a 長文 10.1週 nu2
 英語の「コンピュータ」を無理矢理日本語にすると、「電子計算機」ということになるだろう。しかし今どき「コンピュータ」で単純たんじゅんな計算だけしている人はあまりない。「コンピュータ」とは、計算はもちろんのこと、さまざまな情報じょうほうを入れたり出したり保存ほぞんしたり整理したりするものだ。フランス語の造語ぞうごである「ordinateurオーディナトゥール」とは、英語の「orderオーダー」と同じく、「命令、指図する」とか「順序じゅんじょ、順番」「整理、整頓せいとん」「注文」といったような意味合いになる。これこそ「コンピュータ」を意味する言葉として最適さいてきではないか。その証拠しょうこにスペインでも英語の「コンピュータ」という単語は使わず、フランスの「オーディナトゥール」に綴りつづ の「ordenadorオルデナドール」という単語を使っている。
 このように、現代げんだいの日本でも、英語をそのまま安易あんいにカタカナ語にして使用するのではなく、ちゃんと意味が分かるような日本独自どくじ造語ぞうごを作ればいいのだ。そして外国語の仕入れ先として、米国だけに頼ったよ てしまっていては駄目だめだ。世界中の言葉を見回して、単語の意味を吟味ぎんみする。その中で、一番よいと思われる外国語を参考にして日本語の造語ぞうごを作るようにしなければならない。
 過去かこ遡れさかのぼ ば、日本でも明治維新めいじいしんころには外国語に対する日本語の造語ぞうごが数多く作られていたのだ。
 政治せいじでも経済けいざいでも学問でも、世界から遅れおく をとっていた日本は、国際こくさい化に向けてさまざまな努力をした。その一環いっかんとして、まずは外国語を日本語に変換へんかんする作業を始めたのだ。考えに考えて、日本ならではの言葉を作った。その良い例が「経済けいざい」や「経営けいえい」などといった単語だ。これらは日本で作られた単語だが、今では漢字の本場である中国にぎゃく輸入ゆにゅうされ、中国でも普通ふつうに使われるようになった。ぼく専門せんもん分野である数学に関する中国での専門せんもん用語も、日本人が考えて作ったものが多いのである。
 こうしてざっと調べるだけでも、明治時代には最先端さいせんたん技術ぎじゅつ
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科学、医学などが輸入ゆにゅうされると同時に、それに伴うともな 日本語の考案にも尽力じんりょくしていたということが分かる。それらの言葉は、決して安易あんいなカタカナ語のようなものではなかった。だからこそ、当時日本で作られた言葉の大多数が、今の中国でも使われるほどになったのだ。
 ところがその後、言葉を作る努力を怠りおこた 、ついには完全に放棄ほうきしてしまった。ぼくが思うには、それは戦前のころからだろう。医学の世界ではドイツ語を使うために、医者は「カルテ」や「メス」などという言葉を使うようになった。それが、医学界だけではなく広く一般いっぱんに流通し、やがてカタカナ語として定着してしまったのだ。
 これだけカタカナ語が氾濫はんらんしている現代げんだいだからこそ、明治維新めいじいしんころの日本に戻りもど 、日本語の大掃除そうじをすれば面白いと思う。今のカタカナ語の半分でも日本語に作り直す。定義ていぎ作業に関しては多くの専門せんもん家などに意見を聞き、造語ぞうご候補こうほをいくつも出してもらう。その大本として、国語審議しんぎ会が大いに働けばよいのである。
 日本人の固有の発想で新しく言葉を作る。これはとても素晴らしいすば   ことだと思うのだが、皆さんみな  はどう思われるだろうか。

 (ピーター フランクル『美しくて面白い日本語』(宝島社たからじましゃ)より)
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a 長文 10.2週 nu2
 そのつもりになって神経しんけいを集中、注意すれば、われわれの能力のうりょく大幅おおはばにアップする。たとえば、騒音そうおんのひどい電車の中で会話をしている二人がいるとする。聞きづらいにしても、なんとか互いにたが  言っていることがわかる。ところがこれをテープレコーダーで録音して聞いてみると、全体が雑音ざつおんでぬりつぶされてしまい、なにを言っているのか、まるでわからない。
 機械は正直に音をとらえているのだが、それではわからない声を話している当人たちは聞きとっている。必要な音だけを選んで、不必要な音をすてて聞きとっていることがわかる。機械はただ聞いているにすぎないが、人間は注意して、大事な音だけをとらえるからこういう違いちが が出る。同じ人間でも、当人ではなく、そばで立ち聞きしている人には、テープレコーダーほどではないにしても、聞きとれないところがずいぶんあるにちがいない。
 こどもが重い病気にかかって、その母親がつきっきりで看病かんびょうしている。連日の寝不足ねぶそくで、母親は、ときどきまどろむ。そんなとき、台所でものが落ちて大きな音がしても、母親の目は覚めることはない。ところが、目の前の病児が、なにか小さな声でうわごとのようなことでも言うと、母親はハッとわれにかえり子供こどもの顔をのぞく。
 看病かんびょうする母親にとって、台所の物音など問題ではないから、いくら大きな音がしても、目を覚ましたりはしない。それが気にかけているこどもだと、ほんの小さな声でも聞きもらすことがない。心を向けているところにはたいへん鋭敏えいびん神経しんけいがはたらくのである。
 「気をつけ」という号令をかける。これは、注意力を集中させ、力を発揮はっきするようにということである。体操たいそうなどでは「気をつけ」によって、もっている能力のうりょくを高めることができる。ぼんやり、注意散漫さんまんにしていては、なにもできない。
 スポーツですばらしい力をだすのは、集中しているからである。集中が持続できなくて、崩れるくず  と、それまででは考えられないようなミスが出たりして、試合ならたちまち負けてしまう。スポーツで勝つには、何としても、始終集中を維持いじする必要があるのであ
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る。スポーツの選手はこのことを経験けいけんでよく知っている。集中できないで、強くなったり、試合に勝つことはできない。
 勉強のよくできる生徒が、スポーツでも優秀ゆうしゅう成績せいせきをおさめることがあるのは、勉強を通じて体得した集中力をスポーツでも発揮はっきするからである。逆にぎゃく また、スポーツで養った集中力を勉強に生かせば短い時間で効率こうりつのよい学習ができる。文武両道ぶんぶりょうどうといわれるのは、こうした集中力を頭の活動にも、体の活動にも、うまく使っているケースのことである。
 ところで、この集中力を持続するのはなかなか容易よういなことではない。それが可能かのうになるには、訓練が必要である。
