レンギョウ の山 3 月 1 週 (5)
★今日では、道徳的共同体を(感)   池新  
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】先進国の後を追いかける途上国経済と、世界の先頭を走る先進国経済のもっとも重要な差は何かというと、「途上国経済では物まねができたけれども、先進国経済では自分で新しい知識を創造しないとそれ以上の発展ができない」ということである。【2】途上国の有利な点は、第一に、先進国モデルが存在し、容易に産業化のための目標がみいだせること、第二に、先進国から技術を導入できること、そして第三に、賃金など全体的なコストが先進国に比べて有利であることなどである。
 【3】このような有利性が存在しているかぎり、自らオリジナルな技術や知識を創造する必要性はそれほど高くない。先進国から使える技術を輸入し、それに安い賃金の勤勉な労働力を張り付けるだけで競争力を身につけることはできるだろう。【4】もっとも、これとてどこの国にでもできるほど簡単なことではないが、日本や現在急成長中の東アジア諸国はいずれもこのシナリオで成功してきた。
 しかし、日本についていえば、これらの好条件はすべて消滅したといってよいだろう。【5】十年ほど前に、日本経済は歴史的なコスト条件の逆転を経験した。またインプット拡大による成長にも人口の高齢化、労働力人口の減少、貯蓄率の低下などの理由から多くを期待することはできない。【6】その結果、日本は先進国の宿命すなわち自らの行く先を自らの創意工夫で切り開かなければならないという宿命を、好むと好まざるとにかかわらず背負うことになったのである。
 【7】日本の社会経済体制は、欧米に追いつき、追い越すという明治以来の国策にそって形成されてきた。たとえば、日本の教育制度は欧米の先進的知識を詰め込むことを目指して発達してきた。これはすばらしい戦略であった。【8】欧米と日本の間に、科学技術や近代思想などの点で大きな知識のギャップがあったのだから、まずはこのギャップを一刻も早く埋めることが必要であったし、そうすることがキャッチアップを効率的に進める唯一の方法であった。
 【9】しかし、日本がキャッチアップを終えた今となっては話は変わってくる。外来の知識を学ぶだけでは必ずしも独創的な知識は生まれない。日本の学校教育(とくに義務教育)はすばらしいという説があるが、それは少なくとも今日的観点からはとんでもない誤解である。【0】たしかに、先進国に追いつく目的のために、先生が生徒に∵知識の押し売り、詰め込みを強要することは理にかなっていたかもしれない。いや、欧米との巨大な知識ギャップを一刻も早く埋めるためには、大車輪で知識の吸収に努めなければならないことは当然であった。知識吸収を急ぐあまり、時に青年たちの独創性、オリジナルなものの考え方を育成するもうひとつの教育の重要な役割が多少なおざりにされたとしても、それはある意味ではやむをえなかったことといえるかもしれない。
 しかし、今日のように、自ら価値を創造することが要求される時代になっても、教育システムが本質的な意味で何も変わっていないとすればそれは大きな問題であろう。最近の教育改革論議は当然のことながらこのような観点からなされることが多い。しかし、教育の現場では、相変わらず先生が大教室で黒板に知識を羅列し、日本的な意味での「優秀な」生徒は、試験のときにそれを正確に再現することを要求されている。生徒の能力差や、興味の所在などは無視し、とにかく上から与えられた課題を、先生が決めたスピードでこなしていくことが「優秀な」生徒の絶対的条件である。極度に一律化された教育風景である。
 日本の教育現場で自分の頭で考えた独自の意見を前面に押し出すことが高得点につながるという話はおよそ聞いた試しがない。試験では先生が正解と認定する答を書くことが得策であって、先生の頭になかったようなユニークな答を尊重する風潮はない。生徒は一定の枠のなかで発想する習慣をたちまち身につけてしまう。このように「優秀な」生徒はいくつかの入試を経て、完璧なまでに「知識吸収型」の枠にはまった答しかできない受動的人間になってしまう。

 【1】今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会がふつうの社会となり、国家となっている。しかし、今日、共同体が完全につぶされたわけではない。豪族など大きな共同体はすでにつぶされてしまっているが、依然として最小単位共同体の家族は残っている。【2】そして一方、共同体意識の方は、今も人々の間にしぶとく生き続けてきている。
 共同体の本質は感覚であるから、理屈、理論すなわち知よりも情が尊ばれる。漱石の言う「智(ち)に働けば角が立つ」わけである。【3】しかし、法が現代の社会を動かすものとなっていることを認めざるをえないから、「情に流されまい」とする努力が必要となる。この両者の間をゆれているのが、現代の人間である。
 しかし、孔子はそうではなかった。【4】彼が生きていた時代は、法が登場しはじめたころであり、当時、法優先は異端の思想であった。それは、共同体という体制の根幹をゆるがす「悪の思想」とみなされていたのである。孔子はその「悪」の摘発者であった。こういう話がある。
