長文 3.4週
1. 要するに、ニューヨークは何もない街らしい。だから、その点、東京によく似ているといえる。実際、商店の飾り窓かざ まどのかざりつけだの、道路から直接二階へ上る狭いせま 階段の入り口だの、そんな何でもない街のたたずまいの中に、ときどき「おや」と思うほど東京にそっくりの情景が眼につく。そう思って眺めるなが  と、東京がニューヨークを真似しているのか、ニューヨークが東京を取り入れたのか、一瞬いっしゅんどっちがどっちだかわからなくなるようだ。私の前を、ゴムの半長靴ながぐつをはいた女が一人、前かがみの姿勢で歩いて行く。踏みふ 荒らさあ  れた舗道ほどう毀れこわ てデコボコだし、おまけに一週間まえに降った雪が凍りついこお   たり溶けと かかったりして、よほど気をつけないと滑っすべ てころぶか、氷まじりのヌカルミにぞっぷり足のクルブシまでつかってしまう。道の片側に高い板へいがつづき、中ではコンクリート建築の作業をやっている。間断なしに響くひび 重苦しい金属音。道路をうめつくしてやっと動いているタクシーや乗用車。……
2. 見るものは何もない(その気になれば芝居しばいでも、美術品でも、世界の一級品がふんだんにあるにもかかわらず)、ぼんやり休んでもいられない、そのくせ黙っだま て空気を吸っているだけでも金がへって行くようなニューヨークの街は、およそ観光客には不向きのようだが、住んでみたら案外暮らし好いかもしれないと思わせるところもある。近代美術館がそうだったように、ここには伝統や権威けんいや際立った性格的なものは何もないかわり、外来者が眼に見えぬ圧迫あっぱく感を加えられることもなさそうだ。ナッシュヴィルのようにホテルのロビーでまわり中から眺めなが られることもないし、どんな恰好かっこうをして歩いていても平気だ。黒人の男が白人の女とつれだっているのを見掛けみか たが、これはナッシュヴィルでは夢みたいなことだ。……朝、コーヒー・ショップで食事をしていると、眼にクマどりのある顔色の悪い女の子がドーナッツを半分だけ惜しお そうに食べ、あとの半分を紙ナフキンに包んで、木綿のワンピース一枚の姿で雪と氷の戸外へ、ゆっくりと出て行った。彼女かのじょ痩せや 肩先かたさきには、無残で優美な都会の無関心さが肩掛けかたか のようにかかっている。∵
3. アベイ・ホテルの地下室にはストックホルムの海賊かいぞく料理のレストランがある。その他、ちょっと足をはこべばヨーロッパの各国から集まった各国の料理店がそれぞれのきを並べている。しかし前を通っても別段、どの店へ入ろうという気もしない。アメリカへ来て「戦前並み」のフランス料理を食うというのが馬鹿馬鹿しいばかばか  からではなく、興味がまったくわかないからだ。それなら日本料理屋はどうかというと、最初から私はこれに最も反発を感じた。話に聞くだけでもイヤなことだと思っていた。しかし一度でも誘わさそ れて入ってみると、ここには麻薬まやくのような吸引力がある。先月末、アメリカに着いて三日目だったが、M紙の特派員Y氏につれられて行った店で、ミソじるを一と口すすった瞬間しゅんかん、私はうそもかくしもなく、全身から一時にシコリが(けて行くのを感じた。まるで毛穴が全部ひらいて、そこから自由な空気がいっぺんに流通しはじめるみたいだった。それに給仕人に母国語で注文を発し、母国語でこたえられるのは何としても避けさ がたい魅力みりょくだ。汽車や劇場の中などで同国人に出会うと、本当のところ顔をそむけたくなる気持ちがある。それが食い物屋では逆の作用をあらわしてしまうのは、どういうわけだろう。ドルが円で呼ばれ、51 streetが五十一丁目と言いなおされるようなことを、どうしてうれしがるのかわからない。けれども腹が空いてくると、あしが自然に日本料理店の方へ向いてしいまうのである。

4.(安岡やすおか章太郎しょうたろう「アメリカ感情旅行」)