 「陸上競技きょうぎの四百メートル走で、全部を短距離たんきょりのように疾走しっそうすることは難しいむずか  。それで四百メートルは中距離ちゅうきょりということになっていた。かつてソ連で、これを短距離たんきょりなみに、始めから終わりまで全力を出し切って走る方法を考案、実地に試みて成功した。その結果、四百メートルは短距離たんきょりなみに走ることができるようになったのである。
 どうして、それが可能かのうになったのか。まず四百メートルを百メートルずつ四つに区分し、それぞれを十メートルと九十メートルに分ける。そして十メートルを全力疾走しっそう、九十メートルは力を抜いぬ て走る。これを四回くりかえすと、四百メートルになる。それに慣れな たら、二十メートルと八十メートルにして、同じく全力疾走しっそうと力を抜いぬ た走り方をする。次は、三十メートルと七十メートル、さらに四十メートルと六十メートルにし、やがて全力疾走しっそう九十メートル、流す走り十メートルにし、ついには九十九メートル、百メートルの全力疾走しっそうにこぎつける。こうすれば四百メートルすべてが、短距離たんきょりと同じような走り方ができるようになる。すこしずつ集中持続をのばしていく方法である。」
 勉強における集中持続もたような具合にのばすことができる。
 大体、三十分くらいの集中継続けいぞくなら、一カ月もすればできるようになるであろう。よくを言えば、もうすこしのばして一時間くらいに
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長文 10.2週 nu2のつづき
したい。それができるようになればしめたものである。
 集中しているかどうかは、メトロノームのような音を出すものをそばにおいてしらべる。その音が気になるようなら、注意が集中してない証拠しょうこである。没頭ぼっとう夢中むちゅうになれば雑音ざつおんなど気にならなくなる。
 勉強はどれくらい長い時間、つくえに向かっているかではなく、どれだけ集中しているかによって成果がきまってくる。だらだらした長時間勉強など、そもそも勉強の中に入らない、と言ってもよいくらいである。

外山滋比古とやましげひこ「ちょっとした勉強のコツ」より)
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a 長文 10.3週 nu2
 中学生の悩みなや で、一番多いのは友人についてだという。ぼくなんか、それを聞くと、青春をなつかしんで、うらやましくなってしまう。
 心がすっかり通じあった、なんでも語りあえる友、というのはいいものだ。だれもいっとき、それを夢みるゆめ  
 しかし、本当のところは、そんなものはないと思う。
 心が本当に通じあったら、気味が悪い。人間と人間とは、どんなに通じあっているようでも、いくらかはすれ違う  ちが それが、他人の間の自分というものだ。他人とは、自分と違うちが 心を持ち、自分と微妙びみょうに心がすれ違う  ちが ので、自分にとって意味を持つ。
 そうしたすれ違い  ちが から、人間と人間のドラマが生まれる。そうしたすれ違い  ちが から、新しい発想が生まれ、議論ぎろん創造そうぞうへと発展はってんする。だれひとりとして同じ心を持たない、この人間たちの意味はそこにある。
 また、なんでも話しあえる、というのもうそだろう。うそでないとしても、そんなになんでも話してしまっては、自分がなくなってしまう。自分だけのために、なにがしかは心の底にとっておくものだ。それが自分の心の重荷になろうとも、それを支えるささ  のが、自分というものである。
 こうしたことを無視むしして、友人と考えていては、裏切らうらぎ れて当然だと思う。それに、あんまりベッタリした友人関係は、長持ちしないものだ。
  (中略ちゅうりゃく
 本来は、友人というのは、それぞれに自分の心をとっておきながら、ふれあいのなかでいたわりあうものだろう。それは、完全には重ならず、完全には通じあわぬ、断念だんねんの上で成立する。
 しかし、きみたちにしても、そんなことは、無自覚にしろ、承知しょうちの上のことかもしれぬ。自分と他人がそれぞれに確立かくりつしたうえでおたがいに関係をとり結ぶこと、そうしたことへの一種のおそれが、友人についてのゆめを持たしているのかもしれぬ。
 それは、ぼくにも多少はおぼえがある。自分が他人と違うちが 自分になっていくこと、他人を自分と違うちが 人格じんかく意識いしきしていくこと、そ
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うした過程かていの反動として、自分と一体化した他人として、友という幻影げんえいを求める。それが、青春の一時期であるにしても、そうした幻影げんえいを持てればしあわせである。
 ただし、幻影げんえいはやはり幻影げんえいである。そして、友人が持てないというのは、幻影げんえいが持てないというだけのことで、友人ができないと悩むなや ほどのこともあるまい。
 そしてやがて、自分とは違っちが た心を持った他人との、友人関係が作られていくと思う。そのとき、きみはだれでもないきみ自身の心を持ち、そして友人もまたかれ自身の心を持つことを、たがいに認めみと あうだろう。かれは、きみと違っちが ていて、心がすれ違う  ちが からこそ、友人となる。
 自分とた人間を求めて、友人を作るというのを、ぼくはあまりすすめない。たしかに、自分とているだけに、つきあいやすい。しかし、あきやすかったり、はなにつきやすいのも、自分とた相手だ。
 なるべくなら、どんなグループにあっても、そしてそのグループの人間が自分とていなくても、そのなかでこそ、友人ができたほうがよい。そこで、自分にた相手を探しさが ても、見つからないだろう。
 自分と性格せいかく違いちが 、自分とものの考え方の違うちが 相手のほうが、友人としてはおもしろい。違うちが 考えをしたり、意見がくい違うちが からこそ、関係をとり結ぶ意味があるのだ。た相手より、ない相手を探しさが てみたらどうだろう。それなら、友人になれる相手は、いくらでもいる。
 たもの同士が群れむ あうのは、ぼくはむしろつまらなく思う。違和感いわかんを持つグループのなかでこそ、友は必要なのだ。
 それは、自分の人格じんかく確立かくりつし他人の人格じんかく認めるみと  ようになることでもある。自分と違っちが た心を持った他人の価値かちを知ることである。他人の心を大事にできるためには、自分の心を大事にできなければ
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長文 10.3週 nu2のつづき
ならないが、そうしたなかで友は作れる。