 【5】晩年、おそらく六十代も半ばを越えたころ、孔子は為政者としての地位を求めて、諸国を流浪していた。あるとき、葉(しょう)という小さな街に立ち寄ったらしい。この街は、南方の強国であった楚(そ)国の一行政地区である。その街の長官の葉(しょう)公が、孔子にこう言った。【6】自分の街に「直躬(ちょくきゅう)」(正直者の躬(きゅう))という仇名の者がいる。その父親が羊を盗んだとき、その子は父の犯罪を隠さないのみならず、盗んだことの証言をした、と。
 ところが孔子は言い返した。私の仲間の「直」という仇名の男の行動は違います。【7】「父は子のために(子の犯罪を)隠し、子は父のために(父の犯罪を)隠す。直(の本当のありかたは)、その中に在り」と。
 この問答を読んだとき、現代人のわれわれの大半は、おそらく葉(しょう)公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。【8】それは人間社会における法優先の立場である。近代国家では、それが正∵しい、善いことである。
 しかし、前述のように、孔子のころは、まだ各種共同体が現実に機能していた時代である。仮に犯罪が起っても、共同体でそれを裁く長老は、いろいろと事情を考えて罰を決める。【9】時には、罪として公にしないで、事件を闇から闇へと処理するだろうし、時には、皆への見せしめに、窃盗程度でも死刑にすることすらある。そのように裁量のはばが広い。その罰を決めるのは、共同体をリードする道徳にどのようにそむいているかという点においてである。
 【0】だからたとえば共同体の有力者が、明らかに罪を犯し、裁かれるとき、その有力者の犯罪の証言を拒否する部下は、法優先の公の立場からは指弾されても、同じ共同体メンバーの立場からは、逆に賞賛を受けることであろう。このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断のむつかしい問題を抱えているのである。
 秦(しん)の始皇帝を代表者として、中国古代の秦(しん)・漢帝国が成立したころ、法的社会を作ろうとする側と、従来からの道徳的共同体とは、至るところで衝突を起こしたのである。まして、法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代、すなわち孔子が生きていた時代では、法は、共同体側から見れば、自分たちの体制を崩す悪であるとするのが常である。各種共同体が機能しなくなってしまった現代では、法的処理の間にはさみこまれる共同体的処理が、逆に不正なこと、悪であるとされる。たとえば、今日、老父の罪を見逃してもらうために、贈賄すれば、どうなるか。子は罪を犯すことになる。しかし、老父を捕えた検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。共同体的感覚による行為である贈賄と美談とは紙一重の差なのである。
 このように、法的社会が形成されて以後、共同体との関係というやっかいな問題を人間は抱えこんできて今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいる。
 さて、共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件∵として道徳性を身につけなくてはならない。ちょうど、法的社会の指導原理が法であり、指導者はその条件として、法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならないのと同じように。あえて言えば、共同体社会は規模が小さく、前例主義なので、新しい政策の立案といったようなことはあまりなかった。
 この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。 だから孔子は葉(しょう)公に対して、「近き者(近くの人々)は説び、遠き者(遠くの人々)は(慕い)来る」と述べている。これが道徳政治というものの姿である。
 すなわち「共同体→共同体のきまり(慣習)→道徳」という体系に合わせて「共同体の指導者→共同体のきまり(慣習)の熟達者→道徳的完成者(聖人)」という図式を考えだしたのである。そして道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治を道徳政治(徳治政治)としたのである。これは、「法的社会→法的社会のきまり→法」に基づく「法的社会の指導者→法的社会のきまりの実行者や政策プランナー」という図式による法的政治(法治政治)と鋭く対立する。
 前者の道徳政治を主張したのが、儒家であり、その組織的理論化や、理論的指導を行なった最初の人が孔子であった。
 後者の法的政治を主張したのが、孔子よりずっと後に出てきた法家(ほうか)(たとえば韓非子)であり、その方式に基づく大政治家が、秦(しん)王朝を建てた始皇帝である。

 (「論語を読む」加地伸行より)