもあった。
 これとまったくおなじことが、西洋でも考えられる。かつてマーガレット・ミードはフランス文化を論じて、フランス文化の基本になっているモチーフはFoyerであるといった。このフォアイエというのは、一家団欒だんらんを意味し、同時に火床(ひどこを意味することばだ。同一の火床(ひどこないしは暖炉だんろを共有する家族の結合がかたいのである。
 フランスだけではない。ヨーロッパやアメリカの住宅で中流以上といういささかゆとりのある家にはたいてい暖炉だんろがある。そして、こんにちでは、ちゃんと中央管理暖房だんぼうがゆきとどいているにもかかわらず、ときどき暖炉だんろたきぎをくべて火の共有の事実を演出するのである。じっさい、イロリと暖炉だんろはその機能においてきわめて類似している。
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もちろん、火をまんなかにしてかこむイロリと火にむかって半月型にならぶ暖炉だんろとでは、社会構造は少し違うちが かもしれない。だが、おなじ火のぬくもりと光を受けることのできる場を家庭の象徴しょうちょうとすることは、たぶん東西共通なのである。
 火が人間を接近させ、親密さを強める効果をもっていることをわれわれは直観的に知っている。ラジオが大衆化したとき、アメリカの大統領F・ルーズベルトは、定期的な「炉辺ろへん談話」番組で国民に親しく話しかけた。番組の題名にある「炉辺ろへん」ということばだけで大統領と国民はぐんとその距離きょりを縮めることができたのだ。(中略)
 火の共有による親密な人間関係は、調理の火を考えてみればよくわかる。「同じかまの飯を食った」関係、というのは、遠慮えんりょのない親しい関係ということだ。おなじ火で調理されたものを飲食するというのは、暖房だんぼうや照明の火の共有よりもさらに深い共通感覚を人間たちに与えるあた  
 カマドをわける、あるいは別火にするというのは、人間のまじわりの単位をわける、ということである。調理の火の共有、それは人間をつなぐ基本的に重要な文化項目こうもくであった。
 この点でも、日本文化はいろんな工夫を凝らしこ  、それに美的洗練をあたえつづけてきたように思える。たとえばさまざまななべ料理。それは、人間が共通の火で調理されたものをわかちあうことで親密さをつくりあげてゆくためのすばらしい知恵ちえであった。
 茶の湯もまた、ある意味で火の共有を象徴しょうちょうする社交の形態であった。小さな風炉ふろとカマ、そこからまさしく茶の湯がうまれる。茶会はおなじカマからつくられた、おなじ味覚を共有する深い人間関係を形成してゆくのである。暖房だんぼう、照明、調理、それらは、いずれも人間生活にとってきわめて実用的な火の機能である。だが、人間はそういう実用性を超えこ て、火を人間関係調整の手段としても展開させてきたのであつた。火の管理はたんに物理現象としての火を管理するというだけでなく、その火をめぐる人間集団の管理をもふくむものであった。

 (加藤かとう秀俊ひでとし「暮らしの思想」より)
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a 長文 3.3週 re
 今、日本の都会では、路上でものを売る人を見かけることがほとんどない。たまにあっても、ヒッピーのアクセサリーとかワゴン・セールとか、朝市とか、いかにも特別な売り方で、ただなんとなく道端みちばたに立ったりしゃがみこんだりして客を待つという売り手がいなくなった。
 順序から言うならば、常設の店ができる前は商売はみんな路上で行われていた。道は人や馬の行き来のためだけにあるのではなく、立ち話やものの売買や時には喧嘩けんかのための公共スペースだった。家の裏の小さな畑で出来た豆やいもを町まで運んでいって道端みちばたで売る。売れたら、そのお金で、家では作れない野菜や道具類や贅沢ぜいたく品を買って帰る。商売はこうして始まったのだ。
