ライラック2 の山 4 月 3 週 (5)
★人間が「物」を造るには(感)   池新  
 【1】人間が「物」を造るには、必ず「手」を使う。手によって物の形を変える。そこに、われわれの役に立つ物ができ上がる。ある場合には、でき上がった物自身を道具としてさらに別の物が造り出される。それがまた道具となる場合さえある。【2】道具が複雑化すれば機械となる。そしてわれわれの手によって直接造り得る物とは比較にならぬほど大きなもの、精巧なものが機械によって容易に造り出されるのである。(中略)
 ところが、物の形を変えて新しい物を造るという仕事には、もう一つの不可欠の要素がある。【3】それは言うまでもなく、物を動かすのに要する「力」である。手の指先の器用さと同時に、腕の筋肉の力が必要であったのである。それぞれの機械になんらかの形で動力が補給されねばならない。それはあるいは蒸気の膨脹する力であり、ガスの爆発の力であり、電気の力であった。【4】しかしながら力自身は本来形のないものである。ただそれが形のある物に伴っているが故に、われわれはこれを制御し得たのである。高所から落ちてきた水自身が運動のエネルギーを持っていたが故に、それを電力に変えることが可能であった。【5】電力そのものもまた、それが「針金」という固体の中を流れる電流という形において初めて人間の手で操り得たのである。空間を伝わる電波はアンテナによって捕らえられて初めて有用となるのである。
 【6】このようにして人間がいろいろな形の力を利用して、さまざまな物を造り出すに当たって、直接相手としているのは、常に固体または固体の連結したものとしての機械であり器具である。しからばそれらを造り出す材料となっている物自身は、一体どこから得たのであるか。
 【7】それはなんらかの形で初めからそこにあったのである。人間のいるといないとにかかわらず、自然物として存在していたのである。物を造るのに必要な動力はどこから出てきたのであろうか。それももちろん、自然が本来持っていた力以外の何物でもない。【8】げんに自然自身がわれわれの存在すると否とにかかわらず、自分自身の中に包蔵する力によって、不断にその姿を変えつつあるのである。山上の土は絶えず雨水によって平地へ運ばれているのである。動物や植物が数限りなくできてはなくなっていくのである。【9】この休止することを知らぬ自然自身は、一体誰が造ったものであるか。造り手の姿はどこにも見えないが、人間との類推によって造物者を∵想像することは勝手である。しかし造物者は人間のように「手」をもって物を造りはしないのである。【0】特別な道具、特別な機械を使うのではないのである。文字通り自然に物の姿が変わり、物ができ上がっていくのである。人間自身の肉体もまた目標の所産として、道具を使わずして造られたものである。肉体の一部であるところの手自身は、けっして固体としての道具ではないのである。
 造物者が手を使わなかったとするならば、そのかわりに使った物は何であったか。人間との類推によって造物者の心を想像することも勝手である。その心はしかし人間よりもはるかに理性的なものである。自然は自分自身の規則を持っている。そしてそれから逸脱したふるまいをすることはけっしてないのである。自然力の発現、自然の姿の変化は、すべて自然が自ら定めた規律に忠実である結果として生まれてきたものである。造物者は他を動かす「手」を持たない、造物者自らの「心」に従って自ら変化していくのである。
 しからば造物者の心は何によって知り得るであろうか。人間の心は果たしてなんらかの仕方でこれと共感し得るのであろうか。これに対して解答を与えるものは「科学」である。科学はげんに自然自身が遵奉しているさまざまな規則を見つけ出しているのである。いかなる方法によってこれを見つけ出したのであるか。あたかも目に見える顔形を通じてその人の心を察し得るがごとく、目に見える自然の姿を通じて造物者の心を察し得たのである。物を造るのに「手」が必要であったのと同じ程度において、物を知るには「目」が必要であった。しかしながら目が単なる肉眼に止まっている間は自然の表層しか見ることができなかった。顕微鏡が発見され、エックス線発生装置が考案され、それによって肉眼が補強されて、初めて自然の本当の心を見抜くことができたのである。ところがそれらはまた、すべて人間の手によって造り出された「機械」であった。ここでも機械が人間と自然とを結ぶほとんど唯一の通路として横たわっているのを見出だすのである。しかしそれはけっして孤立しているのではない。形ある物としての機械の背後には目に見えない自然力があり、物も力も不動の自然法則に従って変化していくものであることを忘れてはならないのである。

 (湯川秀樹『目と手と心』による)