 でも、青春、自分が確立かくりつしていくなかで、友を求めて悩むなや のは自然なことだ。そうした悩みなや は、青春にはあってよいと思う。少なくとも、友ができないと断念だんねんして、自分のからにこもったりはしないことだ。求めることなく、にこもったりしていては、その自分が作られることもない。自分というものは、こうした過程かていを通じてだけ作られるもので、自分のからのなかで自分を作るわけにはいかない。人間というものは、さなぎの中にあってちょうになるものではない。

(森つよし「まちがったっていいじゃないか」より)
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a 長文 10.4週 nu2
 音楽に限らかぎ ず文化というものは、共有財産ざいさんとしてみなが自由に使える形で常につね 身の回りにあってこそ発展はってんするという面をもつ。モーツァルトの音楽を聴くき と牛のちちの出が良くなるとか、良い子が育つというような話が本当かどうかはともかくとして、音楽がコンサートの場だけでなく、様々な社会的局面で人間を育み、文化を涵養かんようしてゆく機能きのうを果たすことを考えれば、それらが自由に使えるということは重要なことである。少なくとも、モーツァルトの音楽を使うたびに著作ちょさくけん料を取られていたのでは、そのような文化の広がりが望めないばかりか、音楽の創作そうさく活動自体も窒息ちっそくしてしまうだろう。
 アフリカ諸国しょこくなどでは、自国の音楽文化が西洋の音楽家にリソースとして勝手に使われることに対抗たいこうし、西洋の著作ちょさくけんの考え方を導入どうにゅうしたことがかえって地元の人々の音楽活動を抑制よくせいする結果になってしまったりもしたようだ。それらの地域ちいきには、みなが共通に使えるメロディなどの素材そざいを共有財産ざいさんとしてストックし、使い回すことによって新しい音楽づくりをしてゆく文化があった。西洋の搾取さくしゅをおそれるあまり、彼らかれ 日常にちじょうそのものが変質へんしつし、窒息ちっそくさせられてしまったのである。
 アフリカだけの問題ではない。西洋の近代文化は、作者個人こじん独創どくそうせいをことさら重視じゅうしする文化には違いちが ないが、それが「文化」である限りかぎ 、その独創どくそうせいは決して作者一人のものではありえない。バッハやモーツァルトなど、多くの先達たちの残した「遺産いさん」に取り囲まれ、それらを模倣もほうしたり換骨奪胎かんこつだったいしたりして摂取せっしゅする一方で、それらと対峙たいじしのりこえることを通して、音楽文化は育まれてきた。
 保護ほご」して勝手に使わせないようにするだけでは文化は育たない。それらを共有財産ざいさんとしてみなで分かち合い、余すあま ところなく使い回すための公共の場が確保かくほされていることは、文化を生み出す土壌どじょうには不可欠ふかけつなのである。著作ちょさく物の保護ほご年限ねんげんがどんどん延ばさの  
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れてゆく今日の風潮ふうちょうの中で、著者ちょしゃの「権利けんり」に目を奪わうば れるあまり、文化のそういう側面が忘れわす られてはいまいか。
 個人こじん情報じょうほう保護ほごもそうだが、文化は社会全体で育ててゆくものだという視点してんを失い、個人こじん権利けんりだけが暴走ぼうそうするのはこわいことだ。著作ちょさくけんという考え方自体、決して一枚岩いちまいいわ的に成立したわけではなく、芸術げいじゅつの社会的位置や文化産業のあり方の変化の中で、西洋社会がみなで工夫を加えながら育んできたものだ。西洋社会がこのような考え方をなぜ必要とするにいたったか、それが日本の社会に何をもたらし、何を失わせたのか、そういうことをあらためて認識にんしきしなおすことが今求められている。

 (渡辺わたなべひろし『考える耳』(春秋社))
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a 長文 11.1週 nu2
 粗大そだいゴミのゴミ捨てす 場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい捨てす てある。それは環境かんきょう汚染おせんするわけです。そんなことならばもうちょっと高くても品質ひんしつのいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども捨てす なくていい。そうすればゴミ捨てす 場もそれだけよけいな負担ふたん背負わせお ずにすむわけです。けれども、日本人は使っては捨てす 、使っては捨てす という生活に疑問ぎもんを持っていません。
 何年も寸法すんぽうひとつ狂わくる ずに、引き出しもとびらもピッタリとしている家具への愛着は、毎日の暮らしく  、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に耐えるた  ものをつくった人の腕前うでまえに対する尊敬そんけいでもあるわけです。
 たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブク(あわ)のように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、尊敬そんけいされているでしょう。いつまでも本棚ほんだなに置いておきたいと思うでしょう。そこから得たものは、それぞれの人格じんかくの中に深くはいりこんで、読者の人間を豊かゆた にしたでしょう。すぐに忘れ去るわす さ 一過いっかせいのよみものとは、違うちが ものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
 一方で使い捨てつか す の安物を買っていると思えば、他方では五万円もするような化粧けしょう品のクリームも売れている。その原価げんかは五分の一以下と言われているのに、独占どくせんによるチェーンストアヘの支配しはいが強くて、ほんとうの市場価格かかくまで下がりません。公正取引委員会が外圧がいあつ(外部の力)によって、やっと重いこしを上げ、最近、一、二の小売店で値崩れねくず を起こしています。わたしたちはまぼろしに対しておカネを払っはら ていたのです。
 家の中には、だれ弾かひ ないピアノやオルガンもあれば、テレビもあります。ビデオデッキも、CDプレイヤーもあります。地震じしんがあれば押しつぶさお    れるのはあたりまえだというくらい、いろいろな
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ものが置いてある。ほんとうの安全には手抜きてぬ をした家の中に、そして安全を手抜きてぬ した町づくりの中に、変なぜいたくがあるのです。こういう豊かゆた さはおかしいのではないかとおもいます。
