長文 1.1週
1. 【1】ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、
普通私たちがやっていることは
誰でも類似している。自分が
比較的得意な
項目、自分が体験などを総合してよく考えたこと、あるいは切実に思い
患っていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。【2】よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、大体その
箇所で、書物の全体を
占ってもそれほど見当が外れることはない。
2. だが、自分の知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物に行きあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。【3】それは、たぶん、書物に
含まれている世界によって決められる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手の持っている世界の縮尺のようなものである。【4】この縮尺には書き手が通りすぎてきた「山」や「谷」や、
宿泊した「土地」や、出会った人や思い
患った
痕跡などが、すべて
豆粒のように小さくなって
籠められている。どんな拡大鏡にかけてもこの「山」や「谷」や「土地」や「人」は目には見えないかもしれない。そう、事実それは見えない。見えない世界が
含まれているかどうかを、どうやって知ることができるのだろうか。
3. 【5】もしひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また
考え込ませ、要するにここは文字のひと続きのように見えても、実は広場みたいなところだなと感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。【6】この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手が
幾度も反復して立ち止まり、また
戻り、また歩き出し、そして思い
患った場所なのだ。
彼は、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。【7】棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の
影も、
隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ
戻りつしたために、そこだけが
踏み固められて広場のようになってしまった。【8】実際は広場というようなものではなく、ただの
踏み溜りでしかないほど小さな場所で、そこから先に道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひ∵とりがやっと
腰を下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。【9】けれどもそれは世界なのだ。そういう場所に行きあたった読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。
4. 私は、なぜ文章を書くようになったかを考えてみる。【0】心の中に
奇怪な観念が横行してどうしようもなく持て余していた少年の晩期のころ、しゃべることがどうしても他者に通じないという感じに
悩まされた。この思いは、
極端になるばかりであった。この感じは外にもあらわれるようになった。父親は、お前このごろ
覇気がなくなったと言うようになった。
過剰な観念をどう
扱ってよいかわからず、しゃべることは、自分をあらわしえないということに思い
患っていたので、
覇気がなくなったのは当然であった。われながら青年になりかかるころの素直な言動がないことを認めざるをえなかった。今思えば、「若さ」というものは、まさしくそういうことなのだ。他者にすぐわかるように外に出せる
覇気など、どうせ、たいした
覇気ではない、と断言できるが、そのとき、そう言いきるだけの自信はなかった。そうして、しゃべることへの不信から、書くことを覚えるようになった。それは同時に読むようになったことを意味している。
5. 私の読書は、出発点で何に向かって読んだのだろうか。たぶん自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。自分の思い
患っていることを代弁してくれていて、しかも、自分の同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物の中に、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。
長文 1.2週
1. 【1】農業は、きわめて
恣意的な営みである。
2. 土を耕す仕事は自然と調和したエコロジカルな
行為と
一般には思われているようだが決してそうではない。
恣意的、といって
曖昧なら、人間が自然を自分の都合のよい方向にねじ曲げる
行為、といったらいい過ぎか。
3. 【2】だいたい、野菜、という
概念からして人工的なものである。
4. 人は野草や山菜を採集する労苦と非能率を
恨んで、採ってきた植物を住むところの近くに置いて管理しようと試みた。種を取って
播き、みずからの意志によって自然を手なずけようとさえした。
5. 【3】人間の管理下に置かれたもののうち、
栽培されることに
甘んじた植物もあったし、断固としてそれを
拒否し、野生の状態でなければ生育しないことを死をもって示した種もあったろう。
6. 食用になる野草山菜のうち、人の管理下での植
栽が可能なものが「ベジタブル」と呼ばれる。【4】生長・
増殖することが可能、という意味である。
7. そればかりではない。品種の「改良」という名のもとに、人間は植物の姿かたちさえも自分たちの望む通りに変えてきた。根が食べたいと思えば、根を太くする。
茎が固いと思えば、
柔らかくする。
8. 【5】たとえばレタスとかキャベツとかいった、丸く結球する野菜を考えてみよう。
9. これらの植物は、芽が出てからしばらくのようすを見ていればわかるが、最初はごくふつうの、それぞれの葉が外側に反りながら上に
伸びていくかたちの青菜である。【6】それが、ある時点から、しだいに外側の葉が内側の葉を包むように巻きはじめる。
10. この性質は、人間がつくったものである。
11. 葉が丸く内側に巻きはじめるのは、
過剰な栄養のために過度に増えた葉がこみあって
伸びる場所を失うからだ。【7】もちろん生体が想定し得る以上の栄養を
与えることができるのは人間だけであり、そうして得られた結果――つまり、結球することによって内部は日光を
遮断されて白く
柔らかくなり、同時にひとつの固体の
摂食可能な部分の体積が
飛躍的に増える――を
享受するのもまた人間なの∵だ。
12. 【8】私は、野菜のために土を耕しながら、ときどきそんなことを考えた。
13. 「文化」という言葉の語源は「耕す」という意味だと教えられ、そうであるとすれば土を耕す農業こそはまさしく文化的な営みだと納得するが、【9】しかしそれにしたところで、文化というのは人間が手をつけられないような
荒々しい自然をなんとか
馴化して管理下に置こうとする試みなのだ、と種明かしをすれば、それほどたいしたことをやっていないのはすぐにわかる。【0】人は自然界にある無限の音から人の耳に美しいと感じられる楽音だけを取り出して音楽をつくり自然界の無限の風景のうち気に入った部分だけを
抽出して絵画に構成する。農耕も
含めて、そうした「文化」的な営みの中においてだけ、人は自然を自分たちのコントロール下に置いたような気分になるのである。
14. 私たちの農作業は、「文化」からはほど遠いところにあった。
15. 九二年は、前述したように
乾燥した暑い夏だった。
16. 九三年は、一転して雨ばかり降り続く寒い夏で、コメが大
凶作に
見舞われたことは
記憶に新しい。私たちの畑でもブドウには病害が発生したし、トマトは降り続く雨にたたられてひどい減収、ジャガイモは
掘り返す前に半分が土の中で
腐った。
17. そして九四年はまたまた予想を裏切る
酷暑と
旱魃のシーズンで、ブドウは
辛くも枯死をまぬがれてなんとか
収穫にまで至ったもののブルーベリーは熟しつつある実をつけたまま
立ち枯れ、トウモロコシも皮を
剥くと
乾からびた実があらわれた。そのため連日水やりに追われたが、地熱があまりにも高くそれこそ焼け石に水であった。トマトもピーマンも水不足で小さな表面の
