長文集  5月2週  ★今まで機能してきた日本社会の(感)  ra2-05-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】今まで機能してきた日本社会のシス
テムが、機能不全に陥っている。いやそのシ
ステムが機能していると見えたのはうわべだ
けで、うまくいっていると見えているうちか
ら内部崩壊はすでに進んでいた。【2】それ
に気づかなかったのは、そのシステムが表層
的に誇示する利得、すなわち右肩上がりの経
済成長があまりにも目覚ましく、その「豊か
さ」が目くらましの効果を持っていたから 
だ。
 日本型システムが崩壊させていったのは、
一言でいえばわれわれの「存在感」である。
【3】われわれはなぜ生きているのか。何を
求めているのか。われわれとはそもそも何者
か。これだけ「豊か」になったこの社会の中
でわれわれはその問いに答えることができな
い。これだけ豊かになったのに、われわれは
存在感の病いに悩んでいる。【4】そしてこ
れだけ豊かになったのに、われわれはどこか
で自分自身が根源的に自由でないと感じてい
る。
 「豊かさ」と「存在感」が、ともに仲良く
二人三脚のように進んでいた時代はあった。
われわれはかつてほんとうに貧乏だった。ぼ
くの幼い頃の日本にして、今の日本から比べ
れば明らかに貧しかった。【5】昭和三十年
代生まれのぼくでもそう感じるのだから、第
二次世界大戦直接の日本を知っている世代に
とっては、その実感はなおさらだろう。(中
略)
 その時代において、「豊かさ」を獲得する
ことはわれわれの「存在感」の拡張でもあっ
た。この世界はどんどん良くなる。どんどん
豊かになる。【6】そのイメージが時代を支
配していた。それはイメージだけではなく、
時代の実体そのものだった。だから、われわ
れはなぜ生きているのか、何を求めているの
かと問われたならば、その問いの答えは比較
的明確だった。われわれは豊かな明日のため
に生きている。【7】今日の苦労が明日の豊
かさとなって返ってくる。世界はわれわれを
裏切らない。必ずわれわれは報われるのだ。
われわれは、世界と私の自由な関係の中に生
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きていた。(中略)
 しかし、その豊かさを手に入れやっと余裕
ができたはずなのに、われわれは、今、ため
息をつき、暗澹とした気分に陥っている。【
8】むしろ立ち止まって、自分自身の姿を鏡
に映し出す余裕ができたことが悲劇だ。そこ
に映し出されている自分自身の像は、あまり
豊かそうな顔をしていないのだ。∵
 日本が貧しかった時代を知っている人間は
まだ幸福だ。【9】鏡に映し出された頭があ
まり景気のいいものではなくても、その鏡に
映し出された自分の背景に映し込まれた風景
は、明らかにあの貧しさとは別物だ。だから
、貧しさの風景と現在の風景を比べて、これ
まで生きてきた年月が、自分自身の人生の軌
跡が、まったくの無駄ではなかったことを確
認できる。【0】それは過去へのまなざしで
あり、必ずしも未来への展望を切り開くもの
ではないが、しかしそこでひとまずの安心を
得ることができる。「豊かさ」を否定できる
者がどこにいよう。その「豊かさ」をわれわ
れは獲得した。自分の人生は無駄ではなかっ
たのだ。
 しかし、だれもが余生を生きているわけで
はない。過去へのまなざしだけでは生きられ
ないし、悪いことに平均寿命も延びてしまっ
た。その長い時間をこれからどう生きるのか
。その展望がわれわれには欠如している。こ
の社会がこれから経済的により豊かになると
信じている者はあまりいない。だいたい地球
全体の未来も、必ずしも明るくない。経済的
な豊かさを求め、それを目くらましにして今
の「存在感」を問うことなく、いやむしろそ
の「存在感」を切り崩すことで機能してきた
システムのツケが、いま日本社会を機能不全
に陥(おとしい)れようとしているのである

 そのシステムの歪みが、いっそう深刻な形
で現われているのが、若い世代である。貧し
さを知っている世代はまだいい。貧しい「過
去」を知らない世代、生まれたときから貧し
さを知らず、すでにそこそこ豊かであった若
者たちにとって、貧しい過去との対比で自己
と世界を肯定する回路は、あらかじめ閉ざさ
れている。後ろ向きの視線で自己を肯定する
回路はそもそも存在せず、輝かしい未来のイ
メージも像を結ばない。後ろ向きにも前向き
にも展望がないのだ。そして、われわれの「
存在感」を切り崩すことによって機能してき
たシステムの負の部分だけが、そこに浮かび
上がってくる。彼らにとって、システムは抑
圧でしかないのである。

 (上田紀行著『日本型システムの終焉』)