 では、ほんとうの豊かゆた さ、なんとなく豊かゆた な気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の酋長しゅうちょうが書いた本です。その中で、こういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ。ひとつに統一とういつされた満足感が必要だ。そういう生活が、人間として幸せで豊かゆた な生活なんだと言っている。
 頭だけあるいは手だけを酷使こくしして、ほかのところを顧みかえり ないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつになって幸せになることが豊かゆた なのだと言っているのです。一部分だけが満足している状態じょうたいは、病気だと言っているのです。
 同じことは教育の中にもあります。教育は全人格じんかく発展はってん、人間としての成長を促すうなが ものですが、現在げんざい、日本の教育は偏差へんさの点をとる教育になっています。だから人間の子として楽しくないのです。
 また、日本は労働時間が非常ひじょうに長い。残業をすれば手当てももらえます。お金だけ、あるいは企業きぎょうの中で出世することだけを考えれば、頭と職業しょくぎょうに必要な手、目だけを働かせて「職業しょくぎょうバカ」になることもできる。それが日本では大変いいことだと考えられている。あの人は会社のためにつまも子も忘れわす 、一身を捧げささ て、ただただ会社のために尽くしつ  てきた。企業きぎょうにとってはいい社員であるのですが、そういうのは豊かゆた ではないと『パパラギ』は言っている。
 つまり、会社人間はある専門せんもん的なことについてはベテランになっ
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長文 11.1週 nu2のつづき
ていくし、お金も儲けるもう  かもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一さつも読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、地域ちいき社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく豊かゆた ではありません。それは人間としての生活ではないからです。

暉峻淑子てるおかいつこ「ほんとうの豊かゆた さとは」より)
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a 長文 11.2週 nu2
 すぎの木は樹幹じゅかんがまっすぐで、気持ちがいい。見ているだけで、わたしの心はいつもすがすがしくなる。枝打ちえだう 間伐かんばつなど、手入れをする人の労苦も尊いとうと 
 黒々とした大地に深く根を張りは 、大空高くへと曲がりもくねりもせずに伸びの ているみきたてにすじの入った褐色かっしょくはだに目を当てると、自然に上へ上へとひきあげられていく。もっこりと茂るしげ 緑は、松や落葉松からまつよりずっとあつ味があって目を包んで休ませてくれ、さらにはるかに高いこずえは、さわやかな風を呼んよ でいる。若いわか すぎの木のこずえは、先のとがった円錐えんすい形だが、風雪に耐えた て何百年も生きてきた老大木のこずえはもうとがってはおらず、樹冠じゅかんがおだやかにまあるくなっている。それは威厳いげんのある古老がふと洩らすも  微笑びしょうのようだ。
 樹幹じゅかんはだの色がいい。幅広くはばひろ たてにすうっとはがすことのできる樹皮じゅひは、引っ張っひ ぱ てみると実に強くて丈夫じょうぶだから、古来、屋根をいたり、垣根かきね張っは たりした。鋭いするど 樹脂じゅし香りかお も、むねの底まで清めてくれるような感じがする。ひのきほどの香気こうきではないけれども、すぎ香りかお 庶民しょみん的でいい。
 ちょうどドイツ人や北欧ほくおうの人びとにとって、もみの木が宗教しゅうきょう的なほどに大切で親しいものであるように、わたしたち日本人の生活にすぎの木は切っても切れぬえんがある。何よりも木の形が美しい。木材としての利用価値かちが高い。日本各地でよく育つ。日本の樹木じゅもくのなかでいちばんが高くなり、ものによっては五十メートルにもなるし、いちばん長生きする木でもある。鹿児島かごしま屋久島やくしまの「屋久やくすぎ」には、樹齢じゅれい二千〜六千年と推定すいていされるものが何本もある。だから京都をはじめ全国の神社やお寺の境内けいだいには、必ずといっていいほどめでたいすぎの木が大事に植えられている。
 わが国はどこに行ってもすぎの木がある。かつては生えていなか
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った北海道の札幌さっぽろあたりにも杉林すぎばやしがある。日本の造林ぞうりん面積の半分近くはすぎの木だそうで、ひのきや松や落葉松からまつなどよりも、はるかに多い。丸太のままでも板にしても、建材・土木材として、あるいは酒樽さかだる経木きょうぎ割り箸わ ばしなどの生活用材としても何しろ利用範囲はんいが広い。単位面積当たりの生産量が非常ひじょうに大きく、育てるのもかなりやさしい。日本のように温帯で降水こうすい量の多いところが最適さいてき地なのだ。すぎは、日本の、日本らしい木である。
 ただ、戦後のわが国では、何よりも経済けいざい効率こうりつを考えなくてはならなくなって、木ではないと言われたブナ(ブナは漢字で木へんに無と書く)の木を、ブナ退治たいじ称ししょう 片端かたはしから切り倒しき たお て、全国にすぎの木を植えた。森はいますぎ花粉でその仕返しをしているらしい。
 かつてすぎは日本に固有の、日本にしかない木だと言われた。たしかに中国にいま植わっているすぎは日本からなえや実を持っていって植えたものが多い。しかし四川省などには、葉の形などが少しちがうすぎの一種が自生しているという。いずれにしても、針葉しんようがまるで小さなかまのような形をしていて、えだと葉のつながりぐあいがはっきりしていない日本すぎは、問題なく日本固有であるらしい。
 江戸えど時代にケンペルがドイツへ、シーボルトがオランダへ、すぎを持っていったけれども、年間平均へいきん気温が低いうえ、降水こうすい量が日本の半分から三分の一しかないヨーロッパでは、ついに育たなかった。だから銀杏いちょう移植いしょくできたヨーロッパにすぎの木はない。代わりに寒さや乾燥かんそうに強いもみやトウヒがよく育っている。ただし日本のすぎは五十年で成木になるが、ドイツのもみは百五十年かかる。彼らかれ が歴史を長いスパンで考えるのは、そういった自然条件じょうけんのせいだろう。日本各地の美しい杉林すぎばやしは、秋田、吉野よしの、高知、立山、天竜てんりゅう久万くまなど林業者の労苦の結実だが、日光その他の古い並木道なみきみち忘れわす がたい。各地の山々の尾根おねすじには松が多いが、山の下の水気の多いところにはすぎがよく育つ。
