長文集  2月3週  ★大相撲をはじめて見にいったとき(感)  re-02-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】大相撲をはじめて見にいったとき、
びっくりしたことがある。それは、取り組み
中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼
び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そ
して勝負までのしだいに盛り上がっていくは
ずの緊迫感がぜんぜんないということだ。【
2】それどころか、そもそも立ち会いの瞬間
も注意をこらしていないと、すぐ見逃してし
まい、眼を上げたら勝負は終わっていた、と
いうこともしばしばだ。【3】テレビの相撲
中継では、懸賞の提供者紹介や客の呼び出し
などの館内放送や観客席のざわめきは遮断さ
れていて、制限時間いっぱいになってから観
客の声援を入れるよう演出してあるから、下
のほうの取り組みでさえ、一抹の緊張感がた
だようわけだ。【4】ではなぜ館内がざわつ
いているのか。答えはかんたんだ。一枡四人
食べ物を拡げ、酒やビールを呑みながら、声
をひそめることもなくおしゃべりに興じてい
るからだ。食べながら見る、見ながらしゃべ
る。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、
勝敗を記入する。【5】あいだに前をひっき
りなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ
物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
 演ずる者と見る者、つまり演じられている
舞台とそれを鑑賞する観客とを空間的に分離
すること、そういう制度になれてしまうと、
大相撲とか歌舞伎の楽しみかたに、はじめは
とまどう。【6】けれども、今わたしたちが
劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑
賞する西洋の演劇や音楽にしたって、もとも
とは人びとでなんとなくざわついている宮廷
の庭や居間で、あるいは街の芝居小屋や路上
で、催しとして行われていたわけで、必ずし
も純粋な鑑賞の対象であったわけではない。
【7】渡辺裕によれば、たとえば十八世紀の
演奏会は極端な言い方をすると「音楽のある
パーティー」といった趣の社交の場だったよ
うで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲
を聴く場合は歌詞を印刷したプログラムが配
られることもあったそうである。
 【8】「おしゃべりだけではない。聴衆は
演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
ツェルターは後に一七七四年のベルリンでの
コ∵ンサートの回想の中で、「無数のパイプ
から立ち上った煙草の煙のもやの中で指揮を
することは容易ではなかったろう」と述べて
いる。【9】また一七八四年のエアフルトで
の演奏会の記録によれば、ビールや煙草が認
められていただけでなく「とりわけ音楽が好
きでない人々は気晴らしにトランプをやって
おり、ご婦人方は徐々にそちらに加わってい
った」。【0】フランクフルトのコンサート
協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れ
てくることは禁止」と書かれていたというの
も興味深い。そんなことをわざわざ断らなけ
ればならないというのは、そういうことを何
とも思っていない輩がいたということのあら
われである。(渡辺格「聴衆の誕生」)」
 じっと息をこらして、作品の世界にひたり
きるという「集中的聴取」の思想はまだなか
ったわけである。いま、たまたま思想という
ことばを使ったが、居ずまいを正して作品に
集中するというような聴取の態度はかならず
しも自明のものではなく、「芸術の享受」あ
るいは「作品の鑑賞」という一つの思想をバ
ックボーンとして、制度化されてきた態度に
ほかならないということである。そしてその
ために、演ずる者、演奏する者と見る者、聴
く者とを空間的に分割する装置が、劇場やコ
ンサート・ホールとして建造されたのだ。
 「隔たり」ということが、ここでポイント
となる。演ずる者、演奏する者と見る者、聴
く者、つまりは、見られるものと見るものと
を空間的に分離する装置のなかで、二つの距
離が発生する。主体と対象との隔たりと、主
体と唯の主体との隔たりである。
 見る主体と見られる対象との隔たりは、芸
術の場合、「鑑賞」という概念と連動してい
る。愉しみの「享受」というよりもむしろ、
距離を隔てて「鑑賞」すべき客体として「芸
術作品」が主体から空間的に分離されていく
そのプロセスを支配していたのは、近代芸術
における「美の自律性」という考えかた、「
美」はそれ自体としての独立の価値をもつと
いう考えかただ。「芸術作品」は、それが創
られた時代や環境を超えた独自の「美的」世
界をもつ。それが置かれた状況、あるいはそ
れを前にした鑑賞者によって価値∵を変える
などということは、本来、「芸術作品」にと
ってありえないことなのだ。そのためには、
これらの作品は味覚とか嗅覚、触覚といっ 
た、そのつどの状況によって感覚内容が変化
するような「低級」な感覚に支えられるよう
なものであってはならない。そうではなく 
て、視覚や聴覚のような、距離をおいた感覚
、対象と接触したり混じりあったりすること
のない「普遍的な感覚」によって支えられる
のでなければならない、とされるのである。
 さて「隔たり」のもう一つの意味は、他者
との隔たりということである。たとえばコン
サートでも演劇でも、開演にあたってまず客
席の照明が落とされる。これはまずは、見る
ものと見られるもの、演奏するものと聴くも
のとを空間的に分離するためもあるが(客席
を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見
る人ではなく見られるばかりの人になり観客
は見られることなく見るだけの人になる)、
同時に、まわりにいる他の人間たちから個人
を分離し、隔離するためのものでもある。観
客が、他人にじゃまされることなく、個人と
して作品鑑賞に集中できるよう、作品世界に
投入できるように、照明が落とされるのだ。
だから建物は、純粋に「作品」の世界だけに
集中できるよう、周囲の騒音を遮断する構造
になっているし、観客は観客で、持ち物、パ
ンフレット、咳払いなどで余計な物音を立て
ることのないよう注意しなければならないの
である。
 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に
起こった反逆、例えば演奏中に客が絶叫する
ようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に巻
き込み、ストーリー展開のなかに偶然的な要
素をどんどん導入していくハプニングなどの
パフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路
上で予告なしに劇が開始されることもあった
)、アクションペインティングなどは、まさ
にこのような近代の「芸術鑑賞」という制度
そのものに攻撃の照準を合わせていたのであ
った。

 (鷲田清一)