長文集  3月3週  ★今、日本の都会では、路上で(感)  re-03-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】今、日本の都会では、路上でものを
売る人を見かけることがほとんどない。たま
にあっても、ヒッピーのアクセサリーとかワ
ゴン・セールとか、朝市とか、いかにも特別
な売り方で、ただなんとなく道端に立ったり
しゃがみこんだりして客を待つという売り手
がいなくなった。
 【2】順序から言うならば、常設の店がで
きる前は商売はみんな路上で行われていた。
道は人や馬の行き来のためだけにあるのでは
なく、立ち話やものの売買や時には喧嘩のた
めの公共スペースだった。家の裏の小さな畑
で出来た豆や芋を町まで運んでいって道端で
売る。【3】売れたら、そのお金で、家では
作れない野菜や道具類や贅沢品を買って帰る
。商売はこうして始まったのだ。
 しかし、道で売っているものは時として信
用できない。村の顔見知り同士ならともかく
、大きな町で見知らぬ者からものを買うと、
万一、それがインチキな品でも苦情を持ち込
む先がない。【4】今でも訪問販売や通販の
類にはこの種の問題がつきまとっている。
 訪問と言えば、三十年前に見事な詐欺にあ
ったことがある(どうもぼくは詐欺にひっか
かりやすい性格らしい)。日曜日の昼ごろ、
庭で草取りをしていると、威勢のいい魚屋風
の男がやってきて、道から声を掛ける。【5
】うなぎを買わんかと言うのだ。今と違って
冷凍の蒲焼がいつでも手に入るわけではなく
、うなぎはなかなか贅沢な食べ物だった。そ
れが安い。たしかに安い。男は垣根越しに、
なぜ安いかという理由を、特別のルートとか
何とか、言葉巧みに話す。
 【6】日曜だからどこの家でも父親がいる
。一つ奮発しようということになって、家族
の数だけうなぎを買う。それから御飯を炊く
算段になる。この時差が大事だ(保温式の炊
飯器はまだなかっ  た)。買ってすぐに食
べるものではこの話は成立しない。【7】一
時間後、いよいよ白い御飯がどんぶりに盛ら
れて、蒸して温めたうなぎが乗り、タレがか
かってみんなの前に並ぶ。子供たちはわくわ
くして箸を取る。ところが、一口ほおばると
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、これがあなごなの だ。見た目はそっくり
だが、味はだいぶ違う。【8】あなごはあな
ごでうまい魚だけれども、うなぎに化けては
いけない。もちろん男は二度と来なかっ∵た
。路上の取引には、いつもこのくらいのリス
クがつきまとう。
 日本のように万事がお金本位になってしま
っていない国では、まだ路上の商売は賑わっ
ているし信頼(しんらい)もされている。【
9】イスタンブールでは子供たちが街頭に並
んで、声を張り上げて煙草を売っている。そ
れがなぜか毎日のように品が変わる。ある日
は全員がケントを売っている。次の日はそれ
がサムソンという国産ブランドに変わる。【
0】トルコの子供たちはよく働く。寒風の中
で鼻をすすりながら、サムソンサムソンサム
ソンと黄色い声で呼ぶのが、今でも聞こえる

 スーダンの煙草の売り方はまた違う。首都
のハルトゥームは全体が砂漠色にくすんだ町
で、その広い挨っぽい道の脇に、煙草屋は黙
って坐っている。買うのはほとんど常連で、
取引の単位は一本である。スーダンの人にと
って煙草は相当な贅沢で、一度に一箱をまる
ごと買える者は少ない。だから、一本ずつ買
う。朝、仕事にゆく途中で一本買って、その
場で吸う。マッチで火をつけるのは無料サー
ビス。煙草屋の周囲に立ったり坐ったりして
、本当においしそうに吸う。まわりにいい匂
いの煙が立ち込める。吸い終わると、元気に
仕事に行く。お金に余裕がある時には、昼に
も一本買う。
 まだ禁煙していなかったぼくは、ある日、
この煙草屋から一箱買おうとした。橋を渡っ
てオムドゥルマンの町までラクダ市を見に行
くのに、道中で吸う分を持参するのだ。
 一度にたくさん売れば、簡単に儲かるわけ
だから煙草屋も喜ぶだろうと思ったのだが、
それはみんなが煙草代に困っていない国から
来た者の、浅ましい考えだった。
 ぼくは、一箱は売れないと言われた。つま
り、この煙草屋にしても、毎朝早く、その日
に売る分だけを仕入れてくる。だから、ぼく
が二十本も買ってしまうと、昼休みの一服を
楽しみにしている誰かの分が足りなくなる。
事情を知ったぼくは、一本だけ買って、火を
つけてもらい、ゆっくりとその場で吸って、
橋に向かった。いい気持ちだった。

 (「インパラは転ばない」池澤夏樹より)