乾いた悲しい実しか実らせることができなかったし、秋になってようやく持ち直したと思ったら台風の風で
倒された。
18. まったく、自然を手なずけるどころか、自然の大きな力に
翻弄されるばかりである。
19. もちろん、その理由の大きな部分が私たちの技術や予測の未熟さ設備や投資の不足にあることは明白だが、しかし必要なソフトやハ∵ードをすベて
兼ね備えているはずの周辺のプロの農家も結局はほとんど同じような
被害に苦しんでいることを考えると、そもそも農業というのは、人間が自然に働きかけかなりの程度それを飼い慣らしたように見えて、実際には単に大きな自然界のほんの少々の「おあまり」をいただくくらいのことしかできないのだ、ということがわかってくる。
20. 畑仕事をはじめた最初の年には、
抜いても
抜いても生えてくる雑草と
格闘しているうちに、「いったい、
俺はなんでこんなことをしているのだろう」と自問することがしばしばあった。「こんな
無駄なことにかかわっている時間に、もっとほかにやるベきことがあるのではないのか?」そう思ってイライラしたこともある。
21. しかし、そんな
過渡期の思いも、二年めに入るとしだいに消えていった。
22. 畑仕事は、いくら人間が
焦っても、できないものはできない。われわれの望むもののうち、自然の合意を得られた分だけを、ゆるゆるとすすめることしかできないのである。
23.(玉村豊男「種まく人」より)
長文 1.3週
1. 【1】われわれ自身は必ずしも意識していないかも知れないが、例えば「スミマセン」という表現は不思議だと感じられることがある。この表現は英語で言えば「Thank you」と「I am sorry」といういずれの表現の使われる場合にも用いられるが、【2】一方は「お礼」、他方は「
お詫び」の表現であり、そのように一見相反するとも思えるものが同じことばで表されるのは不可解だというわけである。しかし、われわれ自身がこれらの表現を使う時の気持を少し意識的に内省してみればすぐ分かる通り、【3】相手から何か好意あることをしてもらうことは有難い(Thank you)と同時に、負担をかけたという意味で申し訳ない(I am sorry)ことであり、こちらからもそれに応える何かをお返しするまでは事はすまないし、自分の気持ちもすまない――ということで、日本語にはそれなりの論理が背後にあるわけである。
2. 【4】あるいは、このような例はどうであろうか。英語では、「I am cold」「You are cold」「He is cold」は、どれも同じように
普通の自然な表現である。ところが日本語だと、「ボクハ寒イ」はよいが、「君ハ寒イ」、「
彼ハ寒イ」というのは不自然に聞こえる。【5】一見、日本語の方は筋が通っていないように思えるが、それなりの論理は背後にある。つまり、寒いと感じるのは本人の感覚であり、それを本当の意味で体験できるのはその本人だけである。したがって、自分の寒いのは自分で分かるから良いが、同じことは他人についてはできないはず、というわけである。【6】「君(
彼)ハ寒イ」などという表現を聞くと、何となく差し出がましいことを言っているという印象を受けるのもそのためである。(本人が寒いということは、本人以外にはその内的な感覚が外からも知覚できるような形で現れて初めて分かることである。【7】「君(
彼)ハ寒ガッテイル」ならば不自然でなくなるのは、そのためである。)
3. この種の例は言語のいろいろな面で、またいろいろな
抽象度で、見出し議論することが可能である。そこで見出される
特徴も、この言語特有のものから、どの言語にも
普遍的なものに至るまで、さまざまな段階のものがあろう。【8】そして、また、それぞれの
特徴の持っている文化的な意味合いもさまざまであろう。それは、言語を使う人間が一方では自分なりの創造をすることのできる文化的存在であり、同時に、他方では生物学的存在として生理的・∵心理的に(例えば、発声・調音器官の構造の類似、
記憶力の限界など)共通の制約を有しているからである。
4. 【9】しかし、いずれにせよ、一つの言語を習得して身につけるということは、その言語
圏の文化の価値体系を身につけ、何をどのように
捉えるかに関して一つの
枠組みを
与えられるということである。【0】(その意味で、一つの言語を習得するということは一つの「イデオロギー」を身につけることなのである。)そこで身につけられる価値体系やものの
捉え方の
枠組みは、決してそこから
抜け出せないといった性格のものではない。しかし、われわれがとりわけ日常的なレベルで、それらを「自然」なものとして受け入れている限りにおいて、自らの身につけている言語によって、ある一つの方向づけをされているのではないか。しかも、われわれ自身はそれに必ずしも気づいていないのではないか。もしそうだとすると、この点における言語の働きは、人間という存在にとって「無意識」の働きにもある程度類比できるのではないか。いや、むしろ、「無意識」の方がいろいろな意味でその働きを言語に負っているのではないか。こういった反省にまで進んでいくことになるのである。
5. (池上
嘉彦「記号論への招待」)
長文 1.4週
1. なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象も手伝ったにちがいないが、「
安寿と
厨子王」の話は私には暴力にも似た
一撃であった。グレアム・グリーンが『失われた幼年時代』で言っているように、「本というものがわれわれの人生に深い感化を
及ぼすのは、おそらく幼年時代だけである。それ以後は、感心したり、面白がったり、これまでの見方を修正したりすることはあっても、多くはすでに考えていたことを本で確認するにとどまる。
恋をしていると、自分の顔かたちが実物以上によく見えるような気がするのと同じである。」
2. 私が
鴎外の『
山椒大夫』を読んだのは、大人になってからであった。そして今度また久しぶりに再読したが、結末のところを見て、そうかと思った。あの母親は、可愛いさかりの
娘と息子をさらわれた
哀しみに夜も昼も泣いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてしまった、というくだりがあるような気がしていたからである。むろん、作者はそんなことは書いていなかった。書く必要もなかったにちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読んだのか、でなければ自分でそう考えたのであろう。いずれにしても、私の心には絵本のイメージのほうが生きていたのである。
3. 私が
鴎外の結末でいい加減に読み過ごしていた
箇所は、もう一つあった。作者はこう書いている。
4.「女は
雀でない、大きいものが
粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に
潤いが出た。女は目が
開いた。
5. 『
厨子王』という
叫びが女の口から出た。二人はぴったり
抱き合った。」
6. それは
厨子王が姉の形見に
肌身離さず持っていた守り本尊の力であるという。そこが、ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほうはどうであったかは、もう覚えていない。子供心にも、この最後の
奇蹟はいくぶん付けたりのように思われたかもしれない。今の私には、親の一念、子の一念とはそれほどのものかもしれないと思う気持ちもある一方で、不幸な女の
盲目という書き方に、何か古い物語∵の
慈悲のようなものを感じる。ハッピーエンドがつまらぬというのではなく、目が明くことのほうが
残酷な場合も人生にはあるだろうからである。
7. 作者
鴎外は、この作品の発表(大正四年)と同時に『歴史
其儘と歴史
離れ』という文章を書き、自ら
詳しい解題を行っている。そして、「
山椒大夫のような伝説は、書いて行く
途中で、想像が道草を食って迷子にならぬ位の程度に筋が立っているというだけで、わたくしの
辿って行く糸には人を
縛る強さはない。わたくしは伝説そのものをもあまり精しく探らずに、夢のような物語を夢のように
思い浮かべて見た」と言っている。
8. 「夢のような物語を夢のように」というその夢は、ある特定の個人が見る夢というより、われわれ日本人の
誰しもが民族の血の中に
受け継いできた古い歴史の余映のようなものであろう。夏目
漱石も短編集『夢十夜』(明治四十一年)で、われわれの現在を支配する過去の
恐ろしい姿を、不条理なイメージの断片を
突きつけるようにして、あばいて見せた。伝説のみならず、
お伽噺や民話や
怪談のたぐいがいつの世にも子供の心をとらえるのは、子供自身の血の中に、自分が生まれる何代も前の
記憶を呼び起こそうとする本能が