 しかし、道で売っているものは時として信用できない。村の顔見知り同士ならともかく、大きな町で見知らぬ者からものを買うと、万一、それがインチキな品でも苦情を持ち込むも こ 先がない。今でも訪問販売はんばい通販つうはんの類にはこの種の問題がつきまとっている。
 訪問と言えば、三十年前に見事な詐欺さぎにあったことがある(どうもぼくは詐欺さぎにひっかかりやすい性格らしい)。日曜日の昼ごろ、庭で草取りをしていると、威勢いせいのいい魚屋風の男がやってきて、道から声を掛けるか  うなぎを買わんかと言うのだ。今と違っちが 冷凍れいとう蒲焼かばやきがいつでも手に入るわけではなく、うなぎはなかなか贅沢ぜいたくな食べ物だった。それが安い。たしかに安い。男は垣根越しかきねご に、なぜ安いかという理由を、特別のルートとか何とか、言葉巧みたく に話す。
 日曜だからどこの家でも父親がいる。一つ奮発しようということになって、家族の数だけうなぎを買う。それから御飯ごはん炊くた 算段になる。この時差が大事だ(保温式の炊飯すいはん器はまだなかった)。買ってすぐに食べるものではこの話は成立しない。一時間後、いよいよ白い御飯ごはんがどんぶりに盛られて、蒸して温めたうなぎが乗り、タレがかかってみんなの前に並ぶ。子供たちはわくわくしてはしを取る。ところが、一口ほおばると、これがあなごなのだ。見た目はそっくりだが、味はだいぶ違うちが あなごはあなごでうまい魚だけれども、うなぎに化けてはいけない。もちろん男は二度と来なかっ
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た。路上の取引には、いつもこのくらいのリスクがつきまとう。
 日本のように万事がお金本位になってしまっていない国では、まだ路上の商売は賑わっにぎ  ているし信頼しんらいもされている。イスタンブールでは子供たちが街頭に並んで、声を張り上げて煙草たばこを売っている。それがなぜか毎日のように品が変わる。ある日は全員がケントを売っている。次の日はそれがサムソンという国産ブランドに変わる。トルコの子供たちはよく働く。寒風の中で鼻をすすりながら、サムソンサムソンサムソンと黄色い声で呼ぶのが、今でも聞こえる。
 スーダンの煙草たばこの売り方はまた違うちが 。首都のハルトゥームは全体が砂漠さばく色にくすんだ町で、その広いっぽい道のわきに、煙草たばこ屋は黙っだま 坐っすわ ている。買うのはほとんど常連で、取引の単位は一本である。スーダンの人にとって煙草たばこは相当な贅沢ぜいたくで、一度に一箱をまるごと買える者は少ない。だから、一本ずつ買う。朝、仕事にゆく途中とちゅうで一本買って、その場で吸う。マッチで火をつけるのは無料サービス。煙草たばこ屋の周囲に立ったり坐っすわ たりして、本当においしそうに吸う。まわりにいい匂いにお けむり立ち込めるた こ  。吸い終わると、元気に仕事に行く。お金に余裕よゆうがある時には、昼にも一本買う。
 まだ禁煙きんえんしていなかったぼくは、ある日、この煙草たばこ屋から一箱買おうとした。橋を渡っわた てオムドゥルマンの町までラクダ市を見に行くのに、道中で吸う分を持参するのだ。
 一度にたくさん売れば、簡単に儲かるもう  わけだから煙草たばこ屋も喜ぶだろうと思ったのだが、それはみんなが煙草たばこ代に困っていない国から来た者の、浅ましい考えだった。
 ぼくは、一箱は売れないと言われた。つまり、この煙草たばこ屋にしても、毎朝早く、その日に売る分だけを仕入れてくる。だから、ぼくが二十本も買ってしまうと、昼休みの一服を楽しみにしている誰かだれ の分が足りなくなる。事情を知ったぼくは、一本だけ買って、火をつけてもらい、ゆっくりとその場で吸って、橋に向かった。いい気持ちだった。

 (「インパラは転ばない」池澤いけざわ夏樹より)