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長文 11.2週 nu2のつづき

 わたしまぶたのうらにいつも浮かぶう  のは、長野市の西方、戸隠山とがくしやま怪奇かいきな岩かべの真下、戸隠とがくし奥社おくしゃへの参道の老杉並すぎなみ木だ。文字通り天をつかんばかりの堂々たる一本一本が何か神々しくもおごそかなたたずまいである。それでいて、そのはだに手を当てると、真冬でもなんとなくあたたかい。あの参道の巨木きょぼくのほとんどすべてに、若いわか 日のわたしは手を当てて歩いた。近くまた行こうと思う。

(小塩節「木々を渡るわた 風」より)
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a 長文 11.3週 nu2
 わたしのところに、父親のすすめる学校に行くのはいやだから家出したいとか、高校のむすめ化粧けしょうのことで注意したら、ろくに口もきかなくなったというような手紙がきている。こんな状態じょうたいを、世では親子の断絶だんぜつというのだろう。
 なぜ、このような断絶だんぜつがくるのか。断絶だんぜつなどという言葉をつかうと、事は深刻しんこくに見えてくる。だが、ありきたりの言葉でいえばお互い たが の「わがまま」なのだ。わたしは以上の話をきいて要するに「わがまま」な話だと思った。
 「わがまま」というのは、身近なものの間にほど現れるあらわ  現象げんしょうである。他人同士だと、相手の話をよく聞こうとする姿勢しせいがあり、相手の身になって、相手を傷つけきず  ないようにと心を配るが、親子や、兄弟、夫婦ふうふなどには、つい「わがまま」が出てしまう。
 「わがまま」とは、何か。われのまま、われの思うままにふるまうこと、つまり、自己じこ中心的にふるまうことだ。この世のいざこざは、この自己じこ中心が原因げんいんなのだ。
 受容じゅよう」という言葉がある。受け入れるという意味だが、断絶だんぜつ、わがままは、相手を受け入れない姿勢しせいなのだ。
 親子にしろ、夫婦ふうふにしろ、毎日生活して、同じ家に、同じ食べ物を食べて生きていると、つい相手を自分と同一の人間であるかのように錯覚さっかくしてしまう。特に親は子どもを、自分の血肉けつにくをわけた者として、文字通り自分の分身だと思いこんでいる。
 何の問題もない時は、自分に顔がていたり、同じ食べ物が好きだったり、性格せいかくだったりする相手は、たしかに分身に思われ、一体感を感じさせる好ましい存在そんざいなのだ。
 だから、一朝、恋愛れんあい問題や進学問題など、どうしてもはっきりとした態度たいどを取らねばならぬ事態じたいに直面し、意見が異なること  と、たちまち、お互い たが 態度たいど硬化こうかする。受容じゅよう精神せいしんが欠けているのだ。だから、相手を絶対ぜったいに受け入れない。「あんな女のどこがいい」
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断じてだん  、この学校にはいる」「こんな話のわからぬ親はごめんだ」「親のいうことをきかぬわがまま者」とお互い たが にゆずらぬことになる。
 わたしたち人間には、教養、性格せいかくにかかわりなく、自分と同じ考え、同じ思想になれないものはイカンという、ぬきがたい感情かんじょうがある。相手が自分と同じ考え方をしないと憎むにく 、というこの感情かんじょうは親子の場合も同じであろう。
 これは、なぜか。一人一人は、顔のちがうようにまったくちがった人格じんかくの持ち主だというこの簡単かんたんな事実を認めみと ないからである。相手は自分ではないという自明のことがわかっていないからである。
 さらにいえば、相手から見れば、自分もまたちがった人間であるということ、その自分を認めみと てほしいように、相手も認めみと てほしいのだということがわからないということなのだ。つまり、この世の一人一人はみんなちがった思想や考えを持って生きていることを、認めみと たくないということなのだ。
 というのは、みんな自分と同じ顔でないのはけしからん、といっているわからずやのようなものなのである。
 では、なぜ、相手が自分と同じ考えの人間でなければならないのか。なぜ、わたしたちは、他の人を認めみと ないのか。よく考えてみよう。それは、自分は絶対ぜったい正しい人間だ、自分は最もよい人間だという考えを、無意識むいしきのうちに心の奥深くおくふか に根強く持っているからだ。そんなに、わたしたちは「正しい」だろうか、「よい人間」だろうか。いなである。
 が、この世の憲法けんぽうは自分なのだ。カンニングした時に、となりの友だちがカンニングしないとそれは、いやなやつなのだ。
 わたしたちにとって、話のわかる人間というのは、自分と同じ考えを持つ人間、自分のいうことを聞く人間なのだ。この世のすべての人が、自分と同じ考えになったら、どんなことになるか。
 それは頭を冷やして考えてみたら、すぐわかることだ。「それほど自分は正しいのか」、自分という人間をよくむねに手を当てて考え
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長文 11.3週 nu2のつづき
てみたら、わたしたちは、親子でも、きょうだいでも、夫婦ふうふでも、友人でも、自分の考えを相手に押しつけお   たり、激しくはげ  拒否きょひしたりすることはなくなるはずなのだ。
 この自分の存在そんざい認めみと られたいのなら、他の存在そんざいをも認めみと 受容じゅようして生きていかねばならない。車でも、相手を認めみと ずに突進とっしんしたらどうなるか、大ケガや死を招くまね だけである。

三浦みうら綾子あやこ「あさっての風」より)
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a 長文 11.4週 nu2
 「意地」という日本語は、広い意味ではこころをさすが、こころのなかでも、自分の思ったことをやり通そうとする気持ちをあらわしているようである。したがって、意地は意志いしといってもよかろう。
 ところが、そのような意志いしを、どういうわけか日本人はあまりこころよく思っていなかったようである。その証拠しょうこに、意地という言葉はけっしていい意味に使われていない。「意地が悪い」とはいうが、「意地がいい」とはいわないし、「意地がきたない」とはいっても、「意地がきれい」とは使わない。「意地になる」というのは、わざと人にさからうことだし、「意地を張るは 」ような人間はけっして好まれない。こう見てくると、日本人は意地を持てあましているとさえいえそうである。それはなぜなのであろうか。
中略ちゅうりゃく