潜んでいるからだとでも考える他はない。
9.(
阿部昭『短編小説礼
讃』)
長文 2.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは
海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。【2】そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し
詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝
名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し
詳しく具体的な事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を
捜し出して読んでみる。【3】そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら
詳細な案内記を
丁寧に読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。【4】次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後にはつまりいいかげんに、
賽でも投げると同じような
偶然な
機縁によって目的の地をどうにかきめるほかはない。
3. 【5】こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない
違算を生ずる心配が少ない。【6】そうして主要な
名所旧跡をうっかり見落とす気づかいもない。
4. しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初から
賽をふって行く所をきめてしまう。あるいは
偶然に読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。【7】そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる
名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。【8】これは危険の多いへテロドックスのやり方である。これはうっかり
一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。
5. しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人∵の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を
隠し耳をおおう。【9】それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば
行李の中にでも
押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり
享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがるおそれがある。【0】もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
6. しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。
7. しかしそれではわざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で
踏んで、その見る景色
踏む大地と自分とが直接にぴったり
触れ合う時にのみ感じ得られる
鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと
避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を
恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを
掘り出す機会がある。
8.(寺田
寅彦「案内者」より)∵
9. 【1】現代はアイデンティティ不定の時代といわれている。私はなにものか。私は何をして生きていけばよいのか。どうすれば自分らしさを発見できるのか。これらの問いは青年期につきものだが、最近では、青年期に限らず、およそライフステージのどこにおいても、このような問いにつきまとわれることが多い。
10. 【2】近代社会は、前時代の共同性を解体させ、一人の個人がある具体的な共同体に属することの内的な意味を
希薄化させた。それが、私たちのアイデンティティ不定の大きな要因として関係している。【3】それは同時に、私たちの社会において「大人である」とか「大人になる」とかいうことが、何を指すのかがはっきりしないことをも意味する。
11. なぜならば、かつては、大人になることは、
端的に、個人が自分の属すべき共同体の一員としての資格を得ることを意味していたからである。【4】共同体があるひとつの精神のもとに統一性を保っていれば、大人であることの意味はおのずから決まってきた。したがって大人になることは、その共同体の
核をなしている精神を心身両面において理解し、それを自分が生きていくための基本の型として承認することを意味していた。
12. 【5】よく知られているように、近代以前の社会には、それぞれの社会の
要請に見合った何らかの通過
儀礼が存在した。子どもと大人はこの
儀式によってはっきりと分けられていた。【6】たとえば、わが国の武家社会における元服の
儀式は、それを最もよく
象徴している。一定の
年齢になると、男子は幼名を
廃し
烏帽子名をつけ、服を改めて、
髪を結いなおしたりさかやきを
剃ったりした。
13. 【7】ところが近代は、子どもから大人への変化期からこの単純な境目を
取り払い、代わりに「教育課程」という、長い射程をもったシステムをあてがうことにした。いうまでもなく、学校制度がその機能を果たすことになったのである。
14. 【8】「教育課程」は、節目のはっきりしないたいへん間延びしたプロセスである。それは、人間はだんだんと段階的に成長していって大人になるものだというイメージを私たちのなかに知らず知らずのうちに植えつける。【9】近代の教育制度は、自分がどこで大人になったのかという自覚を
曖昧なものにさせる効果を持っていたのである。
15. 一方では、いま述べた認識と一見
矛盾する次のようなこともいわれている。∵
16. 【0】近代以前には、子ども期と呼べるような時期は存在せず、子どもはみな小さな大人であった。幼児期をすぎると、ごく早い時期から子どもは大人の集団に仲間入りして、かれらの話や行動のなかから見よう見まねで大人社会の
規範やそのありさまを学び、
明瞭に問題化されることとひそやかに語られることとの区別などを身につけるようになっていった。(中略)
17. ところが近代になって、資本主義的生産が
飛躍的な発展を
遂げるに従い、一人の生産者が複数の消費者を養えるようになると、「家族」が、
一般世間から
明瞭な
輪郭をもって成立するようになった。
18. この、
一般世間からの家族の
明瞭な自立が、年少の人々を内部に
囲い込み、そこに子ども期と呼ベるような独立した時期を誕生させた。人間の成長・成熟にとって、家族生活の重要性が
浮かび上がるようになった。(中略)
19. それまでは、子どもは生むにまかせ、大した
配慮もなく育つにまかせていた。子どもは、家族の内側と外側のはっきりしない境界線を、早くから行き来していた。そして、親から身体的な意味で自立できるようになるごく早い
年齢段階から生産にかり出され、大人の世界に参加させられていた。
20. ところが、ある時期から、人々は、子どもをまさに子どもとして「大切に」あつかうようになった(あつかいが実質的に少なくなったのかどうかという判断の尺度にはならない)。フィリップ・アリエスのいう「十七世紀までは子どもは小さな大人にすぎなかった。子ども期は近代になって発見されたのだ」という有名なことばはそういう意味である。
21. したがって、両方の認識は
矛盾するのではなく、同じ一つのことを異なる二つの側面から観察したものと考えるべきだ。要するに、子どもと大人との間に単純に
荒々しく引かれていた境界線が
取り払われ、それまでは半ばどうでもいいものとして無造作に考えられていた子どもが、もっと細心な視線を注がなければならない存在として、大人たちの意識のなかにクローズアップされてきたのである。そしてその結果、子ども期は、いくつかの段階を
