長文集  4月1週  ○学問は世の役に立つかと  ra2-04-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/18 15:59:03
 【1】学問は世の役に立つかと考えるとき
、よく私が思い浮かべるのは、天動説がくつ
がえされ、地動説が確立されるまでのヨーロ
ッパの学者たちの探究です。地動説の萌芽は
、すでに十四世紀にノルマンディの学者、ニ
コラ・オーレムの書いたものにあったそうで
すが、【2】十六世紀に入って科学的にこれ
を一歩進めたのは、ポーランドのコペルニク
スで、けれどもキリスト教会の取り締まりを
恐れて、七十歳の死の数日前までその論文を
発表しなかったといわれています。【3】そ
してドイツのケプラー、イタリアのガリレイ
などがこの考えを継承してより実証に近づけ
ますが、教会からは弾圧を受け続け、一六一
六年には、教皇パウロ五世は地動説を聖書に
反するという理由で、断罪しています。
 【4】いうまでもなく、太陽が動くか地球
が動くかは、私たちの日常生活にとって、ま
さにどうでもいいことです。今でも人類の圧
倒的大部分は、お日様は東から昇って西へ沈
むと思っており、生活感覚としてそれはまっ
たく正しい。【5】天動説、つまり地球中心
主義をくつがえすために、教会の弾圧に耐え
、ずいぶんお金も使いながら、大勢の学者が
執念深く追究してきたことは、直接にはまっ
たく「世の役に立たない」ことです。
 【6】けれども、地動説が確立されたこと
で、人間の世界に対する認識が根本的に改め
られ、宇宙科学をはじめとする科学や技術が
どれだけ変わったか、その結果、地動説がど
れだけ「人間の役に立っている」かは、改め
ていうまでもないでしょう。
 【7】英語で学者のことをスカラー、学校
のことをスクールというのはご存じの通りで
すが、これはギリシャ語の「スコレー」「閑
(ひま)」という言葉に由来しています。つ
まり、学者というのは元来「閑人」であり、
学問は「閑人」のすることなのです。
 【8】小学校の就学率が一〇パーセントに
も満たない、私が住み込み調査をしていた頃
の西アフリカ内陸社会の村では、家族にとっ
て大事な労働力である子どもが、畑仕事の手
伝いもしないで、毎日朝から夕方まで学校に
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行っているなどというのは、とんでもないこ
とで、学校はまさに「スコレー」の場なのだ
ということがよく分かりました。【9】学校
で教わることも、村の生活にとってすぐの役
には立たない、公用語のフランス語の読み書
きとか、それを使って習う、∵算数とか、歴
史とか、地理です。日本でも、多くの人々の
生活が貧しかった頃には、事情は同じでした
。【0】それなら、家の仕事を手伝わずに「
スコレー」の場である学校で、すぐ役に立た
ないことを勉強するのは無意味かといえば、
決してそうではなく、そのことを理解して、
家が貧しくても無理をして子どもを学校に行
かせた親は、日本にもいたわけですし、アフ
リカの村にだっているのです。
 それに、何の腹の足しにもならない知的好
奇心を満たすという、まさに「スコレー」と
結びついた人間の営みは、「ヒトという、こ
の不思議な生物」の、ヒト筋縄では片づかな
い本質をなすもので、それはアフリカの村の
、生活に恵まれない人々にとっても同じで 
す。
 ただ、だからといって、役に立たないこと
に甘んじていて良いとは、私はまったく考え
ません。たとえ役に立ち方が迂遠だといって
も、学者が現実の社会にいま起こっているこ
とに常に生き生きとした関心をもち、人々が
求めていることに共感するのは、現地調査に
よる体験知を重要な拠り所とする人類学者に
とって、不可欠のことです。とくに、人間社
会の草の根に生きる人々と共感をもった交わ
りをもつこと、そのことを通して、たとえそ
れが極めて長い迂回であっても、究極には役
に立つことにつながる学問を、私たちはする
ことができるのだと思います。

(川田順造「人類の地平から」より)