1. その翌日であった。母親は青葉の映りの
濃く射す
縁側へ新しい
茣蓙を
敷き、
俎板だの包丁だの水
桶だの
蠅帳だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
2. 母親は、自分と
俎板を
距てた向こう側に子供を
坐らせた。子供の前には
膳の上に一つの皿を置いた。
3. 母親は、
腕捲りして、
薔薇いろの
掌を差し出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて
擦りながら
云った。
4.「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから
拵える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
5. 母親は、
鉢の中で
炊きさました飯に
酢を混ぜた。母親も子供もこんこん
噎せた。それから母親はその
鉢を
傍らに寄せて、中からいくらかの飯の分量を
掴み出して、両手で小さく長方形に
握った。
6.
蠅帳の中には、すでに
鮨の具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取り出してそれからちょっと
押さえて、長方形に
握った飯の上へ
載せた。子供の前の
膳の上の皿へ置いた。玉子焼
鮨だった。
7.「ほら、
鮨だよ。おすしだよ。手々で、じかに
掴んで
喰べても好いのだよ」
8. 子供は、その通りにした。はだかの
肌をするする
撫でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ
喰べてしまうと体を母に
拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた
香湯のように子供の身うちに
湧いた。
9. 子供はおいしいと
云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
10.「そら、もひとつ、いいかね」
11.母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を
握り、
蠅帳から具の
一片れを取りだして
押しつけ、子供の皿に置∵いた。
12. 子供は今度は
握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く
覗いた。すると母親は
怖くない程度の
威丈高になって、
13.「何でもありません。白い玉子焼きだと思って
喰べればいいんです」
14.といった。
15. かくて、子供は、
烏賊というものを生まれて初めて
喰べた。
象牙のように
滑らかさがあって、生
餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は
烏賊鮨を
喰べていたその
冒険のさなか、
詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現さなかった。
16. 母親は、こんどは、飯の上に、白い
透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、
脅かされるにおいに
掠められたが、鼻を
詰まらせて、思い切って口の中へ入れた。
17. 白く
透き通る切片は、
咀嚼のために、上品なうま味に
衝きくずされ、程よい
滋味の圧感に混じって、子供の細い
咽喉へ通って行った。
18.「今のは、たしかに、ほんとうの魚に
違いない。自分は、魚が
喰べられたのだ――」
19. そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを
噛み殺したような
征服と
新鮮を感じ、あたりを広く
見廻したい
歓びを感じた。むずむずする両方の
脇腹を、同じような
歓びで、じっとしていられない手の指で
掴み掻いた。
20.「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
21. 無暗に
疳高に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた
飯粒を、ひとつひとつ
払い落としたりしてから、わざと落ちついて
蠅帳のなかを子供に見せぬよう
覗いて
云った。
22.「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」子供は
焦立って
絶叫する。
23.「すし! すし!」∵
24. 母親は、
嬉しいのをぐっと
堪える少し
呆けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、
生涯忘れ得ない美しい顔をして、
25.「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」
26. 最初のときのように、
薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてから
鮨を
握り出した。同じような白い身の魚の
鮨が
握り出された。
27. 母親はまず最初の試みに注意深く色と
生臭の無い魚肉を選んだらしい。それは
鯛と比良目であった。
28. 子供は続けて
喰べた。母親が
握って皿の上に置くのと、子供が
掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの
痺れた世界に
牽き入れた。五つ六つの
鮨が
握られて、
掴み取られて、
喰べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の
握る鮨は、いちいち大きさが
違っていて、形も不細工だった。
鮨は、皿の上に、ころりと
倒れて、
載せた具を
傍らへ落とすものもあった。子供は、そういうものへ
却って愛感を覚え、自分で形を調えて
喰べると余計おいしい気がした。子供は、ふと、
日頃、内しょで呼んでいるも一人の
幻想のなかの母といま目の前に
鮨を
握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、
一致しかけ一重の姿に
紛れている気がした。
29.(
岡本かの子「
鮨」)