長文集  4月2週  ★私が今コインを(感)  ra2-04-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】私が今コインを投げようとする。そ
のとき裏がでるか表がでるかは半々だ(二分
の一の確率だ)、ということは何を意味して
いるのだろうか。ここで大切なのは、今問題
にしているのはこれから投げるというただ一
回きりの事件についてである、ということで
ある。【2】これから何十回も投げてそのう
ち表と裏が大体半々にでる、というのではな
いのである。次のただ一回きりの投げが問題
なのだ。そこで投げてみる。表がでた。その
ことで裏表のチャンスは半々だと言ったこと
が当たったことになるだろうか。もちろん、
なるまい。【3】このとき、裏のでるチャン
スは一〇分の九だと言ったとして同様である
。それはなお表がでる可能性もある、と言っ
ているのだから。つまり、裏と表がでる可能
性が、ともにあることを言う確率的予言では
、表がでれば裏のでる可能性を示す機会は失
われ、裏がでれは表の可能性は永久に失われ
る。【4】ちょうど、それを受けるも拒むも
私の自由だと言っても、その一方をすれは他
方をする自由を示す道が論理的に失われるの
と同様である。しかも確率的予言はその両立
不可能なニつの可能性を云々するのである。
 【5】要するに、一回きりの事件では前も
ってその確率を云々しても、その予言の当た
り外れを言うことは、意味をなさないのであ
る。確率いくらいくらということが正しかっ
たか誤っていたかを定める方法がないからで
ある。だが、われわれの日常生活で確率を問
題にしたいのは、大抵一回きりの事件の確率
なのである。【6】明日の天気、来月の株価
、次の打者のヒット、来年の地震、次のトラ
ンプのめくり札、商談での相手の次の出方、
山をかけた試験問題の出様といった一回きり
の事件の確率が当たった外れたということが
意味をなさないようなものならば、一体われ
われは何をしているのだろうか。
 【7】数学者は、こう言うかもしれない。
明日晴れる確率が一〇分の八だ、というのは
実は、現在の気象状況に似たケースでは、こ
れまでその一〇分の八が晴れであったという
ことなのだ、と。なるほど、気象庁の予報官
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はその意味で天気予報をしているのだろう。
 【8】しかし、われわれの方で今日問題に
しているのは明日の天気であって過去の気象
ではないのである。明日の天気が晴れる確率
が一〇分の八だと言っているのである。過去
の気象統計はその参考でしかないのである。
【9】自分が後何年生きられるだろうという
とき、過去の日本人の(自分の年齢層の)余
命が平均何年だと聞かされてもそれはあくま
で参考でしかないのと同じである。物理学者
にとっても、ある放射性元素の半減期を知る
ことは個々の原子の放射性崩壊∵については
単なる参考にしかならない。【0】
 では、一回きりの個別的事件の確率を云々
することは何を意味しているのだろう。それ
は無意味であるはずがない。とにかくわれわ
れは「明日は多分雨だろう。」と言うことに
は十分な意味を感じているのだから。私はそ
れは単なる予測の命題ではなく、自分が生き
る上での心構えの表現であると思う。雨かも
しれない、という覚悟をしながら晴れだとし
て生きることに賭ける、という心構えの表現
だと。だから、「明日は八分通り雨だろう。
」と言うことに真偽を云々すべきでもなく、
あれかこれかと言う場合のように当たり外れ
を云々すべきでもない。云々しようにもでき
ないのである。繰り返すことになるが、雨に
なった場合に、「明日は八分通り雨だ。」と
言うことと「明日は七分通り雨だ。」と言う
ことのどちらが偽であるとか外れたとかいう
ことはできないからである。とにかくその二
通りの言い方のどちらもが雨になることはあ
るだろうと言っているのだから。われわれに
言えるのは、その心構えで明日を迎える場合
の生き方のよしあしなのである。八分通りと
七分通りの間になんらかの違いを含ませて言
っている人には、翌日雨か降った場合八分通
りの心構えの方が、よりうまく生きられるの
である。お天気の場合は、その差は普通大き
くはあるまい。しかし、賭博師や株屋、将軍
や病人の明日の状態にとってはその差は大枚
の金や命であがなうことになる差なのである
。(中略)
 人生に賭けるということは単に予測するだ
けのことではない。文字通り自分の生活を賭
けることなのである。単に未来を傍観者風に
予測するのではなく、そのように予測された
未来に立ち向かう心構えをすることなのであ
る。その予測に付せられた確率はその構えの
姿勢の表現であり覚悟の程の表現なのである
。九分通りこうゆくだろうと構えて手術をす
る外科医と、五分五分だと思いながらの外科
医はその構えが違うのである。そしてその手
術の結果がよい時にせよ悪い時にせよ、この
二人の外科医は異なる安堵や異なる弁明をす
るだろう。賭けた人には否応なく賭けの結果
を負う以外にはないのだから。
 (大森荘蔵『流れとよどみ』による)