長文集  4月4週  ○私たちにとって、学校教育は  ra2-04-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/18 15:49:21
 【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必
要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの
実生活の経験の積み重ねに任せるのではな 
く、なぜ教育のための特別な場所が必要なの
か。この問いかけに対しては、いくつかの理
由が考えられます。
 【2】第一に、世界はあまりにも広く、私
たちがそのすべてを経験することはできない
からです。しかも、私たちが世界と呼んでい
るものの多くはすでに失われた過去であり、
現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には
存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の
記憶の中にしかないものがほとんどでしょう
。経験は記憶によって濾過され、それと照合
されて、初めて経験として完成されます。
 森鴎外の短編小説『サフラン』に、サフラ
ンをめぐる次のような思い出話が出てきます
。【4】この植物の名は本で早くから知って
いたが、まだ実物を見たことがない。そこで
医師であった父親に頼み、薬棚の抽斗から乾
燥したサフランを出してもらう。「名を聞い
て人を知らぬと云うことが随分ある。人ばか
りではない。【5】すべての物にある。」と
いった感慨を綴った作品ですが、考えてみれ
ば、われわれがいうところの現実とは、半ば
以上、森鴎外におけるサフランのようなもの
ではないでしょうか。
 第二に、私たちが何らかの現実行動をうま
くなしとげるために は、行動をいったん棚
上げし、目的を一時保留して行動しなければ
ならないからです。【6】言い換えれば、現
実行動にあたって失敗を避けるには、まずも
って練習をしなければなりません。野球選手
のバットの素振(すぶ)りが好例でしょう。
飛んで来てもいないボールを相手にバットを
振ります。そのことによって、彼はバッティ
ングという行為のプロセスを意識し、身に付
けようとしているわけです。
 【7】私たちの行動能力は、単純な経験を
いくら繰り返しても、決して高まることはあ
りません。現実行動は練習のうえで初めて成
り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使
するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さ
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なければならないのです。【8】学校という
ものは、その意味で、現実行動からひとまず
離れて、行動のプロセスを教える場といって
もいいでしょう。つまり教室は行動の場では
なくて、練習の場なのです。∵
 また、私たちが行動するためには型を持つ
必要があります。【9】武術一つを取り上げ
ても明らかでしょう。刀をただ振り回してい
れば強くなるというものではありません。面
を打ち、籠手(こて)を打ち、突きを入れる
という型をまず身に付け、それが、まるで無
意識であるかのように流露してくるところに
武術は成立します。【0】型は、行為のプロ
セスを支えてくれるのです。
 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲
しいときにはなりふりかまわず泣きたくなる
ものですが、そこに悲しみ方の型が入ってき
たとき、初めて私たちは悲しみに耐える能力
も身に付けることができるのです。芥川龍之
介の短編小説『手巾(ハンカチ)』に、息子
を亡くしたばかりの婦人が端然と客を迎えな
がら、しかし、机の下では「膝の上の手巾(
ハンカチ)を、両手で裂かないばかりにかた
く、握っている。」という場面があります。
つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっ
きから、全身で泣いていたのである。」とあ
るように、彼女は「息子を亡くした母」とい
う型を、あるいは役をその場で演じることに
よって、身も世もない悲しみに耐えることが
できたし、また醜態をさらさずに済んだわけ
です。
 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が
経験からは直接に学べないからです。
 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地
動説が正しいということを知っています。し
かし、だれ一人として地球が太陽の周りを回
っているのを見た人もいなければ、その動き
を実感した人もいません。日常では、太陽が
朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みま
す。昔の人も現代人もそれを経験上知ってい
ますが、真実はそうではないということを、
知識として身に付けているのが現代人でしょ
う。

(山崎()正和「文明としての教育」の文章
による)