レンギョウ の山 2 月 2 週 (5)
★私の英語力はほとんど(感)   池新  
 【1】私の英語力はほとんど中学三年間の教育に依拠している。高校時代に覚えた難しい単語は記憶の彼方へ霧散してしまったし、大学時代の英語教育はなきに等しかった。大学にはLL教室があったけれども、テレビモニターを相手におうむ返しに発声するという行為の単純さと滑稽さには耐え難いものを感じた。【2】現代小説を読むリーディングの授業は他力本願で何も身につかなかった。一番ひどかったのがアメリカ人講師による会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その主な理由は、講師の「笑顔」にあった。【3】金髪の彼は、授業の間中、表情豊かに微笑しつつ頻繁に学生たちに語りかけていた。たいてい私はうつむいて、机の下で爪をいじったりしながらそれを聞いていた。それがいけなかった。
 【4】視線を落として指先のあたりを見つめるのは「意識を集中して何かを聞く」ときの私の定型ポーズにすぎないのに、彼にかかると、それは授業に対する「不満の表明」とみなされる。しょっちゅう机の脇に来ては、「何か問題がありますか?」「具合でも悪いのですか?」と尋ねられてうっとうしいことこの上ない。【5】私は無表情に首を振る。「別に、何もありません」心の中では思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに笑っちゃいられないわよ。馬鹿じゃないんだから……。そうこうする間に私の英語力は息絶えた。
 【6】それから十年以上が経った昨夏、女子大生の語学研修に同行してアイオワ州のある私大へ行った。私自身は英語のレッスンに参加したわけではなかったけれども、ひと月近く滞在するうちに、あちらの教授陣とかなり緊密な付き合いをすることになった。【7】なにしろ、朝昼晩の食事が一緒である。毎日、レッスンの前後にあちこちへ案内され、週末には自宅へ招待される。それはもう逃げ場もなく英語攻めということでもあり、苦しさ半分有り難さ半分といった日々。苦しさの方は、言葉が頭の中に渦巻くばかりで口から発射されないことだ。【8】だいたいすれ違うたびに見知らぬ人と挨拶を交わすという習慣からして私にはつらい。にっこり笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと疲れてしまう。∵
 有り難さの方は彼らのあふれるホスピタリティに触れたことだ。【9】アルバイトの学生から役付きの偉い教授までが、私の日常の細やかな部分に気を遣ってくれる。立場が逆だったら、こうまでは出来ない。「笑顔」である。彼らは揃いも揃ってにこやかな人々だった。いつ会ってもキゲン良さそうに微笑んでいる。【0】ほとんど朝から晩まで笑っているのかと思うほどだ。もしかすると表情筋が笑顔に固定されているのかもしれないとさえ思った。陽気な奴らなんだ、きっと。笑顔の民族なんだな。ある時私は見てしまったのだ。今までにこやかに笑顔を振りまいていた教授が、一人になったとたん、考え深げな、どことなく徒労感の漂う表情に戻るのを。彼はふと、まだ傍らに私がいるのに気づいたけれども、再び同じテンションの笑顔に持っていくまでには驚くほど時間がかかった。その時、彼らの笑顔が意識的な努力の賜物であることを私は悟った。
 彼らは実に意識的な人々だった。明快な価値観を持ち、一瞬一瞬を選択し、行動に移す。笑うべきだと思うから笑うということだ。たとえ一番気が抜けるはずの家庭でさえ、意志の力で支えていかなければあっという間に瓦解するという厳しい認識が、日常の些細な行為の背後にも痛いほどに感じられる。現実は厳しく、それを乗り越えるためには強靭な意志力と行動が必要なのだ。
 その厳しい現実の一つがきっと理解不可能な他者の存在なのだろう。ひと月の間に、さまざまな場所でさまざまなアメリカ人とすれ違ううちに、私は一つの妄想を抱くようになった。「向こうから知らない人が歩いてくる。言葉は通じそうにない。何か誤解されたらナイフを突き付けられるかもしれない。ピストルだったら即死だ」そのような心理的風土のもとでなら、過剰だろうがなんだろうが誤解の余地もないほどに微笑んで敵意のないことを相手に示そうとするだろう。相手もそうするだろう。摩擦を起こさず、安心してくらせる市民社会の、それがルールになるだろう。
 ここにいたって、その昔、苦手だった英会話のクラスで何が起こ∵っていたのか、私はようやく理解した気がするのだ。こういう国から来た人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの努力を怠った私には苛立ったはずだ。今思えば、彼もまた強靭な意志力によって精一杯私たちに微笑みかけていた。こちらが無表情だった分、彼の微笑みは過剰になるのかもしれなかった。英語表現の基礎は語彙でも構文でもなく、伝えようとする意志、微笑むその姿勢だと教えていたのかもしれなかった。
 アメリカ人は、あんなに毎日一生懸命に生きていて疲れないのだろうか。