長文集  1月3週  ★われわれ自身は必ずしも意識して(感)  re-01-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】われわれ自身は必ずしも意識してい
ないかも知れないが、例えば「スミマセン」
という表現は不思議だと感じられることがあ
る。この表現は英語で言えば「Thank 
you」と「I am sorry」という
いずれの表現の使われる場合にも用いられる
が、【2】一方は「お礼」、他方は「お詫び
」の表現であり、そのように一見相反すると
も思えるものが同じことばで表されるのは不
可解だというわけである。しかし、われわれ
自身がこれらの表現を使う時の気持を少し意
識的に内省してみればすぐ分かる通り、【3
】相手から何か好意あることをしてもらうこ
とは有難い(Thank you)と同時に
、負担をかけたという意味で申し訳ない(I
 am sorry)ことであり、こちらか
らもそれに応える何かをお返しするまでは事
はすまないし、自分の気持ちもすまない――
ということで、日本語にはそれなりの論理が
背後にあるわけであ る。
 【4】あるいは、このような例はどうであ
ろうか。英語では、「I am cold」
「You are cold」「He is
 cold」は、どれも同じように普通の自
然な表現である。ところが日本語だと、「ボ
クハ寒イ」はよいが、「君ハ寒イ」、「彼ハ
寒イ」というのは不自然に聞こえる。【5】
一見、日本語の方は筋が通っていないように
思えるが、それなりの論理は背後にある。つ
まり、寒いと感じるのは本人の感覚であり、
それを本当の意味で体験できるのはその本人
だけである。したがって、自分の寒いのは自
分で分かるから良いが、同じことは他人につ
いてはできないはず、というわけである。【
6】「君(彼)ハ寒イ」などという表現を聞
くと、何となく差し出がましいことを言って
いるという印象を受けるのもそのためである
。(本人が寒いということは、本人以外には
その内的な感覚が外からも知覚できるような
形で現れて初めて分かることである。【7】
「君(彼)ハ寒ガッテイル」ならば不自然で
なくなるのは、そのためである。)
 この種の例は言語のいろいろな面で、また
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いろいろな抽象度で、見出し議論することが
可能である。そこで見出される特徴も、この
言語特有のものから、どの言語にも普遍的な
ものに至るまで、さまざまな段階のものがあ
ろう。【8】そして、また、それぞれの特徴
の持っている文化的な意味合いもさまざまで
あろう。それは、言語を使う人間が一方では
自分なりの創造をすることのできる文化的存
在であり、同時に、他方では生物学的存在と
して生理的・∵心理的に(例えば、発声・調
音器官の構造の類似、記憶力の限界など)共
通の制約を有しているからである。
 【9】しかし、いずれにせよ、一つの言語
を習得して身につけるということは、その言
語圏の文化の価値体系を身につけ、何をどの
ように捉えるかに関して一つの枠組みを与え
られるということである。【0】(その意味
で、一つの言語を習得するということは一つ
の「イデオロギー」を身につけることなので
ある。)そこで身につけられる価値体系やも
のの捉え方の枠組みは、決してそこから抜け
出せないといった性格のものではない。しか
し、われわれがとりわけ日常的なレベルで、
それらを「自然」なものとして受け入れてい
る限りにおいて、自らの身につけている言語
によって、ある一つの方向づけをされている
のではないか。しかも、われわれ自身はそれ
に必ずしも気づいていないのではないか。も
しそうだとすると、この点における言語の働
きは、人間という存在にとって「無意識」の
働きにもある程度類比できるのではないか。
いや、むしろ、「無意識」の方がいろいろな
意味でその働きを言語に負っているのではな
いか。こういった反省にまで進んでいくこと
になるのである。

 (池上嘉彦「記号論への招待」)