ライラック2 の山 5 月 1 週 (5)
★人間とはなにか(感)   池新  
 【1】人間とはなにか、この僕の問いにヒントを与えてくれたのは哲学者の梅本克己だった。彼の『過渡期の意識』という本の冒頭に次のような短い一節があった。
 「人間そのものが一つの過渡である……」(『過渡期の意識』現代思潮社)
 この世界に、完成した人間などはいない。【2】人はつねに未完成であり、過渡期の人間として生きている。ところが、僕たちは、自分が未完成であり、過渡期の人間だということを、しばしば忘れてしまう。もし自分が過渡期の人間であることを自覚していれば、僕たちは自分の知らないもっと素晴らしいものを探そうとするだろう。【3】そうして世界のなりゆきに感動したり、怒ったり、探していたものを発見したりすることができるだろう。(中略)
 考えてみれば、人間が過渡期の人間でしかないように、社会もまたつねに過渡期の社会なのだと思う。どんな社会であっても未完成なはずだ。【4】とすればいまの自分に満足したり、いまの自分に居直ったり、いまの社会を肯定したり、いまの社会が永遠につづくと思ったりすることはできない。より素晴らしいものを探して、いまの自分のあり方やいまの社会を批判しつづける人間の方が、正しい生き方をしているはずだ。
 【5】ところで人にとっての過渡期とは何なのだろう。楠本はこの本のなかでこういっているのだと思う。本当は人間は自分でも気付いていないような素晴らしい力をもち、もっと素晴らしい生き方ができるはずなのに、いまの社会ではそれができない。【6】それなら本当の人間の力を、本当の人間の生き方を取り戻そうではないか。もちろんそのためには社会も変革しなければいけないし、多くの困難も待ちかまえているだろう。だが人間にはそれだけのことをなしとげる力があるはずだ。【7】つまり梅本克己は、本当の人間の生き方を取り戻していく人間として、現代の人たちは過渡期の人間だといっているのだと思う。
 『過渡期の意識』のなかには、次のような一節もある。「喪失せられたものを取り戻す……」。そう、いまの僕たちはいろいろなも∵のを失っているのだと思う。【8】世界のなりゆきに驚嘆する能力も、本当に感動したり、怒ったり、より素晴らしい生き方を探していろいろなことに挑戦していく精神も、僕たちが小さな俗事にとらわれている間にいつのまにか失ってしまったような気がする。僕たちはそれらを取り戻さなければいけないんだ。
 【9】人間はつねに過渡期の人間であると梅本はいった。しかしこのことを自覚しつづけて生きることは大変なことだと思う。なぜならそれは失ったものを取り戻そうとする行動とともにあるからだ。
 哲学は知識でも学問でもない。【0】過渡期の人間が新しい一歩をふみだそうとする行動のなかにあるのだと思う。
 〈『哲学ノート』五章 終わり〉
 
 「哲学ノート五章」を書き終えた頃、僕は自分が哲学の深みにはまっていくのを感じていた。哲学は知識ではないと痛切に思った。哲学はつねに未来に向かって開かれている。そういってしまえば簡単なのだけれど、哲学はこれからの僕の生き方そのもののようだ。哲学を学ぶということは、自分自身を自己変革していくことだと僕は思った。
 といっても三木清もいっているように、人間は環境のなかの動物だ。自分自身を自己変革するためには、環境、つまり社会を変革していかなければいけないことはしばしばあるだろう。自分を自己変革しながら社会をも変革する、また社会を変革しながら自分をも自己変革する、そうやって美しい人間の生き方と、美しく生きることのできる社会をつくっていこうとするとき、哲学はつくりだされるのだと思った。

 (内山節『哲学の冒険』より)