長文 10.1週
1. 【1】英語の「コンピュータ」を無理矢理日本語にすると、「電子計算機」ということになるだろう。しかし今どき「コンピュータ」で
単純な計算だけしている人はあまり
居ない。「コンピュータ」とは、計算はもちろんのこと、さまざまな
情報を入れたり出したり
保存したり整理したりするものだ。【2】フランス語の
造語である「
ordinateur」とは、英語の「orderオーダー」と同じく、「命令、指図する」とか「
順序、順番」「整理、
整頓」「注文」といったような意味合いになる。【3】これこそ「コンピュータ」を意味する言葉として
最適ではないか。その
証拠にスペインでも英語の「コンピュータ」という単語は使わず、フランスの「オーディナトゥール」に
似た
綴りの「
ordenador」という単語を使っている。
2. 【4】このように、
現代の日本でも、英語をそのまま
安易にカタカナ語にして使用するのではなく、ちゃんと意味が分かるような日本
独自の
造語を作ればいいのだ。そして外国語の仕入れ先として、米国だけに
頼ってしまっていては
駄目だ。【5】世界中の言葉を見回して、単語の意味を
吟味する。その中で、一番よいと思われる外国語を参考にして日本語の
造語を作るようにしなければならない。
3.
過去に
遡れば、日本でも
明治維新の
頃には外国語に対する日本語の
造語が数多く作られていたのだ。
4. 【6】
政治でも
経済でも学問でも、世界から
遅れをとっていた日本は、
国際化に向けてさまざまな努力をした。その
一環として、まずは外国語を日本語に
変換する作業を始めたのだ。考えに考えて、日本ならではの言葉を作った。【7】その良い例が「
経済」や「
経営」などといった単語だ。これらは日本で作られた単語だが、今では漢字の本場である中国に
逆輸入され、中国でも
普通に使われるようになった。
僕の
専門分野である数学に関する中国での
専門用語も、日本人が考えて作ったものが多いのである。
5. 【8】こうしてざっと調べるだけでも、明治時代には
最先端の
技術や∵科学、医学などが
輸入されると同時に、それに
伴う日本語の考案にも
尽力していたということが分かる。それらの言葉は、決して
安易なカタカナ語のようなものではなかった。【9】だからこそ、当時日本で作られた言葉の大多数が、今の中国でも使われるほどになったのだ。
6. ところがその後、言葉を作る努力を
怠り、ついには完全に
放棄してしまった。
僕が思うには、それは戦前の
頃からだろう。【0】医学の世界ではドイツ語を使うために、医者は「カルテ」や「メス」などという言葉を使うようになった。それが、医学界だけではなく広く
一般に流通し、やがてカタカナ語として定着してしまったのだ。
7. これだけカタカナ語が
氾濫している
現代だからこそ、
明治維新の
頃の日本に
戻り、日本語の大
掃除をすれば面白いと思う。今のカタカナ語の半分でも日本語に作り直す。
定義作業に関しては多くの
専門家などに意見を聞き、
造語の
候補をいくつも出してもらう。その大本として、国語
審議会が大いに働けばよいのである。
8. 日本人の固有の発想で新しく言葉を作る。これはとても
素晴らしいことだと思うのだが、
皆さんはどう思われるだろうか。
9. (ピーター フランクル『美しくて面白い日本語』(
宝島社)より)
長文 10.2週
1. 【1】そのつもりになって
神経を集中、注意すれば、われわれの
能力は
大幅にアップする。たとえば、
騒音のひどい電車の中で会話をしている二人がいるとする。聞きづらいにしても、なんとか
互いに言っていることがわかる。【2】ところがこれをテープレコーダーで録音して聞いてみると、全体が
雑音でぬりつぶされてしまい、なにを言っているのか、まるでわからない。
2. 【3】機械は正直に音をとらえているのだが、それではわからない声を話している当人たちは聞きとっている。必要な音だけを選んで、不必要な音をすてて聞きとっていることがわかる。【4】機械はただ聞いているにすぎないが、人間は注意して、大事な音だけをとらえるからこういう
違いが出る。同じ人間でも、当人ではなく、そばで立ち聞きしている人には、テープレコーダーほどではないにしても、聞きとれないところがずいぶんあるにちがいない。
3. 【5】こどもが重い病気にかかって、その母親がつきっきりで
看病している。連日の
寝不足で、母親は、ときどきまどろむ。そんなとき、台所でものが落ちて大きな音がしても、母親の目は覚めることはない。【6】ところが、目の前の病児が、なにか小さな声でうわごとのようなことでも言うと、母親はハッとわれにかえり
子供の顔をのぞく。
4. 【7】
看病する母親にとって、台所の物音など問題ではないから、いくら大きな音がしても、目を覚ましたりはしない。それが気にかけているこどもだと、ほんの小さな声でも聞きもらすことがない。【8】心を向けているところにはたいへん
