長文 4.4週
1. 【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
2. 【2】第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の記憶きおくの中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶きおくによって濾過ろかされ、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
3. 森鴎外おうがいの短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。【4】この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼みたの 、薬たな抽斗ひきだしから乾燥かんそうしたサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うい ことが随分ずいぶんある。人ばかりではない。【5】すべての物にある。」といった感慨かんがい綴っつづ た作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外おうがいにおけるサフランのようなものではないでしょうか。
4. 第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げたなあ し、目的を一時保留して行動しなければならないからです。【6】言い換えれい か  ば、現実行動にあたって失敗を避けるさ  には、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振すぶりが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振りふ ます。そのことによって、かれはバッティングという行為こういのプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
5. 【7】私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しく かえ ても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使くしするプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。【8】学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れはな て、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。∵
6. また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。【9】武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回しふ まわ ていれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手こてを打ち、突きつ を入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露りゅうろしてくるところに武術は成立します。【0】型は、行為こういのプロセスを支えてくれるのです。
7. 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐えるた  能力も身に付けることができるのです。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけの短編小説『手巾ハンカチ』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然とたんぜん 客を迎えむか ながら、しかし、机の下では「ひざの上の手巾ハンカチを、両手で裂かさ ないばかりにかたく、握っにぎ ている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女かのじょは「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐えるた  ことができたし、また醜態しゅうたいをさらさずに済んだわけです。
8. 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
9. 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みしず ます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。

10.(山崎正和「文明としての教育」の文章による)