ライラック2 の山 5 月 2 週 (5)
★今まで機能してきた日本社会の(感)   池新  
 【1】今まで機能してきた日本社会のシステムが、機能不全に陥っている。いやそのシステムが機能していると見えたのはうわべだけで、うまくいっていると見えているうちから内部崩壊はすでに進んでいた。【2】それに気づかなかったのは、そのシステムが表層的に誇示する利得、すなわち右肩上がりの経済成長があまりにも目覚ましく、その「豊かさ」が目くらましの効果を持っていたからだ。
 日本型システムが崩壊させていったのは、一言でいえばわれわれの「存在感」である。【3】われわれはなぜ生きているのか。何を求めているのか。われわれとはそもそも何者か。これだけ「豊か」になったこの社会の中でわれわれはその問いに答えることができない。これだけ豊かになったのに、われわれは存在感の病いに悩んでいる。【4】そしてこれだけ豊かになったのに、われわれはどこかで自分自身が根源的に自由でないと感じている。
 「豊かさ」と「存在感」が、ともに仲良く二人三脚のように進んでいた時代はあった。われわれはかつてほんとうに貧乏だった。ぼくの幼い頃の日本にして、今の日本から比べれば明らかに貧しかった。【5】昭和三十年代生まれのぼくでもそう感じるのだから、第二次世界大戦直接の日本を知っている世代にとっては、その実感はなおさらだろう。(中略)
 その時代において、「豊かさ」を獲得することはわれわれの「存在感」の拡張でもあった。この世界はどんどん良くなる。どんどん豊かになる。【6】そのイメージが時代を支配していた。それはイメージだけではなく、時代の実体そのものだった。だから、われわれはなぜ生きているのか、何を求めているのかと問われたならば、その問いの答えは比較的明確だった。われわれは豊かな明日のために生きている。【7】今日の苦労が明日の豊かさとなって返ってくる。世界はわれわれを裏切らない。必ずわれわれは報われるのだ。われわれは、世界と私の自由な関係の中に生きていた。(中略)
 しかし、その豊かさを手に入れやっと余裕ができたはずなのに、われわれは、今、ため息をつき、暗澹とした気分に陥っている。【8】むしろ立ち止まって、自分自身の姿を鏡に映し出す余裕ができたことが悲劇だ。そこに映し出されている自分自身の像は、あまり豊かそうな顔をしていないのだ。∵
 日本が貧しかった時代を知っている人間はまだ幸福だ。【9】鏡に映し出された頭があまり景気のいいものではなくても、その鏡に映し出された自分の背景に映し込まれた風景は、明らかにあの貧しさとは別物だ。だから、貧しさの風景と現在の風景を比べて、これまで生きてきた年月が、自分自身の人生の軌跡が、まったくの無駄ではなかったことを確認できる。【0】それは過去へのまなざしであり、必ずしも未来への展望を切り開くものではないが、しかしそこでひとまずの安心を得ることができる。「豊かさ」を否定できる者がどこにいよう。その「豊かさ」をわれわれは獲得した。自分の人生は無駄ではなかったのだ。
 しかし、だれもが余生を生きているわけではない。過去へのまなざしだけでは生きられないし、悪いことに平均寿命も延びてしまった。その長い時間をこれからどう生きるのか。その展望がわれわれには欠如している。この社会がこれから経済的により豊かになると信じている者はあまりいない。だいたい地球全体の未来も、必ずしも明るくない。経済的な豊かさを求め、それを目くらましにして今の「存在感」を問うことなく、いやむしろその「存在感」を切り崩すことで機能してきたシステムのツケが、いま日本社会を機能不全に陥(おとしい)れようとしているのである。
 そのシステムの歪みが、いっそう深刻な形で現われているのが、若い世代である。貧しさを知っている世代はまだいい。貧しい「過去」を知らない世代、生まれたときから貧しさを知らず、すでにそこそこ豊かであった若者たちにとって、貧しい過去との対比で自己と世界を肯定する回路は、あらかじめ閉ざされている。後ろ向きの視線で自己を肯定する回路はそもそも存在せず、輝かしい未来のイメージも像を結ばない。後ろ向きにも前向きにも展望がないのだ。そして、われわれの「存在感」を切り崩すことによって機能してきたシステムの負の部分だけが、そこに浮かび上がってくる。彼らにとって、システムは抑圧でしかないのである。

 (上田紀行著『日本型システムの終焉』)