長文集  3月4週  ○要するに、ニューヨークは  re-03-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:53:31
 要するに、ニューヨークは何もない街らし
い。だから、その点、東京によく似ていると
いえる。実際、商店の飾り窓のかざりつけだ
の、道路から直接二階へ上る狭い階段の入り
口だの、そんな何でもない街のたたずまいの
中に、ときどき「おや」と思うほど東京にそ
っくりの情景が眼につく。そう思って眺める
と、東京がニューヨークを真似しているのか
、ニューヨークが東京を取り入れたのか、一
瞬どっちがどっちだかわからなくなるようだ
。私の前を、ゴムの半長靴をはいた女が一人
、前かがみの姿勢で歩いて行く。踏み荒らさ
れた舗道は毀れてデコボコだし、おまけに一
週間まえに降った雪が凍りついたり溶けかか
ったりして、よほど気をつけないと滑ってこ
ろぶか、氷まじりのヌカルミにぞっぷり足の
クルブシまでつかってしまう。道の片側に高
い板塀がつづき、中ではコンクリート建築の
作業をやっている。間断なしに響く重苦しい
金属音。道路をうめつくしてやっと動いてい
るタクシーや乗用車。……
 見るものは何もない(その気になれば芝居
でも、美術品でも、世界の一級品がふんだん
にあるにもかかわらず)、ぼんやり休んでも
いられない、そのくせ黙って空気を吸ってい
るだけでも金がへって行くようなニューヨー
クの街は、およそ観光客には不向きのようだ
が、住んでみたら案外暮らし好いかもしれな
いと思わせるところもある。近代美術館がそ
うだったように、ここには伝統や権威や際立
った性格的なものは何もないかわり、外来者
が眼に見えぬ圧迫感を加えられることもなさ
そうだ。ナッシュヴィルのようにホテルのロ
ビーでまわり中から眺められることもないし
、どんな恰好をして歩いていても平気だ。黒
人の男が白人の女とつれだっているのを見掛
けたが、これはナッシュヴィルでは夢みたい
なことだ。……朝、コーヒー・ショップで食
事をしていると、眼にクマどりのある顔色の
悪い女の子がドーナッツを半分だけ惜しそう
に食べ、あとの半分を紙ナフキンに包んで、
木綿のワンピース一枚の姿で雪と氷の戸外 
へ、ゆっくりと出て行った。彼女の痩せた肩
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先には、無残で優美な都会の無関心さが肩掛
けのようにかかっている。∵
 アベイ・ホテルの地下室にはストックホル
ムの海賊料理のレストランがある。その他、
ちょっと足をはこべばヨーロッパの各国から
集まった各国の料理店がそれぞれ軒を並べて
いる。しかし前を通っても別段、どの店へ入
ろうという気もしない。アメリカへ来て「戦
前並み」のフランス料理を食うというのが馬
鹿馬鹿しいからではなく、興味がまったくわ
かないからだ。それなら日本料理屋はどうか
というと、最初から私はこれに最も反発を感
じた。話に聞くだけでもイヤなことだと思っ
ていた。しかし一度でも誘われて入ってみる
と、ここには麻薬のような吸引力がある。先
月末、アメリカに着いて三日目だったが、M
紙の特派員Y氏につれられて行った店で、ミ
ソ汁を一と口すすった瞬間、私は嘘もかくし
もなく、全身から一時にシコリが脱(ぬ)け
て行くのを感じた。まるで毛穴が全部ひらい
て、そこから自由な空気がいっぺんに流通し
はじめるみたいだっ た。それに給仕人に母
国語で注文を発し、母国語でこたえられるの
は何としても避けがたい魅力だ。汽車や劇場
の中などで同国人に出会うと、本当のところ
顔をそむけたくなる気持ちがある。それが食
い物屋では逆の作用をあらわしてしまうのは
、どういうわけだろ う。ドルが円で呼ばれ
、51 streetが五十一丁目と言いな
おされるようなことを、どうしてうれしがる
のかわからない。けれども腹が空いてくると
、脚が自然に日本料理店の方へ向いてしいま
うのである。

(安岡章太郎「アメリカ感情旅行」)