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 要するに、ニューヨークは何もない街らしい。だから、その点、東京によく似ているといえる。実際、商店の飾り窓かざ まどのかざりつけだの、道路から直接二階へ上る狭いせま 階段の入り口だの、そんな何でもない街のたたずまいの中に、ときどき「おや」と思うほど東京にそっくりの情景が眼につく。そう思って眺めるなが  と、東京がニューヨークを真似しているのか、ニューヨークが東京を取り入れたのか、一瞬いっしゅんどっちがどっちだかわからなくなるようだ。私の前を、ゴムの半長靴ながぐつをはいた女が一人、前かがみの姿勢で歩いて行く。踏みふ 荒らさあ  れた舗道ほどう毀れこわ てデコボコだし、おまけに一週間まえに降った雪が凍りついこお   たり溶けと かかったりして、よほど気をつけないと滑っすべ てころぶか、氷まじりのヌカルミにぞっぷり足のクルブシまでつかってしまう。道の片側に高い板へいがつづき、中ではコンクリート建築の作業をやっている。間断なしに響くひび 重苦しい金属音。道路をうめつくしてやっと動いているタクシーや乗用車。……
 見るものは何もない(その気になれば芝居しばいでも、美術品でも、世界の一級品がふんだんにあるにもかかわらず)、ぼんやり休んでもいられない、そのくせ黙っだま て空気を吸っているだけでも金がへって行くようなニューヨークの街は、およそ観光客には不向きのようだが、住んでみたら案外暮らし好いかもしれないと思わせるところもある。近代美術館がそうだったように、ここには伝統や権威けんいや際立った性格的なものは何もないかわり、外来者が眼に見えぬ圧迫あっぱく感を加えられることもなさそうだ。ナッシュヴィルのようにホテルのロビーでまわり中から眺めなが られることもないし、どんな恰好かっこうをして歩いていても平気だ。黒人の男が白人の女とつれだっているのを見掛けみか たが、これはナッシュヴィルでは夢みたいなことだ。……朝、コーヒー・ショップで食事をしていると、眼にクマどりのある顔色の悪い女の子がドーナッツを半分だけ惜しお そうに食べ、あとの半分を紙ナフキンに包んで、木綿のワンピース一枚の姿で雪と氷の戸外へ、ゆっくりと出て行った。彼女かのじょ痩せや 肩先かたさきには、無残で優美な都会の無関心さが肩掛けかたか のようにかかっている。
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 アベイ・ホテルの地下室にはストックホルムの海賊かいぞく料理のレストランがある。その他、ちょっと足をはこべばヨーロッパの各国から集まった各国の料理店がそれぞれのきを並べている。しかし前を通っても別段、どの店へ入ろうという気もしない。アメリカへ来て「戦前並み」のフランス料理を食うというのが馬鹿馬鹿しいばかばか  からではなく、興味がまったくわかないからだ。それなら日本料理屋はどうかというと、最初から私はこれに最も反発を感じた。話に聞くだけでもイヤなことだと思っていた。しかし一度でも誘わさそ れて入ってみると、ここには麻薬まやくのような吸引力がある。先月末、アメリカに着いて三日目だったが、M紙の特派員Y氏につれられて行った店で、ミソじるを一と口すすった瞬間しゅんかん、私はうそもかくしもなく、全身から一時にシコリが(けて行くのを感じた。まるで毛穴が全部ひらいて、そこから自由な空気がいっぺんに流通しはじめるみたいだった。それに給仕人に母国語で注文を発し、母国語でこたえられるのは何としても避けさ がたい魅力みりょくだ。汽車や劇場の中などで同国人に出会うと、本当のところ顔をそむけたくなる気持ちがある。それが食い物屋では逆の作用をあらわしてしまうのは、どういうわけだろう。ドルが円で呼ばれ、51 streetが五十一丁目と言いなおされるようなことを、どうしてうれしがるのかわからない。けれども腹が空いてくると、あしが自然に日本料理店の方へ向いてしいまうのである。

安岡やすおか章太郎しょうたろう「アメリカ感情旅行」)
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