 では、「意地」と「意志いし」とはどのようにちがうのか。「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑こうじえん』)という意味においては、たしかに「意地」は「意志いし」と同義どうぎのように思えるが、たとえば「男の意地」「女の意地」「武士ぶしの意地」などというときの意地は、けっして意志いしと同じではない。こころみに「男の意地が立たない」といった表現ひょうげんを「男の意志いしが立たない」といいかえてみれば、それがよくわかる。「意志いしが立たない」などという言葉はあまりきいたことがないが、あえてそれを解釈かいしゃくすれば、「こころざしが立たぬ」、つまり、だらしがないということになるのだろう。「男の意地が立たぬ」というのを、「オレはそんなだらしない男ではない」の意と解するかい  こともできようが、「意地が立たぬ」は、もっとべつのニュアンスを持っているように思われる。だから、これは外国語には絶対ぜったい翻訳ほんやくできない日本的な感情かんじょう表現ひょうげんというしかない。
 では、そのような「意地」とは何なのか。それにはやはり、「意志いし」と比較ひかくして考えてみるのがいちばんである。
 まず第一に気付くのは、「個人こじん意志いし」とはいうけれども、「個人こじんの意地」とはいわないということだ。また、「男の意地」とは
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いうが、それを「男の意志いし」とするとおかしなことになる。ここから、「意志いし」というものが、あくまで個人こじんのものであるのに対して――むろん、みんなの意志いしということもあるが、その場合でもそれは個人こじん意志いしの集まりであって、意志いしの原点はあくまで個人こじんにある――「意地」とは集団しゅうだんに共通したある種の表象、個人こじん意志いしから独立どくりつしたいわば「公認こうにんされた意志いし」であることに気付く。つまり、「男の意地」というのは、男ならばとうぜん持たねばならぬ気構えきがま のことであり、それはけっして個人こじん的なものではなく、あくまで社会、あるいは特定の集団しゅうだんに課せられているある種の規範きはんなのである。
 だとすれば、「意志いし」と「意地」のちがいは、意志いし個人こじん的なものであるが、意地は社会的・集団しゅうだん的なものである。だからこそ、「男の意地」「女の意地」「武士ぶしの意地」「ヤクザの意地」「若者わかものの意地」というふうに、意地はすべて集団しゅうだん帰属きぞくするのだ。その「意地」を「意志いし」という言葉におきかえると、まったく意味をなさないのは、意志いしはあくまで個人こじん個人こじんのものだからにほかならない。
 (中略ちゅうりゃく
 共通のイメージに自分を合わせる、らしくあろうとする――いずれにしても、それはほねの折れることにちがいない。だから「意地を通す」ことは窮屈きゅうくつになる。『草枕くさまくら』の主人公は、そのように自分の「意志いし」からではなく、世間的な共通のイメージに合わせて「意地」を張るは のがホトホトいやになって、「非人情ひにんじょう」の天地を求め、山の中へ入って行った。かれは「意地」を通すかわりに、自分の「意志いし」をつらぬいたのである。

 (森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』(新潮しんちょう文庫)より)
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a 長文 12.1週 nu2
 馬耳東風、ということばがある。
 他人のことばや意見などを心に留めと ないできき流すことを言う。馬の耳に念仏ねんぶつ。こういう人間には何を言ってもしかたがない。われわれはたいていのことをきき流しにしている。大事なことでも、左の耳から入ったらそのまま右の耳から出て行ってしまう。とくに馬耳東風をきめこんでいるのではなくても、耳は馬の耳である。そして、馬はそのことをご承知しょうちないから、のんきなものだ。
 学会などの研究発表では、たいていあとに質問しつもんの時間がある。かつては、ほとんど質問しつもんする人はなかった。外国人の講師こうしだと、不思議がる。どうして、日本人は質問しつもんをしないのだろう。全部賛成さんせいなのか。それともすべてを無視むししているのか、わからない。手ごたえがなくて不気味だ、と言う。馬の耳では質問しつもんしたくてもできないのだということを彼等かれら了解りょうかいしない。われわれ自身もわかっていない。
 先日、あるところで、日本人の耳は悪いという話をしたら、あとでそんなことがあるものか、と反論はんろんされた。病気にも自覚症状しょうじょうがあるうちは軽いが、本当に重症じゅうしょうになると自分の悪いことがわからなくなってしまうことがある。
 「馬耳しょう」という病気も、自覚症状しょうじょうがないところを見ると、膏盲こうこうったと考えなくてはなるまい。集団しゅうだん的にかかっている慢性まんせい病で、ひょっとすると、死ななくては治らないかもしれない。
 それでも、このごろの講演こうえんではあとに質問しつもんする人がふえた。やっと日本も外国なみになってきたかと喜んでいる人があるが、それはすこし早合点ではなかろうか。
 その質問しつもんというのが、実ににもつかぬささいなことばのあげ足とりであることが多い。講師こうしがちょっとはさんだことばをとりあげて、その使い方に異論いろんをさしはさむ。講師こうしがそれに答えるのだが、お互い たが の頭にある考えがまるで違っちが ており、自分の考えだけが正しいと思っているから、質疑しつぎ応答おうとうをくりかえしていると、ますま
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すこんがらがってしまう。すると、別の質問しつもん者が立ち上って、第一の質問しつもん者の言ったことの尻尾しっぽをつかまえて問題にする。それがまた第三の質問しつもん者を誘発ゆうはつする。
 もとの話を全体として把握はあくしていないから、どんどん枝葉えだは末節へ話が散ってしまう。もう何の話をしているのかわからない。それでもあとで司会者は、活発な質疑しつぎがおこなわれて、と言う。冗談じょうだんではない。馬の耳にはまとまったことを理解りかいすることができない。わかるのはせいぜいニンジンの葉っぱくらいである。(中略)
 相手の言うことをじっくりよくきくという訓練ができていない。都合のいいところだけをこまぎれにきいて、それをつなぎあわせて相手が言ったことにしてしまう。ことに立場の違うちが 人間同士のときにはこの傾向けいこうがつよい。ときとしては、意識いしき的に馬耳東風をきめこむ。
 ひところ、対話をしよう、討論とうろんをしよう、と言われたことがある。集まってカンカンガクガクのろんをかわす。いかにも活発な意見の交換こうかんがあったようだが、要するに、自分の言いたいことを勝手に言い合うだけである。
