長文集  6月1週  ★お金くらい(感)  ra2-06-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】お金くらい、変なものはない。なぜ
なら、本来どうして交換可能かと思われるよ
うな対象が、お金を媒介にすれば、平気で交
換されてしまうからである。
 私が大学で働くと、ただいまのところ、一
カ月に手取りで四十数万円下さる。【2】た
だし、その金額の算定根拠は、私にとっては
不明である。おそらくだれにとっても不明で
あろう。なぜなら、働いても働かなくても、
ほぼ同じくらいの額をかならず下さるからで
ある。もっとも、それが、官庁の取り柄とい
えば取り柄である。
 【3】そもそもお金は、なぜ交換の媒体に
なりうるのか。それ は、ヒトの脳がそうで
きているからである。脳という臓器は、その
内部で、もともとはとうてい交換不能なもの
を、強引に交換してしまう。たとえば、目か
ら入る刺激は、物理学的にいえば電磁波だ 
が、脳はそれを、音つまり空気の振動と等価
交換する。【4】それが、視覚言語と音声言
語である。「あ」という形に発する、電磁波
の信号が、「ア」という音と等価に交換され
る根拠は、脳がそれを実際に等価交換してい
るはずだ、という事実以外にない。脳は、そ
のいずれをも、神経細胞の信号に変換する。
【5】だから、音と光とではなく、信号と信
号とで、交換が可能になる。お金はじつは、
その信号が、いわば単に外界に出たものに過
ぎない。ヒトは、自分の脳を、外部に「投射
する」のである。(中略)
 【6】現代はシミュレーション社会だとか
、擬似現実の社会だとかいうが、それは、現
代社会が、身体というより、脳に似てきてい
ることを示している。つまり、脳の中では、
すべては擬似現実であり、すべてはシミュレ
ーションだからである。【7】その象徴がお
金であって、現代社会が、お金を中心に動く
ような気がするのは、倫理観が変化したから
ではない。社会が脳に似てきたためである。
 現代社会は、要するに、より抽象度の高い
世界である。【8】いまの人間が、身体と頭
のどっちを余計に使うかといったら、多くの
人が、そうとは意識せずに、頭の方を昔より
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余分に使っているであろう。∵
 テレビを見るという一見単純な行為ですら
、頭を使わなくては出来ない。手足を使って
、テレビを見るわけには行かない。【9】受
験戦争が大変だというが、以前よりは頭を使
わなくては、生きていけない社会を作ってし
まったから、仕方がない。
 ボケの問題が深刻になるのも、頭の重要性
が増したからである。昔は、カマドに火をつ
けた上で、その事実をすっかり忘れても、同
時に薪を加えることも忘れてしまう以上、火
が燃え続けることはなかった。【0】しかし
、いまではいったんガスに火をつけたら、消
すという操作を加えるまでは、ガスが燃え続
けることになる。だからボケが大変なのであ
る。
 お金の問題とは、私からすれば、典型的な
「信号問題」である。お金を現実と思ってい
る人は、そうは思わないかもしれないが、そ
れは、自分の手元、つまりお金の動きの末端
だけに注目するからである。それは脳の場合
も同じであって、感覚だけに注目すれば、現
に感じられる以上、すべては現実だというこ
とになる。しかし、感覚だって信号としてい
ったん脳の中に入ってしまえば、あとは「八
幡の藪知らず(入ると出口がわからなくなる
藪)」である。
 信号の問題点は、その意味で、途中から現
実がどこかに飛んでしまうことである。お金
がお金を生んだりするのは、脳の中で信号が
増幅されるのと同じであろう。脳の中で極端
に信号が増幅される病が癲癇(てんかん)で
ある。現代社会における、お金の増幅は、ほ
とんど癲癇の前駆症状に似ている。ドストエ
フスキーを読めばわかるが、軽い癲癇は、天
国にいるような恍惚状態を感じさせることが
ある。株で賭けたり、土地で儲けたりすれは
、恍惚状態になる人も多いのではないか。
 お金の動きそのものが脳の中の信号の動き
によく似ているので、たかがお金の動きに関
する議論が、ときどき哲学や神学の議論に近
くなるのであろう。こうした学問は、「こと
ば」という脳内の信号間の関係を、その信号
そのものを使って講論する。際限なくモメる
のは、そのせいである。

 (養老孟司『涼しい脳味噌』より)