抱え持ちつつ、次第に大人になってゆく、「過程的な」存在とみなされるに至ったのである。
22.(
小浜 逸郎「大人への条件」による)
長文 2.2週
1. 【1】私の英語力はほとんど中学三年間の教育に
依拠している。高校時代に覚えた難しい単語は
記憶の
彼方へ
霧散してしまったし、大学時代の英語教育はなきに等しかった。大学にはLL教室があったけれども、テレビモニターを相手におうむ返しに発声するという
行為の単純さと
滑稽さには
耐え難いものを感じた。【2】現代小説を読むリーディングの授業は他力本願で何も身につかなかった。一番ひどかったのがアメリカ人講師による会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その主な理由は、講師の「笑顔」にあった。【3】
金髪の
彼は、授業の間中、表情豊かに
微笑しつつ
頻繁に学生たちに語りかけていた。たいてい私はうつむいて、机の下で
爪をいじったりしながらそれを聞いていた。それがいけなかった。
2. 【4】視線を落として指先のあたりを見つめるのは「意識を集中して何かを聞く」ときの私の定型ポーズにすぎないのに、
彼にかかると、それは授業に対する「不満の表明」とみなされる。しょっちゅう机の
脇に来ては、「何か問題がありますか?」「具合でも悪いのですか?」と
尋ねられてうっとうしいことこの上ない。【5】私は無表情に首を
振る。「別に、何もありません」心の中では思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに笑っちゃいられないわよ。
馬鹿じゃないんだから……。そうこうする間に私の英語力は息絶えた。
3. 【6】それから十年以上が経った昨夏、女子大生の語学研修に同行してアイオワ州のある私大へ行った。私自身は英語のレッスンに参加したわけではなかったけれども、ひと月近く
滞在するうちに、あちらの教授
陣とかなり
緊密な付き合いをすることになった。【7】なにしろ、朝昼晩の食事が
一緒である。毎日、レッスンの前後にあちこちへ案内され、週末には自宅へ招待される。それはもう
逃げ場もなく英語
攻めということでもあり、苦しさ半分有り難さ半分といった日々。苦しさの方は、言葉が頭の中に
渦巻くばかりで口から発射されないことだ。【8】だいたい
すれ違うたびに見知らぬ人と
挨拶を交わすという習慣からして私にはつらい。にっこり笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと
疲れてしまう。∵
4. 有り難さの方は
彼らのあふれるホスピタリティに
触れたことだ。【9】アルバイトの学生から役付きの
偉い教授までが、私の日常の細やかな部分に気を
遣ってくれる。立場が逆だったら、こうまでは出来ない。「笑顔」である。
彼らは
揃いも
揃ってにこやかな人々だった。いつ会ってもキゲン良さそうに
微笑んでいる。【0】ほとんど朝から晩まで笑っているのかと思うほどだ。もしかすると表情筋が笑顔に固定されているのかもしれないとさえ思った。陽気な
奴らなんだ、きっと。笑顔の民族なんだな。ある時私は見てしまったのだ。今までにこやかに笑顔を
振りまいていた教授が、一人になったとたん、考え深げな、どことなく徒労感の
漂う表情に
戻るのを。
彼はふと、まだ
傍らに私がいるのに気づいたけれども、再び同じテンションの笑顔に持っていくまでには
驚くほど時間がかかった。その時、
彼らの笑顔が意識的な努力の
賜物であることを私は
悟った。
5.
彼らは実に意識的な人々だった。明快な価値観を持ち、
一瞬一瞬を
選択し、行動に移す。笑うべきだと思うから笑うということだ。たとえ一番気が
抜けるはずの家庭でさえ、意志の力で支えていかなければあっという間に
瓦解するという厳しい認識が、日常の
些細な
行為の背後にも痛いほどに感じられる。現実は厳しく、それを
乗り越えるためには
強靭な意志力と行動が必要なのだ。
6. その厳しい現実の一つがきっと理解不可能な他者の存在なのだろう。ひと月の間に、さまざまな場所でさまざまなアメリカ人と
すれ違ううちに、私は一つの
妄想を
抱くようになった。「向こうから知らない人が歩いてくる。言葉は通じそうにない。何か誤解されたらナイフを
突き付けられるかもしれない。ピストルだったら
即死だ」そのような心理的風土のもとでなら、
過剰だろうがなんだろうが誤解の余地もないほどに
微笑んで敵意のないことを相手に示そうとするだろう。相手もそうするだろう。
摩擦を起こさず、安心してくらせる市民社会の、それがルールになるだろう。
7. ここにいたって、その昔、苦手だった英会話のクラスで何が起こ∵っていたのか、私はようやく理解した気がするのだ。こういう国から来た人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの努力を
怠った私には
苛立ったはずだ。今思えば、
彼もまた
強靭な意志力によって
精一杯私たちに
微笑みかけていた。こちらが無表情だった分、
彼の
微笑みは
過剰になるのかもしれなかった。英語表現の
基礎は
語彙でも構文でもなく、伝えようとする意志、
微笑むその姿勢だと教えていたのかもしれなかった。
8. アメリカ人は、あんなに毎日
一生懸命に生きていて
疲れないのだろうか。
長文 2.3週
1. 【1】
大相撲をはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの
緊迫感がぜんぜんないということだ。【2】それどころか、そもそも立ち会いの
瞬間も注意をこらしていないと、すぐ
見逃してしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。【3】テレビの
相撲中継では、
懸賞の提供者
紹介や客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは
遮断されていて、制限時間いっぱいになってから観客の
声援を入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、
一抹の
緊張感がただようわけだ。【4】ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一
枡四人食べ物を拡げ、酒やビールを
呑みながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。【5】あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
2. 演ずる者と見る者、つまり演じられている
舞台とそれを
鑑賞する観客とを空間的に
分離すること、そういう制度になれてしまうと、
大相撲とか
歌舞伎の楽しみかたに、はじめはとまどう。【6】けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って
鑑賞する西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている
宮廷の庭や居間で、あるいは街の
芝居小屋や路上で、
催しとして行われていたわけで、必ずしも
純粋な
鑑賞の対象であったわけではない。【7】
渡辺裕によれば、たとえば十八世紀の演奏会は
極端な言い方をすると「音楽のあるパーティー」といった
趣の社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を
聴く場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
3. 【8】「おしゃべりだけではない。
聴衆は演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコ∵ンサートの回想の中で、「無数のパイプから立ち上った
煙草の
煙のもやの中で指揮をすることは容易ではなかったろう」と述べている。【9】また一七八四年のエアフルトでの演奏会の記録によれば、ビールや
煙草が認められていただけでなく「とりわけ音楽が好きでない人々は気晴らしにトランプをやっており、ご婦人方は
徐々にそちらに加わっていった」。【0】フランクフルトのコンサート協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れてくることは禁止」と書かれていたというのも興味深い。そんなことをわざわざ断らなければならないというのは、そういうことを何とも思っていない
輩がいたということのあらわれである。(
渡辺格「
聴衆の誕生」)」
4. じっと息をこらして、作品の世界にひたりきるという「集中的