 相手の言い分など、はじめから問題にしていない。だから話し合えば合うほど、感情かんじょう的になって、まとまる話もこわれてしまう。そのせいだろうか。このごろは、かつてのように対話や討論とうろんが必要だとは言われなくなった。
 ときに「きき上手」といわれる人もないではないが、これは耳がよくて、他人の意見をよく理解りかいするということではないようだ。うまく受け答えして、相手に十分話させることの意味である。
 意見が対立するとき、相手の言い分を誤りあやま なく理解りかいするという意味での「きき上手」というのには、ことばすらない。ことだまのさきおう国が、どうしてこういうことになったのか。

外山滋比古とやましげひこ「ことばの作法」より)
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a 長文 12.2週 nu2
 電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの携帯けいたい電話、お化粧けしょうつめ切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
 「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
 これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。ウォークマンの音もれ以外にも現象げんしょうはいろいろある。
 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
 狭いせま エレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
 たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
 寿司すし屋の職人しょくにんが、あいまにたばこを吸いす ながらすしをにぎっており、床屋とこやのおじさんは、剃刀かみそり片手かたてにテレビを見ている。
 いつかタクシーのなかの株式かぶしき情報じょうほうが耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
 謝恩しゃおん卒業パーティーなどで、先生方などまったく無視むしして、ごちそうの前にはりついている盛装せいそうの学生も少なくない。
 これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「迷惑めいわくはかけていないつもり」のしぐさの例である。
 人に迷惑めいわくをかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。これらすべての例において、多くのひと、とくに独身どくしん貴族きぞくといわれる人びとは、だれか特定の相手に直接ちょくせつには「迷惑めいわくをかけていない」つもりでいるのであろう。
 しかし、およそ、ひとに迷惑めいわくをかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ程度ていどの生き方である。これに対して、
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だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい違うちが 生き方であり、プラスとマイナスの違いちが があるのであり、両者は決して同じことではない。
 わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ掃除そうじをする人はちがう。吸いがらす   を駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
 もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と権利けんりがわれわれにはある。しかし、自分の選択せんたくで、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい診療しんりょう所の待合室では、あえてたばこを吸わす ないのは、その人のやさしさであろう。むかし、田舎いなかでは、秋のかきの木の実をわざといくつか残しておいて、からすなどに食べさせることにしていた。(中略)
 たしかに公衆こうしゅう道徳どうとくは低下した。ひとには迷惑めいわくはかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
 しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極せいであろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
 いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
 まじめな自分主義しゅぎ超えこ て、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。

(小原信「シングル・ルームの生き方」より)
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a 長文 12.3週 nu2
 「自分」というものに「気がついた」感じになった日のことは、くっきり覚えている。十さいのある日だ。前後の記憶きおくはなく、その瞬間しゅんかん情景じょうけいだけが――日差しや風の吹きふ 具合なども含めふく て―― 一まいの絵はがきのように心に残っている。
 学校の昼休みだった。教室のはずれに廊下ろうかから校庭におりる五、六だん階段かいだんがあり、わたしはそこに一人で坐っすわ ていた。
 よく晴れた日で、おでこのあたりが、ぽかぽか暖かいあたた  食後で、お腹 なかもちょうどよく満ち足りており、階段かいだんの木目のはだざわりも心地よい。いつもなら友だちと、わいわいガヤガヤやっている時間なのだが、その日はなぜか一人だった。
 校庭で遊んでいる友だちの姿すがたを目で追いながら、「ひとりでいる」ことにも満足している。(みんな元気にやっているな、よしよし)と、すこし、オトナになったような感じとでもいったらいいだろうか。
 そんな、ひなたぼっこの気分でぼんやりしているときだった。
 (あれ? あれあれ? こりゃなんだ?)
 いままで感じたことのないようなヘンな気分が、わき出てくるではないか。あたりの喧騒けんそうが、すーっと遠のき、シンとしてしまった。友だちの姿すがた確かたし にあそこにあるのに現実げんじつ感がない。豆つぶのようにチラチラしているだけだ。
 (なんだなんだ、いったいどうなっちゃったのだ!)
