ライラック2 の山 6 月 2 週 (5)
★先日、ある文科系の先生から(感)   池新  
 【1】先日、ある文科系の先生から、次のような趣旨の質問をいただいた。「脳科学の研究者たちは、いつでも細かい神経生理の最新知見を上げ、『このようにひとつひとつ明らかにしてゆくことによっていずれは脳の生み出すさまざまな現象を解明できるだろう』といいますね。【2】彼らの言葉は決まって『いずれ』『だろう』です。しかし本当にそうなのでしょうか? 臨死体験が脳の虚血の反応だというのは一見納得しやすい意見です。しかし問題はもっと根本的なところ、つまりなぜ臨死体験するのかというところにあるのではありませんか? 【3】脳について考えるときは、還元論的な手法だけでなく、哲学のような包括的なアプローチを用いることも重要なのではありませんか?」
 このような意見はもっともであり、いわゆる「科学的手法」で生命現象を解明してゆくことの難しさを端的に表していると思う。
 【4】いくら神経細胞を観察し、記憶の形成メカニズムを調べたところで、「なぜヒトに『心』が存在するのか」という問いに答えることはできない。同様に、DNAを詳細に解析したとしても、「ヒトとは何か」という漠然とした巨大な問いに明快な答えを出すことなど不可能だろう。【5】だがこれをもって科学的手法の限界を説くのは誤りである。
 多くの人は、「科学」に対して過度な期待を持っているようである。科学者に対し、「全てを科学で説明してみろ。ほら、できないではないか。世の中には科学で説明できないものもあるのだ。【6】科学は万能ではないのだ」というのは間違っている。このような言い方の裏には科学に対する妄信的な信奉と、それへの嫉妬がある。科学は信仰の対象ではない。
 しかしこれならわかりやすい。厄介なのは逆の方向から科学を狭めようとする動きが広まりつつあることだ。【7】識者やマスコミはオウム真理教事件や擬似科学本の流行などといったいまの状況をひとつにくくり、「科学的」なものの見方が弱まっていることを嘆き、科学者たちが脆弱になっているのではないかと憂いている。【8】だがここで「識者」が口にする「科学的」という言葉は、感∵情を一切排した厳密性に対する理想と憧れを漠然と指しているに過ぎないような気がする。そして、不思議なのは、科学者たちまでもがその罠にはまり、自らに枷をつけようとしていることだ。
 【9】私が思うに、科学とは「信仰」という名の魔法でもなければ「厳密性」といった堅苦しいものでもない。この世に存在する無数の「驚異」に対するひとつのアプローチの仕方なのである。特に生命科学は、目の前にある生命現象を「理解」したいという単純な欲求から始まっている。【0】驚きを驚きとして認めた後、その驚異を理性的に考え、理解しようと努める姿勢こそが科学なのであり、その意味において人文社会系もいわゆる「理科系」の科学と等しく科学なのである。
 文学や哲学、宗教学は決して科学と相反しない。例えば「文学は人間を描くもの」とはよくいわれるフレーズだが、科学もまた人間や自然を対象にしていることを決して忘れてはならないと思う。生命科学の論文は、文学と等しく「人間を描いている」はずであり、またそうでなければならないと私は考えるのだがどうだろうか。

 (瀬名秀明の文章から)