聴取」の思想はまだなかったわけである。いま、たまたま思想ということばを使ったが、居ずまいを正して作品に集中するというような
聴取の態度はかならずしも自明のものではなく、「芸術の
享受」あるいは「作品の
鑑賞」という一つの思想をバックボーンとして、制度化されてきた態度にほかならないということである。そしてそのために、演ずる者、演奏する者と見る者、
聴く者とを空間的に分割する装置が、劇場やコンサート・ホールとして建造されたのだ。
5. 「
隔たり」ということが、ここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見る者、
聴く者、つまりは、見られるものと見るものとを空間的に
分離する装置のなかで、二つの
距離が発生する。主体と対象との
隔たりと、主体と
唯の主体との
隔たりである。
6. 見る主体と見られる対象との
隔たりは、芸術の場合、「
鑑賞」という
概念と連動している。
愉しみの「
享受」というよりもむしろ、
距離を
隔てて「
鑑賞」すべき客体として「芸術作品」が主体から空間的に
分離されていくそのプロセスを支配していたのは、近代芸術における「美の自律性」という考えかた、「美」はそれ自体としての独立の価値をもつという考えかただ。「芸術作品」は、それが創られた時代や
環境を
超えた独自の「美的」世界をもつ。それが置かれた
状況、あるいはそれを前にした
鑑賞者によって価値∵を変えるなどということは、本来、「芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの作品は味覚とか
嗅覚、
触覚といった、そのつどの
状況によって感覚内容が変化するような「低級」な感覚に支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、視覚や
聴覚のような、
距離をおいた感覚、対象と
接触したり混じりあったりすることのない「
普遍的な感覚」によって支えられるのでなければならない、とされるのである。
7. さて「
隔たり」のもう一つの意味は、他者との
隔たりということである。たとえばコンサートでも演劇でも、開演にあたってまず客席の照明が落とされる。これはまずは、見るものと見られるもの、演奏するものと
聴くものとを空間的に
分離するためもあるが(客席を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見る人ではなく見られるばかりの人になり観客は見られることなく見るだけの人になる)、同時に、まわりにいる他の人間たちから個人を
分離し、
隔離するためのものでもある。観客が、他人にじゃまされることなく、個人として作品
鑑賞に集中できるよう、作品世界に投入できるように、照明が落とされるのだ。だから建物は、
純粋に「作品」の世界だけに集中できるよう、周囲の
騒音を
遮断する構造になっているし、観客は観客で、持ち物、パンフレット、
咳払いなどで余計な物音を立てることのないよう注意しなければならないのである。
8. 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、例えば演奏中に客が
絶叫するようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に
巻き込み、ストーリー展開のなかに
偶然的な要素をどんどん導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路上で予告なしに劇が開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような近代の「芸術
鑑賞」という制度そのものに
攻撃の照準を合わせていたのであった。
9. (
鷲田清一)
長文 2.4週
1. その翌日であった。母親は青葉の映りの
濃く射す
縁側へ新しい
茣蓙を
敷き、
俎板だの包丁だの水
桶だの
蠅帳だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
2. 母親は、自分と
俎板を
距てた向こう側に子供を
坐らせた。子供の前には
膳の上に一つの皿を置いた。
3. 母親は、
腕捲りして、
薔薇いろの
掌を差し出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて
擦りながら
云った。
4.「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから
拵える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
5. 母親は、
鉢の中で
炊きさました飯に
酢を混ぜた。母親も子供もこんこん
噎せた。それから母親はその
鉢を
傍らに寄せて、中からいくらかの飯の分量を
掴み出して、両手で小さく長方形に
握った。
6.
蠅帳の中には、すでに
鮨の具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取り出してそれからちょっと
押さえて、長方形に
握った飯の上へ
載せた。子供の前の
膳の上の皿へ置いた。玉子焼
鮨だった。
7.「ほら、
鮨だよ。おすしだよ。手々で、じかに
掴んで
喰べても好いのだよ」
8. 子供は、その通りにした。はだかの
肌をするする
撫でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ
喰べてしまうと体を母に
拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた
香湯のように子供の身うちに
湧いた。
9. 子供はおいしいと
云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
10.「そら、もひとつ、いいかね」
11.母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を
握り、
蠅帳から具の
一片れを取りだして
押しつけ、子供の皿に置∵いた。
12. 子供は今度は
握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く
覗いた。すると母親は
怖くない程度の
威丈高になって、
13.「何でもありません。白い玉子焼きだと思って
喰べればいいんです」
14.といった。
15. かくて、子供は、
烏賊というものを生まれて初めて
喰べた。
象牙のように
滑らかさがあって、生
餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は
烏賊鮨を
喰べていたその
冒険のさなか、
詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現さなかった。
16. 母親は、こんどは、飯の上に、白い
透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、
脅かされるにおいに
掠められたが、鼻を
詰まらせて、思い切って口の中へ入れた。
17. 白く
透き通る切片は、
咀嚼のために、上品なうま味に
衝きくずされ、程よい
滋味の圧感に混じって、子供の細い
咽喉へ通って行った。
18.「今のは、たしかに、ほんとうの魚に
違いない。自分は、魚が
喰べられたのだ――」
19. そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを
噛み殺したような
征服と
新鮮を感じ、あたりを広く
見廻したい
歓びを感じた。むずむずする両方の
脇腹を、同じような
歓びで、じっとしていられない手の指で
掴み掻いた。
20.「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
21. 無暗に
疳高に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた
飯粒を、ひとつひとつ
払い落としたりしてから、わざと落ちついて
蠅帳のなかを子供に見せぬよう
覗いて
云った。
22.「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」子供は
焦立って
絶叫する。
23.「すし! すし!」∵
24. 母親は、
嬉しいのをぐっと
堪える少し
呆けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、
生涯忘れ得ない美しい顔をして、
25.「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」