 外側は、くつろいだ姿勢しせいのまま、心の中は驚いおどろ てあわてふためいている。心臓しんぞうがドキドキして大騒動そうどうだ。なにがなんだか判らわか ず、じっと凍っこお たままでいるうちに、まるで自分の中の何かが一まいはがれたように、(あ、そうか!)と感じた。わたしというのは、わたし一人しかいないんだ。
 書いてみれば身もフタもない。が、なんとも奇妙きみょうな「了解りょうかい」があった。ややこしくなるのを恐れおそ ずに、そのときの気分を、ずらずら述べの てみると……
 (わたしのことを「わたし」と感じることが出来るのは、このわたししかいない。今まで、どれだけ沢山たくさんのいきものが生まれ、死
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んでいったか。これから、どれだけ沢山たくさんのいきものが生まれ、死んでいくか。
 いきものという大河たいがが、太古と未来を貫いつらぬ て、ごうごうと流れており、本日ただいまも――こうして、わたしが学校の階段かいだん坐っすわ ているこの時も――世界中に数知れないいきものが、満ちており、わたしはその中の、ほんとにちっぽけな存在そんざいだ。
 しかし、しかしである。ちっぽけではあるが、この、ここにいる直子を「わたし」と思えるのは、わたしだけじゃないか。この直子を「わたし」と思える、という事態じたいは大昔まで遡っさかのぼ ても、いちどもなかったし、今後どれだけいきものの歴史が続こうとも、もう二度とない。
 つまり、「直子=わたし」という状態じょうたいは、この世では「まったくく初めて」の出来事なのだ! 「じつに特別」なことなのだ! こりゃすごい)というわけである。いわゆる「自己じこの発見」的な芽が出たときだったらしい。
 その後しばしば、あの瞬間しゅんかんを思いだした。そして、直子という「にんげん」が、ほかならぬ「わたし」であることを不思議に思ったり、「わたし」を無視むしするかのように、直子という「にんげん」が沢山たくさん登場し、勝手に振る舞っふ ま て(と思えて)、ヤキモキしたりはらを立てたりした。(こんな直子は「わたし」じゃない)と。
 そのヤキモキ状態じょうたいが極まったのが十代だった気がする。――そう、これも十代の特徴とくちょうなのだろう。つまりは、直子と「わたし」のバランスがうまくとれないことだったようだ。

工藤くどう直子「出会いと物語」より)(原作を一部手直ししてあります)
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a 長文 12.4週 nu2
 一番わかりやすいのは、スズメバチとくまの関係である。スズメバチにとってくま天敵てんてきだ。せっかく築いきず た巣を壊しこわ 、中の蜂蜜はちみつやら幼虫ようちゅうを台無しにしてしまう。スズメバチ自体は、強力な社会せいと毒による攻撃こうげき力をもっているため、実質じっしつ的な天敵てんてきくま以外には見当たらない。巣を破壊はかいするといった無謀むぼうな行動を起こすのはくまくらいのものだ。スズメバチとその唯一ゆいいつ天敵てんてきであるくまとの攻防こうぼうは、おそらく何十万年以上ものあいだ続いているため、スズメバチはくまのような黒っぽい体色に対しては、攻撃こうげきをしかける習性しゅうせい選択せんたくされたらしい。山菜採りと に行った黒っぽい服装ふくそうの人や頭の黒い人間がスズメバチに襲わおそ れるのは、その習性しゅうせいのためというのがもっぱらの説だ。造成ぞうせい地では人間がブルドーザーでスズメバチの巣を破壊はかいしているが、せいぜいこの四〇〜五〇年のことだ。スズメバチがブルドーザーを目掛けめが 攻撃こうげきするといった習性しゅうせい獲得かくとくするには、何万年もの時間が必要であるに違いちが ない。
 スズメバチとくまの例を見て「異種いしゅの動物のコミュニケーションにおいて色に意味がある」と気づいたのは、人間がくまと見誤らあやま れて実際じっさい襲わおそ れているからである。もしそうでなければ、そのような関係せいにはまったく気がつかなかったかもしれない。仮にかり スズメバチがくま攻撃こうげきしているのを目撃もくげきしても、スズメバチの巣を壊しこわ くま襲わおそ れているのだろうとしか見えないだろう。スズメバチが人間を襲うおそ といった、本来の行動とは違うちが 誤っあやま た行動をかいま見せることにより、われわれはその特殊とくしゅな関係せいにはじめて気づかされる。
 おそらく、この広い地球上には生物種同士の攻防こうぼうに「色が重要な意味をもつ」例が山ほどあるに違いちが ない。ただ、人間がそのような局地紛争ふんそうには気がついていないだけだ。色のもつ意味は、動物のライフスタイルによってまったく異なること  可能かのうせいがある。この点については、残念ながらわれわれはどのような工夫をしても、その実
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体を知るのは難しいむずか  だろう。
 一方、スズメバチにとってのくまの体色のような特別な関係を意味する色とは異なりこと  警戒色けいかいしょくや目玉模様もようはかなり普遍ふへん的な信号として、広範こうはんに使われているものと推測すいそくされる。ただし、その信号を受信する側が、本能ほんのう的にそれを避けるさ  のか、学習によって学んでいるのかは、ケース・バイ・ケースの(場合による)ように思われる。有毒なジャコウアゲハは真っ黒なつばさに赤いスポットを見せびらかすかのごとくゆっくりと飛ぶ。天敵てんてきである鳥は、いとも簡単かんたん捕まえつか  て食べることができるが、そのまずさに懲りこ て二度とこのような紋様もんようをしたチョウを食べなくなる。つまり、味と紋様もんようという二つの形質けいしつを学習によって結びつけるという過程かていて、警戒色けいかいしょくは成立している。この場合、死なない程度ていどの毒だからこそ、経験けいけんが生かされ学習が成立している。では警戒色けいかいしょくのすべてがこのような学習によって成立しているのだろうか? もし、そうだとするならば、警戒色けいかいしょくや目玉模様もようは、学習能力のうりょくある程度  ていど高い捕食ほしょく者、脊椎動物せきついどうぶつ、つまり、哺乳類ほにゅうるい、鳥、爬虫類はちゅうるい、両生類、魚類などに向けたシグナルなのだろう。
 しかし、強力な毒をもつ有毒のへびが見せる警戒色けいかいしょくなどは、捕食ほしょく者に学習する余裕よゆうはない。かまれてしまったら一かんの終わりだ。ひょっとしたら、捕食ほしょく者は本能ほんのう的にへび避けるさ  ように遺伝子いでんしに書きこまれている場合もあるかもしれない。食者の警戒色けいかいしょく痛いいた 目にあわないとわからないシグナルなのか? 遺伝子いでんしの中に刷りこまれている記憶きおくなのか? わたしへびぎらいである理由や記憶きおくをたどってみてもよくわからない。

 (藤原ふじわら晴彦はるひこ似せに てだます擬態ぎたいの不思議な世界』(化学同人))
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