長文 1.4週
1. なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象も手伝ったにちがいないが、「安寿あんじゅ厨子ずし王」の話は私には暴力にも似た一撃いちげきであった。グレアム・グリーンが『失われた幼年時代』で言っているように、「本というものがわれわれの人生に深い感化を及ぼすおよ  のは、おそらく幼年時代だけである。それ以後は、感心したり、面白がったり、これまでの見方を修正したりすることはあっても、多くはすでに考えていたことを本で確認するにとどまる。こいをしていると、自分の顔かたちが実物以上によく見えるような気がするのと同じである。」
2. 私が鴎外おうがいの『山椒さんしょう大夫』を読んだのは、大人になってからであった。そして今度また久しぶりに再読したが、結末のところを見て、そうかと思った。あの母親は、可愛いさかりのむすめと息子をさらわれた哀しみかな  に夜も昼も泣いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてしまった、というくだりがあるような気がしていたからである。むろん、作者はそんなことは書いていなかった。書く必要もなかったにちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読んだのか、でなければ自分でそう考えたのであろう。いずれにしても、私の心には絵本のイメージのほうが生きていたのである。
3. 私が鴎外おうがいの結末でいい加減に読み過ごしていた箇所かしょは、もう一つあった。作者はこう書いている。
4.「女はすずめでない、大きいものがあわをあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いうるお が出た。女は目がいた。
5. 『厨子ずし王』という叫びさけ が女の口から出た。二人はぴったり抱き合っだ あ た。」
6. それは厨子ずし王が姉の形見に肌身はだみ離さはな ず持っていた守り本尊の力であるという。そこが、ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほうはどうであったかは、もう覚えていない。子供心にも、この最後の奇蹟きせきはいくぶん付けたりのように思われたかもしれない。今の私には、親の一念、子の一念とはそれほどのものかもしれないと思う気持ちもある一方で、不幸な女の盲目もうもくという書き方に、何か古い物語∵の慈悲じひのようなものを感じる。ハッピーエンドがつまらぬというのではなく、目が明くことのほうが残酷ざんこくな場合も人生にはあるだろうからである。
7. 作者鴎外おうがいは、この作品の発表(大正四年)と同時に『歴史其儘そのままと歴史離ればな 』という文章を書き、自ら詳しいくわ  解題を行っている。そして、「山椒さんしょう大夫のような伝説は、書いて行く途中とちゅうで、想像が道草を食って迷子にならぬ位の程度に筋が立っているというだけで、わたくしの辿ったど て行く糸には人を縛るしば 強さはない。わたくしは伝説そのものをもあまり精しく探らずに、夢のような物語を夢のように思い浮かべおも う  て見た」と言っている。
8. 「夢のような物語を夢のように」というその夢は、ある特定の個人が見る夢というより、われわれ日本人のだれしもが民族の血の中に受け継いう つ できた古い歴史の余映のようなものであろう。夏目漱石そうせきも短編集『夢十夜』(明治四十一年)で、われわれの現在を支配する過去の恐ろしいおそ   姿を、不条理なイメージの断片を突きつけるつ    ようにして、あばいて見せた。伝説のみならず、お伽噺 とぎばなしや民話や怪談かいだんのたぐいがいつの世にも子供の心をとらえるのは、子供自身の血の中に、自分が生まれる何代も前の記憶きおくを呼び起こそうとする本能が潜んひそ でいるからだとでも考える他はない。

9.(阿部あべ昭『短編小説礼さん』)