26. 最初のときのように、
薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてから
鮨を
握り出した。同じような白い身の魚の
鮨が
握り出された。
27. 母親はまず最初の試みに注意深く色と
生臭の無い魚肉を選んだらしい。それは
鯛と比良目であった。
28. 子供は続けて
喰べた。母親が
握って皿の上に置くのと、子供が
掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの
痺れた世界に
牽き入れた。五つ六つの
鮨が
握られて、
掴み取られて、
喰べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の
握る鮨は、いちいち大きさが
違っていて、形も不細工だった。
鮨は、皿の上に、ころりと
倒れて、
載せた具を
傍らへ落とすものもあった。子供は、そういうものへ
却って愛感を覚え、自分で形を調えて
喰べると余計おいしい気がした。子供は、ふと、
日頃、内しょで呼んでいるも一人の
幻想のなかの母といま目の前に
鮨を
握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、
一致しかけ一重の姿に
紛れている気がした。
29.(
岡本かの子「
鮨」)
長文 3.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】先進国の後を追いかける
途上国経済と、世界の先頭を走る先進国経済のもっとも重要な差は何かというと、「
途上国経済では物まねができたけれども、先進国経済では自分で新しい知識を創造しないとそれ以上の発展ができない」ということである。【2】
途上国の有利な点は、第一に、先進国モデルが存在し、容易に産業化のための目標がみいだせること、第二に、先進国から技術を導入できること、そして第三に、賃金など全体的なコストが先進国に比べて有利であることなどである。
3. 【3】このような有利性が存在しているかぎり、自らオリジナルな技術や知識を創造する必要性はそれほど高くない。先進国から使える技術を輸入し、それに安い賃金の勤勉な労働力を張り付けるだけで競争力を身につけることはできるだろう。【4】もっとも、これとてどこの国にでもできるほど簡単なことではないが、日本や現在急成長中の東アジア諸国はいずれもこのシナリオで成功してきた。
4. しかし、日本についていえば、これらの好条件はすべて
消滅したといってよいだろう。【5】十年ほど前に、日本経済は歴史的なコスト条件の逆転を経験した。またインプット拡大による成長にも人口の
高齢化、労働力人口の減少、
貯蓄率の低下などの理由から多くを期待することはできない。【6】その結果、日本は先進国の宿命すなわち自らの行く先を自らの創意工夫で切り開かなければならないという宿命を、好むと好まざるとにかかわらず背負うことになったのである。
5. 【7】日本の社会経済体制は、
欧米に追いつき、
追い越すという明治以来の国策にそって形成されてきた。たとえば、日本の教育制度は
欧米の先進的知識を
詰め込むことを目指して発達してきた。これはすばらしい戦略であった。【8】
欧米と日本の間に、科学技術や近代思想などの点で大きな知識のギャップがあったのだから、まずはこのギャップを一刻も早く
埋めることが必要であったし、そうすることがキャッチアップを効率的に進める
唯一の方法であった。
6. 【9】しかし、日本がキャッチアップを終えた今となっては話は変わってくる。外来の知識を学ぶだけでは必ずしも独創的な知識は生まれない。日本の学校教育(とくに義務教育)はすばらしいという説があるが、それは少なくとも今日的観点からはとんでもない誤解である。【0】たしかに、先進国に追いつく目的のために、先生が生徒に∵知識の
押し売り、
詰め込みを強要することは理にかなっていたかもしれない。いや、
欧米との
巨大な知識ギャップを一刻も早く
埋めるためには、大車輪で知識の吸収に努めなければならないことは当然であった。知識吸収を急ぐあまり、時に青年たちの独創性、オリジナルなものの考え方を育成するもうひとつの教育の重要な役割が多少なおざりにされたとしても、それはある意味ではやむをえなかったことといえるかもしれない。
7. しかし、今日のように、自ら価値を創造することが要求される時代になっても、教育システムが本質的な意味で何も変わっていないとすればそれは大きな問題であろう。最近の教育改革論議は当然のことながらこのような観点からなされることが多い。しかし、教育の現場では、相変わらず先生が大教室で黒板に知識を
羅列し、日本的な意味での「
優秀な」生徒は、試験のときにそれを正確に再現することを要求されている。生徒の能力差や、興味の所在などは無視し、とにかく上から
与えられた課題を、先生が決めたスピードでこなしていくことが「
優秀な」生徒の絶対的条件である。極度に一律化された教育風景である。
8. 日本の教育現場で自分の頭で考えた独自の意見を前面に
押し出すことが高得点につながるという話はおよそ聞いた試しがない。試験では先生が正解と認定する答を書くことが得策であって、先生の頭になかったようなユニークな答を尊重する風潮はない。生徒は一定の
枠のなかで発想する習慣をたちまち身につけてしまう。このように「
優秀な」生徒はいくつかの入試を経て、
完璧なまでに「知識吸収型」の
枠にはまった答しかできない受動的人間になってしまう。
9.∵
10. 【1】今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会がふつうの社会となり、国家となっている。しかし、今日、共同体が完全につぶされたわけではない。
豪族など大きな共同体はすでにつぶされてしまっているが、
依然として最小単位共同体の家族は残っている。【2】そして一方、共同体意識の方は、今も人々の間にしぶとく生き続けてきている。
11. 共同体の本質は感覚であるから、
理屈、理論すなわち知よりも情が尊ばれる。
漱石の言う「
智に働けば角が立つ」わけである。【3】しかし、法が現代の社会を動かすものとなっていることを認めざるをえないから、「情に流されまい」とする努力が必要となる。この両者の間をゆれているのが、現代の人間である。
12. しかし、
孔子はそうではなかった。【4】
彼が生きていた時代は、法が登場しはじめたころであり、当時、法優先は
異端の思想であった。それは、共同体という体制の根幹をゆるがす「悪の思想」とみなされていたのである。
孔子はその「悪」の
摘発者であった。こういう話がある。
13. 【5】晩年、おそらく六十代も半ばを
越えたころ、
孔子は
為政者としての地位を求めて、諸国を
流浪していた。あるとき、
葉という小さな街に立ち寄ったらしい。この街は、南方の強国であった
楚国の一行政地区である。その街の長官の
葉公が、
孔子にこう言った。【6】自分の街に「
直躬」(正直者の
躬)という
仇名の者がいる。その父親が羊を
盗んだとき、その子は父の犯罪を
隠さないのみならず、
盗んだことの証言をした、と。
14. ところが
孔子は言い返した。私の仲間の「直」という
仇名の男の行動は
違います。【7】「父は子のために(子の犯罪を)
隠し、子は父のために(父の犯罪を)
隠す。直(の本当のありかたは)、その中に在り」と。
15. この問答を読んだとき、現代人のわれわれの大半は、おそらく
葉公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。【8】それは人間社会における法優先の立場である。近代国家では、それが正∵しい、善いことである。
16. しかし、前述のように、
孔子のころは、まだ各種共同体が現実に機能していた時代である。仮に犯罪が起っても、共同体でそれを裁く長老は、いろいろと事情を考えて
罰を決める。【9】時には、罪として公にしないで、事件を
闇から
闇へと処理するだろうし、時には、
皆への見せしめに、
窃盗程度でも
死刑にすることすらある。そのように裁量のはばが広い。その
罰を決めるのは、共同体をリードする道徳にどのようにそむいているかという点においてである。
17. 【0】だからたとえば共同体の有力者が、明らかに罪を犯し、裁かれるとき、その有力者の犯罪の証言を
拒否する部下は、法優先の公の立場からは
指弾されても、同じ共同体メンバーの立場からは、逆に賞賛を受けることであろう。このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断のむつかしい問題を
抱えているのである。
18.
