長文集  2月1週  ★現代はアイデンティティ不定の(感)  re-02-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/12/15 04:27:20
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】どこかへ旅行がしてみたくなる。し
かし別にどこというきまったあてがない。そ
ういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、
あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるい
は温泉といったよう に、行くべき所がさま
ざま有りすぎるほどある。【2】そこでまず
かりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少
し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、
周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっと
わかる。しかしもう少し詳しく具体的な事が
知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を
捜し出して読んでみる。【3】そうするとま
ずぼんやりとおおよその見当がついて来るが
、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみたと
ころで、結局ほんとうのところは自分で行っ
て見なければわかるはずはない。もしもそれ
がわかるようならば、うちで書物だけ読んで
いればわざわざ出かける必要はないと言って
もいい。【4】次には念のためにいろいろの
人の話を聞いてみて も、人によってかなり
言う事がちがっていて、だれのオーソリティ
を信じていいかわからなくなってしまう。そ
れでさんざんに調べた最後にはつまりいいか
げんに、賽でも投げると同じような偶然な機
縁によって目的の地をどうにかきめるほかは
ない。
 【5】こういうやり方は言わばアカデミッ
クなオーソドックスなやり方であると言われ
る。これは多くの人々にとって最も安全な方
法であって、こうすればめったに大きな失望
やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。
【6】そうして主要な名所旧跡をうっかり見
落とす気づかいもない。
 しかしこれとちがったやり方もないではな
い。たとえば旅行がしたくなると同時に最初
から賽をふって行く所をきめてしまう。ある
いは偶然に読んだ詩編か小説かの中である感
興に打たれたような場所に決めてしまう。【
7】そうして案内記などにはてんでかまわな
いで飛び出して行く。そうして自分の足と目
で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。
この方法はとかくいろいろな失策や困難をひ
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き起こしやすい。またいわゆる名所旧跡など
のすぐ前を通りながら知らずに見のがしてし
まったりするのは有りがちな事である。【8
】これは危険の多いへテロドックスのやり方
である。これはうっかり一般の人にすすめる
事のできかねるやり方である。
 しかし前の安全な方法にも短所はある。読
んだ案内書や聞いた人∵の話が、いつまでも
頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を
隠し耳をおおう。【9】それがためにせっか
くわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行
李の中にでも押しこめられたような形にな 
り、結局案内記や話した人が湯にはいったり
見物したり享楽したりすると同じような事に
なる、こういうふうになりたがるおそれがあ
る。【0】もちろんこれは案内書や教えた人
の罪ではない。
 しかしそれでも結構であるという人がずい
ぶんある。そういう人はもちろんそれでよい

 しかしそれではわざわざ出て来たかいがな
いと考える人もある。曲がりなりにでも自分
の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色
踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う
時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなけ
ればなんにもならないという人がある。こう
いう人はとかくに案内書や人の話を無視し、
あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買
うために自分を売る事を恐れるからである。
こういう変わり者はどうかすると万人の見る
ものを見落としがちである代わりに、いかな
る案内記にもかいてないいいものを掘り出す
機会がある。

(寺田寅彦「案内者」より)∵
 【1】現代はアイデンティティ不定の時代
といわれている。私はなにものか。私は何を
して生きていけばよいのか。どうすれば自分
らしさを発見できるのか。これらの問いは青
年期につきものだが、最近では、青年期に限
らず、およそライフステージのどこにおいて
も、このような問いにつきまとわれることが
多い。
 【2】近代社会は、前時代の共同性を解体
させ、一人の個人がある具体的な共同体に属
することの内的な意味を希薄化させた。それ
が、私たちのアイデンティティ不定の大きな
要因として関係している。【3】それは同時
に、私たちの社会において「大人である」と
か「大人になる」とかいうことが、何を指す
のかがはっきりしないことをも意味する。
 なぜならば、かつては、大人になることは
、端的に、個人が自分の属すべき共同体の一
員としての資格を得ることを意味していたか
らである。【4】共同体があるひとつの精神
のもとに統一性を保っていれば、大人である
ことの意味はおのずから決まってきた。した
がって大人になることは、その共同体の核を
なしている精神を心身両面において理解し、
それを自分が生きていくための基本の型とし
て承認することを意味していた。
 【5】よく知られているように、近代以前
の社会には、それぞれの社会の要請に見合っ
た何らかの通過儀礼が存在した。子どもと大
人はこの儀式によってはっきりと分けられて
いた。【6】たとえ ば、わが国の武家社会
における元服の儀式は、それを最もよく象徴
している。一定の年齢になると、男子は幼名
を廃し烏帽子名をつ け、服を改めて、髪を
結いなおしたりさかやきを剃ったりした。
 【7】ところが近代は、子どもから大人へ
の変化期からこの単純な境目を取り払い、代
わりに「教育課程」という、長い射程をもっ
たシステムをあてがうことにした。いうまで
もなく、学校制度がその機能を果たすことに
なったのである。
 【8】「教育課程」は、節目のはっきりし
ないたいへん間延びしたプロセスである。そ
れは、人間はだんだんと段階的に成長してい
って大人になるものだというイメージを私た
ちのなかに知らず知らずのうちに植えつける
。【9】近代の教育制度は、自分がどこで大
人になったのかという自覚を曖昧なものにさ
せる効果を持っていたのである。
 一方では、いま述べた認識と一見矛盾する
次のようなこともいわれている。∵
 【0】近代以前には、子ども期と呼べるよ
うな時期は存在せず、子どもはみな小さな大
人であった。幼児期をすぎると、ごく早い時
期から子どもは大人の集団に仲間入りして、
かれらの話や行動のなかから見よう見まねで
大人社会の規範やそのありさまを学び、明瞭
に問題化されることとひそやかに語られるこ
ととの区別などを身につけるようになってい
った。(中略)
 ところが近代になって、資本主義的生産が
飛躍的な発展を遂げるに従い、一人の生産者
が複数の消費者を養えるようになると、「家
族」が、一般世間から明瞭な輪郭をもって成
立するようになった。
 この、一般世間からの家族の明瞭な自立が
、年少の人々を内部に囲い込み、そこに子ど
も期と呼ベるような独立した時期を誕生させ
た。人間の成長・成熟にとって、家族生活の
重要性が浮かび上がるようになった。(中略

 それまでは、子どもは生むにまかせ、大し
た配慮もなく育つにまかせていた。子どもは
、家族の内側と外側のはっきりしない境界線
を、早くから行き来していた。そして、親か
ら身体的な意味で自立できるようになるごく
早い年齢段階から生産にかり出され、大人の
世界に参加させられていた。
 ところが、ある時期から、人々は、子ども
をまさに子どもとして「大切に」あつかうよ
うになった(あつかいが実質的に少なくなっ
たのかどうかという判断の尺度にはならない
)。フィリップ・アリエスのいう「十七世紀
までは子どもは小さな大人にすぎなかった。
子ども期は近代になって発見されたのだ」と
いう有名なことばはそういう意味である。
 したがって、両方の認識は矛盾するのでは
なく、同じ一つのことを異なる二つの側面か
ら観察したものと考えるべきだ。要するに、
子どもと大人との間に単純に荒々しく引かれ
ていた境界線が取り払われ、それまでは半ば
どうでもいいものとして無造作に考えられて
いた子どもが、もっと細心な視線を注がなけ
ればならない存在として、大人たちの意識の
なかにクローズアップされてきたのである。
そしてその結果、子ども期は、いくつかの段
階を抱え持ちつつ、次第に大人になってゆく
、「過程的な」存在とみなされるに至ったの
である。

(小浜(こはま) 逸郎「大人への条件」に
よる)