長文集  1月4週  ○なにぶん絵本のことで、  re-01-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:53:19
 なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象
も手伝ったにちがいないが、「安寿(あんじ
ゅ)と厨子王」の話は私には暴力にも似た一
撃であった。グレアム・グリーンが『失われ
た幼年時代』で言っているように、「本とい
うものがわれわれの人生に深い感化を及ぼす
のは、おそらく幼年時代だけである。それ以
後は、感心したり、面白がったり、これまで
の見方を修正したりすることはあっても、多
くはすでに考えていたことを本で確認するに
とどまる。恋をしていると、自分の顔かたち
が実物以上によく見えるような気がするのと
同じである。」
 私が鴎外の『山椒大夫』を読んだのは、大
人になってからであった。そして今度また久
しぶりに再読したが、結末のところを見て、
そうかと思った。あの母親は、可愛いさかり
の娘と息子をさらわれた哀しみに夜も昼も泣
いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてし
まった、というくだりがあるような気がして
いたからである。むろん、作者はそんなこと
は書いていなかった。書く必要もなかったに
ちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読ん
だのか、でなければ自分でそう考えたのであ
ろう。いずれにしても、私の心には絵本のイ
メージのほうが生きていたのである。
 私が鴎外の結末でいい加減に読み過ごして
いた箇所は、もう一つあった。作者はこう書
いている。
「女は雀でない、大きいものが粟をあらしに
来たのを知った。そしていつもの詞を唱えや
めて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき
干した貝が水にほとびるように、両方の目に
潤いが出た。女は目が開(あ)いた。
 『厨子王』という叫びが女の口から出た。
二人はぴったり抱き合った。」
 それは厨子王が姉の形見に肌身離さず持っ
ていた守り本尊の力であるという。そこが、
ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほう
はどうであったかは、もう覚えていない。子
供心にも、この最後の奇蹟はいくぶん付けた
りのように思われたかもしれない。今の私に
は、親の一念、子の一念とはそれほどのもの
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かもしれないと思う気持ちもある一方で、不
幸な女の盲目という書き方に、何か古い物語
∵の慈悲のようなものを感じる。ハッピーエ
ンドがつまらぬというのではなく、目が明く
ことのほうが残酷な場合も人生にはあるだろ
うからである。
 作者鴎外は、この作品の発表(大正四年)
と同時に『歴史其儘(そのまま)と歴史離れ
』という文章を書き、自ら詳しい解題を行っ
ている。そして、「山椒大夫のような伝説は
、書いて行く途中で、想像が道草を食って迷
子にならぬ位の程度に筋が立っているという
だけで、わたくしの辿って行く糸には人を縛
る強さはない。わたくしは伝説そのものをも
あまり精しく探らずに、夢のような物語を夢
のように思い浮かべて見た」と言っている。
 「夢のような物語を夢のように」というそ
の夢は、ある特定の個人が見る夢というより
、われわれ日本人の誰しもが民族の血の中に
受け継いできた古い歴史の余映のようなもの
であろう。夏目漱石も短編集『夢十夜』(明
治四十一年)で、われわれの現在を支配する
過去の恐ろしい姿を、不条理なイメージの断
片を突きつけるようにして、あばいて見せた
。伝説のみならず、お伽噺や民話や怪談のた
ぐいがいつの世にも子供の心をとらえるのは
、子供自身の血の中 に、自分が生まれる何
代も前の記憶を呼び起こそうとする本能が潜
んでいるからだとでも考える他はない。

(阿部昭『短編小説礼讃』)