秦の
始皇帝を代表者として、中国古代の
秦・漢
帝国が成立したころ、法的社会を作ろうとする側と、従来からの道徳的共同体とは、至るところで
衝突を起こしたのである。まして、法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代、すなわち
孔子が生きていた時代では、法は、共同体側から見れば、自分たちの体制を
崩す悪であるとするのが常である。各種共同体が機能しなくなってしまった現代では、法的処理の間にはさみこまれる共同体的処理が、逆に不正なこと、悪であるとされる。たとえば、今日、老父の罪を
見逃してもらうために、
贈賄すれば、どうなるか。子は罪を犯すことになる。しかし、老父を
捕えた検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。共同体的感覚による
行為である
贈賄と美談とは紙一重の差なのである。
19. このように、法的社会が形成されて以後、共同体との関係というやっかいな問題を人間は
抱えこんできて今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいる。
20. さて、共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件∵として道徳性を身につけなくてはならない。ちょうど、法的社会の指導原理が法であり、指導者はその条件として、法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならないのと同じように。あえて言えば、共同体社会は規模が小さく、前例主義なので、新しい政策の立案といったようなことはあまりなかった。
21. この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。 だから
孔子は
葉公に対して、「近き者(近くの人々)は説び、遠き者(遠くの人々)は(
慕い)来る」と述べている。これが道徳政治というものの姿である。
22. すなわち「共同体→共同体のきまり(慣習)→道徳」という体系に合わせて「共同体の指導者→共同体のきまり(慣習)の熟達者→道徳的完成者(聖人)」という図式を考えだしたのである。そして道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治を道徳政治(徳治政治)としたのである。これは、「法的社会→法的社会のきまり→法」に基づく「法的社会の指導者→法的社会のきまりの実行者や政策プランナー」という図式による法的政治(法治政治)と
鋭く対立する。
23. 前者の道徳政治を主張したのが、
儒家であり、その組織的理論化や、理論的指導を行なった最初の人が
孔子であった。
24. 後者の法的政治を主張したのが、
孔子よりずっと後に出てきた
法家(たとえば
韓非子)であり、その方式に基づく大政治家が、
秦王朝を建てた
始皇帝である。
25. (「論語を読む」加地
伸行より)
長文 3.2週
1. 【1】イロリの社交は、家族結合の社交であった。一家
団欒ということばは言うまでもなく家族がおなじ火をかこんでいることを指した。ひとつの火を通じて心がかよいあう。そういう不思議な力を火はもっていた。家族だけではない。【2】客人もまた、おなじ火をかこむことで、他人ではなくなる。火は人間を近づけるのである。若者たちが夏の山や海で火を燃やしてひらくファイヤー・ストームなども、まさしく火による人間結合の現代的なあらわれのひとつであろう。
2. 【3】イロリの社交には、
秩序があった。よく知られているように、イロリの四辺には
誰がどうすわるかについての約束事がある。土間に面していちばん
奥の辺は横座である。そこには戸主以外の人間がすわってはいけない。【4】横座からみて左がわの辺にすわるのは主婦によって代表される家の女たちである。この座席はカカ座などと呼ばれる。そして客人の席、すなわち客座は横座からみて右、横座の正面は使用人や場合によっては
嫁の座る下座――そんなふうに席の割りふりがきまっていたのである。【5】こんにち、
比喩的に、たとえば「主婦の座」というようなことばが使われるのは、このようなイロリの座の割りつけから延長されたものだと考えてよいだろう。
3. それぞれの座がきめられ、冬の夜などイロリをかこんで世間話がつづく。【6】火を共有しているという事実が、そして、ときにはバチバチと音をたてて燃える
炎が、いわばその世間話の背景音のようなものになる。火は、家庭の健在をしめす
象徴なのでもあった。
4. これとまったくおなじことが、西洋でも考えられる。【7】かつてマーガレット・ミードはフランス文化を論じて、フランス文化の基本になっているモチーフはFoyerであるといった。このフォアイエというのは、一家
団欒を意味し、同時に
火床を意味することばだ。【8】同一の
火床ないしは
暖炉を共有する家族の結合がかたいのである。
5. フランスだけではない。ヨーロッパやアメリカの住宅で中流以上といういささかゆとりのある家にはたいてい
暖炉がある。【9】そして、こんにちでは、ちゃんと中央管理
暖房がゆきとどいているにもかかわらず、ときどき
暖炉に
薪をくべて火の共有の事実を演出するのである。じっさい、イロリと
暖炉はその機能においてきわめて類似している。∵【0】もちろん、火をまんなかにしてかこむイロリと火にむかって半月型にならぶ
暖炉とでは、社会構造は少し
違うかもしれない。だが、おなじ火のぬくもりと光を受けることのできる場を家庭の
象徴とすることは、たぶん東西共通なのである。
6. 火が人間を接近させ、親密さを強める効果をもっていることをわれわれは直観的に知っている。ラジオが大衆化したとき、アメリカの大統領F・ルーズベルトは、定期的な「
炉辺談話」番組で国民に親しく話しかけた。番組の題名にある「
炉辺」ということばだけで大統領と国民はぐんとその
距離を縮めることができたのだ。(中略)
7. 火の共有による親密な人間関係は、調理の火を考えてみればよくわかる。「同じ
釜の飯を食った」関係、というのは、
遠慮のない親しい関係ということだ。おなじ火で調理されたものを飲食するというのは、
暖房や照明の火の共有よりもさらに深い共通感覚を人間たちに
与える。
8. カマドをわける、あるいは別火にするというのは、人間のまじわりの単位をわける、ということである。調理の火の共有、それは人間をつなぐ基本的に重要な文化
項目であった。
9. この点でも、日本文化はいろんな工夫を
凝らし、それに美的洗練をあたえつづけてきたように思える。たとえばさまざまな
鍋料理。それは、人間が共通の火で調理されたものをわかちあうことで親密さをつくりあげてゆくためのすばらしい
知恵であった。
10. 茶の湯もまた、ある意味で火の共有を
象徴する社交の形態であった。小さな
風炉とカマ、そこからまさしく茶の湯がうまれる。茶会はおなじカマからつくられた、おなじ味覚を共有する深い人間関係を形成してゆくのである。
暖房、照明、調理、それらは、いずれも人間生活にとってきわめて実用的な火の機能である。だが、人間はそういう実用性を
超えて、火を人間関係調整の手段としても展開させてきたのであつた。火の管理はたんに物理現象としての火を管理するというだけでなく、その火をめぐる人間集団の管理をもふくむものであった。
11. (
加藤秀俊「暮らしの思想」より)
長文 3.3週
1. 【1】今、日本の都会では、路上でものを売る人を見かけることがほとんどない。たまにあっても、ヒッピーのアクセサリーとかワゴン・セールとか、朝市とか、いかにも特別な売り方で、ただなんとなく
