長文集  1月2週  ★農業は、きわめて恣意的な営みで(感)  re-01-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】農業は、きわめて恣意的な営みであ
る。
 土を耕す仕事は自然と調和したエコロジカ
ルな行為と一般には思われているようだが決
してそうではない。恣意的、といって曖昧な
ら、人間が自然を自分の都合のよい方向にね
じ曲げる行為、といったらいい過ぎか。
 【2】だいたい、野菜、という概念からし
て人工的なものであ る。
 人は野草や山菜を採集する労苦と非能率を
恨んで、採ってきた植物を住むところの近く
に置いて管理しようと試みた。種を取って播
き、みずからの意志によって自然を手なずけ
ようとさえした。
 【3】人間の管理下に置かれたもののうち
、栽培されることに甘んじた植物もあったし
、断固としてそれを拒否し、野生の状態でな
ければ生育しないことを死をもって示した種
もあったろう。
 食用になる野草山菜のうち、人の管理下で
の植栽が可能なものが「ベジタブル」と呼ば
れる。【4】生長・増殖することが可能、と
いう意味である。
 そればかりではない。品種の「改良」とい
う名のもとに、人間は植物の姿かたちさえも
自分たちの望む通りに変えてきた。根が食べ
たいと思えば、根を太くする。茎が固いと思
えば、柔らかくする。
 【5】たとえばレタスとかキャベツとかい
った、丸く結球する野菜を考えてみよう。
 これらの植物は、芽が出てからしばらくの
ようすを見ていればわかるが、最初はごくふ
つうの、それぞれの葉が外側に反りながら上
に伸びていくかたちの青菜である。【6】そ
れが、ある時点から、しだいに外側の葉が内
側の葉を包むように巻きはじめる。
 この性質は、人間がつくったものである。
 葉が丸く内側に巻きはじめるのは、過剰な
栄養のために過度に増えた葉がこみあって伸
びる場所を失うからだ。【7】もちろん生体
が想定し得る以上の栄養を与えることができ
るのは人間だけであ り、そうして得られた
結果――つまり、結球することによって内部
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は日光を遮断されて白く柔らかくなり、同時
にひとつの固体の摂食可能な部分の体積が飛
躍的に増える――を享受するのもまた人間な
の∵だ。
 【8】私は、野菜のために土を耕しながら
、ときどきそんなことを考えた。
 「文化」という言葉の語源は「耕す」とい
う意味だと教えられ、そうであるとすれば土
を耕す農業こそはまさしく文化的な営みだと
納得するが、【9】しかしそれにしたところ
で、文化というのは人間が手をつけられない
ような荒々しい自然をなんとか馴化して管理
下に置こうとする試みなのだ、と種明かしを
すれば、それほどたいしたことをやっていな
いのはすぐにわかる。【0】人は自然界にあ
る無限の音から人の耳に美しいと感じられる
楽音だけを取り出して音楽をつくり自然界の
無限の風景のうち気に入った部分だけを抽出
して絵画に構成する。農耕も含めて、そうし
た「文化」的な営みの中においてだけ、人は
自然を自分たちのコントロール下に置いたよ
うな気分になるのである。
 私たちの農作業は、「文化」からはほど遠
いところにあった。
 九二年は、前述したように乾燥した暑い夏
だった。
 九三年は、一転して雨ばかり降り続く寒い
夏で、コメが大凶作に見舞われたことは記憶
に新しい。私たちの畑でもブドウには病害が
発生したし、トマトは降り続く雨にたたられ
てひどい減収、ジャガイモは掘り返す前に半
分が土の中で腐った。
 そして九四年はまたまた予想を裏切る酷暑
と旱魃のシーズンで、ブドウは辛くも枯死を
まぬがれてなんとか収穫にまで至ったものの
ブルーベリーは熟しつつある実をつけたまま
立ち枯れ、トウモロコシも皮を剥くと乾(ひ
)からびた実があらわれた。そのため連日水
やりに追われたが、地熱があまりにも高くそ
れこそ焼け石に水であった。トマトもピーマ
ンも水不足で小さな表面の乾いた悲しい実し
か実らせることができなかったし、秋になっ
てようやく持ち直したと思ったら台風の風で
倒された。
 まったく、自然を手なずけるどころか、自
然の大きな力に翻弄されるばかりである。
 もちろん、その理由の大きな部分が私たち
の技術や予測の未熟さ設備や投資の不足にあ
ることは明白だが、しかし必要なソフトやハ
∵ードをすベて兼ね備えているはずの周辺の
プロの農家も結局はほとんど同じような被害
に苦しんでいることを考えると、そもそも農
業というのは、人間が自然に働きかけかなり
の程度それを飼い慣らしたように見えて、実
際には単に大きな自然界のほんの少々の「お
あまり」をいただくくらいのことしかできな
いのだ、ということがわかってくる。
 畑仕事をはじめた最初の年には、抜いても
抜いても生えてくる雑草と格闘しているうち
に、「いったい、俺はなんでこんなことをし
ているのだろう」と自問することがしばしば
あった。「こんな無駄なことにかかわってい
る時間に、もっとほかにやるベきことがある
のではないのか?」そう思ってイライラした
こともある。
 しかし、そんな過渡期の思いも、二年めに
入るとしだいに消えていった。
 畑仕事は、いくら人間が焦っても、できな
いものはできない。われわれの望むもののう
ち、自然の合意を得られた分だけを、ゆるゆ
るとすすめることしかできないのである。

(玉村豊男「種まく人」より)