道端に立ったりしゃがみこんだりして客を待つという売り手がいなくなった。
2. 【2】順序から言うならば、常設の店ができる前は商売はみんな路上で行われていた。道は人や馬の行き来のためだけにあるのではなく、立ち話やものの売買や時には
喧嘩のための公共スペースだった。家の裏の小さな畑で出来た豆や
芋を町まで運んでいって
道端で売る。【3】売れたら、そのお金で、家では作れない野菜や道具類や
贅沢品を買って帰る。商売はこうして始まったのだ。
3. しかし、道で売っているものは時として信用できない。村の顔見知り同士ならともかく、大きな町で見知らぬ者からものを買うと、万一、それがインチキな品でも苦情を
持ち込む先がない。【4】今でも訪問
販売や
通販の類にはこの種の問題がつきまとっている。
4. 訪問と言えば、三十年前に見事な
詐欺にあったことがある(どうもぼくは
詐欺にひっかかりやすい性格らしい)。日曜日の昼ごろ、庭で草取りをしていると、
威勢のいい魚屋風の男がやってきて、道から声を
掛ける。【5】うなぎを買わんかと言うのだ。今と
違って
冷凍の
蒲焼がいつでも手に入るわけではなく、うなぎはなかなか
贅沢な食べ物だった。それが安い。たしかに安い。男は
垣根越しに、なぜ安いかという理由を、特別のルートとか何とか、言葉
巧みに話す。
5. 【6】日曜だからどこの家でも父親がいる。一つ奮発しようということになって、家族の数だけうなぎを買う。それから
御飯を
炊く算段になる。この時差が大事だ(保温式の
炊飯器はまだなかった)。買ってすぐに食べるものではこの話は成立しない。【7】一時間後、いよいよ白い
御飯がどんぶりに盛られて、蒸して温めたうなぎが乗り、タレがかかってみんなの前に並ぶ。子供たちはわくわくして
箸を取る。ところが、一口ほおばると、これがあなごなのだ。見た目はそっくりだが、味はだいぶ
違う。【8】あなごはあなごでうまい魚だけれども、うなぎに化けてはいけない。もちろん男は二度と来なかっ∵た。路上の取引には、いつもこのくらいのリスクがつきまとう。
6. 日本のように万事がお金本位になってしまっていない国では、まだ路上の商売は
賑わっているし
信頼もされている。【9】イスタンブールでは子供たちが街頭に並んで、声を張り上げて
煙草を売っている。それがなぜか毎日のように品が変わる。ある日は全員がケントを売っている。次の日はそれがサムソンという国産ブランドに変わる。【0】トルコの子供たちはよく働く。寒風の中で鼻をすすりながら、サムソンサムソンサムソンと黄色い声で呼ぶのが、今でも聞こえる。
7. スーダンの
煙草の売り方はまた
違う。首都のハルトゥームは全体が
砂漠色にくすんだ町で、その広い
挨っぽい道の
脇に、
煙草屋は
黙って
坐っている。買うのはほとんど常連で、取引の単位は一本である。スーダンの人にとって
煙草は相当な
贅沢で、一度に一箱をまるごと買える者は少ない。だから、一本ずつ買う。朝、仕事にゆく
途中で一本買って、その場で吸う。マッチで火をつけるのは無料サービス。
煙草屋の周囲に立ったり
坐ったりして、本当においしそうに吸う。まわりにいい
匂いの
煙が
立ち込める。吸い終わると、元気に仕事に行く。お金に
余裕がある時には、昼にも一本買う。
8. まだ
禁煙していなかったぼくは、ある日、この
煙草屋から一箱買おうとした。橋を
渡ってオムドゥルマンの町までラクダ市を見に行くのに、道中で吸う分を持参するのだ。
9. 一度にたくさん売れば、簡単に
儲かるわけだから
煙草屋も喜ぶだろうと思ったのだが、それはみんなが
煙草代に困っていない国から来た者の、浅ましい考えだった。
10. ぼくは、一箱は売れないと言われた。つまり、この
煙草屋にしても、毎朝早く、その日に売る分だけを仕入れてくる。だから、ぼくが二十本も買ってしまうと、昼休みの一服を楽しみにしている
誰かの分が足りなくなる。事情を知ったぼくは、一本だけ買って、火をつけてもらい、ゆっくりとその場で吸って、橋に向かった。いい気持ちだった。
11. (「インパラは転ばない」
池澤夏樹より)
長文 3.4週
1. 要するに、ニューヨークは何もない街らしい。だから、その点、東京によく似ているといえる。実際、商店の
飾り窓のかざりつけだの、道路から直接二階へ上る
狭い階段の入り口だの、そんな何でもない街のたたずまいの中に、ときどき「おや」と思うほど東京にそっくりの情景が眼につく。そう思って
眺めると、東京がニューヨークを真似しているのか、ニューヨークが東京を取り入れたのか、
一瞬どっちがどっちだかわからなくなるようだ。私の前を、ゴムの半
長靴をはいた女が一人、前かがみの姿勢で歩いて行く。
踏み荒らされた
舗道は
毀れてデコボコだし、おまけに一週間まえに降った雪が
凍りついたり
溶けかかったりして、よほど気をつけないと
滑ってころぶか、氷まじりのヌカルミにぞっぷり足のクルブシまでつかってしまう。道の片側に高い板
塀がつづき、中ではコンクリート建築の作業をやっている。間断なしに
響く重苦しい金属音。道路をうめつくしてやっと動いているタクシーや乗用車。……
2. 見るものは何もない(その気になれば
芝居でも、美術品でも、世界の一級品がふんだんにあるにもかかわらず)、ぼんやり休んでもいられない、そのくせ
黙って空気を吸っているだけでも金がへって行くようなニューヨークの街は、およそ観光客には不向きのようだが、住んでみたら案外暮らし好いかもしれないと思わせるところもある。近代美術館がそうだったように、ここには伝統や
権威や際立った性格的なものは何もないかわり、外来者が眼に見えぬ
圧迫感を加えられることもなさそうだ。
ナッシュヴィルのようにホテルのロビーでまわり中から
眺められることもないし、どんな
恰好をして歩いていても平気だ。黒人の男が白人の女とつれだっているのを
見掛けたが、これは
ナッシュヴィルでは夢みたいなことだ。……朝、コーヒー・ショップで食事をしていると、眼にクマどりのある顔色の悪い女の子がドーナッツを半分だけ
惜しそうに食べ、あとの半分を紙ナフキンに包んで、木綿のワンピース一枚の姿で雪と氷の戸外へ、ゆっくりと出て行った。
彼女の
痩せた
肩先には、無残で優美な都会の無関心さが
肩掛けのようにかかっている。∵
3. アベイ・ホテルの地下室にはストックホルムの
海賊料理のレストランがある。その他、ちょっと足をはこべばヨーロッパの各国から集まった各国の料理店がそれぞれ
軒を並べている。しかし前を通っても別段、どの店へ入ろうという気もしない。アメリカへ来て「戦前並み」のフランス料理を食うというのが
馬鹿馬鹿しいからではなく、興味がまったくわかないからだ。それなら日本料理屋はどうかというと、最初から私はこれに最も反発を感じた。話に聞くだけでもイヤなことだと思っていた。しかし一度でも
誘われて入ってみると、ここには
麻薬のような吸引力がある。先月末、アメリカに着いて三日目だったが、M紙の特派員Y氏につれられて行った店で、ミソ
汁を一と口すすった
瞬間、私は
嘘もかくしもなく、全身から一時にシコリが
脱けて行くのを感じた。まるで毛穴が全部ひらいて、そこから自由な空気がいっぺんに流通しはじめるみたいだった。それに給仕人に母国語で注文を発し、母国語でこたえられるのは何としても
避けがたい
魅力だ。汽車や劇場の中などで同国人に出会うと、本当のところ顔をそむけたくなる気持ちがある。それが食い物屋では逆の作用をあらわしてしまうのは、どういうわけだろう。ドルが円で呼ばれ、51 streetが五十一丁目と言いなおされるようなことを、どうしてうれしがるのかわからない。けれども腹が空いてくると、
脚が自然に日本料理店の方へ向いてしいまうのである。
4.(
安岡章太郎「アメリカ感情旅行」)