鋭敏な
神経がはたらくのである。
5. 「気をつけ」という号令をかける。これは、注意力を集中させ、力を
発揮するようにということである。【9】
体操などでは「気をつけ」によって、もっている
能力を高めることができる。ぼんやり、注意
散漫にしていては、なにもできない。
6. スポーツですばらしい力をだすのは、集中しているからである。【0】集中が持続できなくて、
崩れると、それまででは考えられないようなミスが出たりして、試合ならたちまち負けてしまう。スポーツで勝つには、何としても、始終集中を
維持する必要があるのであ∵る。スポーツの選手はこのことを
経験でよく知っている。集中できないで、強くなったり、試合に勝つことはできない。
7. 勉強のよくできる生徒が、スポーツでも
優秀な
成績をおさめることがあるのは、勉強を通じて体得した集中力をスポーツでも
発揮するからである。
逆にまた、スポーツで養った集中力を勉強に生かせば短い時間で
効率のよい学習ができる。
文武両道といわれるのは、こうした集中力を頭の活動にも、体の活動にも、うまく使っているケースのことである。
8. ところで、この集中力を持続するのはなかなか
容易なことではない。それが
可能になるには、訓練が必要である。
9. 「陸上
競技の四百メートル走で、全部を
短距離のように
疾走することは
難しい。それで四百メートルは
中距離ということになっていた。かつてソ連で、これを
短距離なみに、始めから終わりまで全力を出し切って走る方法を考案、実地に試みて成功した。その結果、四百メートルは
短距離なみに走ることができるようになったのである。
10. どうして、それが
可能になったのか。まず四百メートルを百メートルずつ四つに区分し、それぞれを十メートルと九十メートルに分ける。そして十メートルを全力
疾走、九十メートルは力を
抜いて走る。これを四回くりかえすと、四百メートルになる。それに
慣れたら、二十メートルと八十メートルにして、同じく全力
疾走と力を
抜いた走り方をする。次は、三十メートルと七十メートル、さらに四十メートルと六十メートルにし、やがて全力
疾走九十メートル、流す走り十メートルにし、ついには九十九メートル、百メートルの全力
疾走にこぎつける。こうすれば四百メートルすべてが、
短距離と同じような走り方ができるようになる。すこしずつ集中持続をのばしていく方法である。」
11. 勉強における集中持続も
似たような具合にのばすことができる。
12. 大体、三十分くらいの集中
継続なら、一カ月もすればできるようになるであろう。
欲を言えば、もうすこしのばして一時間くらいに∵したい。それができるようになればしめたものである。
13. 集中しているかどうかは、メトロノームのような音を出すものをそばにおいてしらべる。その音が気になるようなら、注意が集中してない
証拠である。
没頭、
夢中になれば
雑音など気にならなくなる。
14. 勉強はどれくらい長い時間、
机に向かっているかではなく、どれだけ集中しているかによって成果がきまってくる。だらだらした長時間勉強など、そもそも勉強の中に入らない、と言ってもよいくらいである。
15.(
外山滋比古「ちょっとした勉強のコツ」より)
長文 10.3週
1. 【1】中学生の
悩みで、一番多いのは友人についてだという。ぼくなんか、それを聞くと、青春をなつかしんで、うらやましくなってしまう。
2. 心がすっかり通じあった、なんでも語りあえる友、というのはいいものだ。【2】だれもいっとき、それを
夢みる。
3. しかし、本当のところは、そんなものはないと思う。
4. 心が本当に通じあったら、気味が悪い。人間と人間とは、どんなに通じあっているようでも、いくらかは
すれ違う。【3】それが、他人の間の自分というものだ。他人とは、自分と
違う心を持ち、自分と
微妙に心が
すれ違うので、自分にとって意味を持つ。
5. 【4】そうした
すれ違いから、人間と人間のドラマが生まれる。そうした
すれ違いから、新しい発想が生まれ、
議論が
創造へと
発展する。だれひとりとして同じ心を持たない、この人間たちの意味はそこにある。
6. 【5】また、なんでも話しあえる、というのも
嘘だろう。
嘘でないとしても、そんなになんでも話してしまっては、自分がなくなってしまう。自分だけのために、なにがしかは心の底にとっておくものだ。【6】それが自分の心の重荷になろうとも、それを
支えるのが、自分というものである。
7. こうしたことを
無視して、友人と考えていては、
裏切られて当然だと思う。それに、あんまりベッタリした友人関係は、長持ちしないものだ。
8. (
中略)
9. 【7】本来は、友人というのは、それぞれに自分の心をとっておきながら、ふれあいのなかでいたわりあうものだろう。それは、完全には重ならず、完全には通じあわぬ、
断念の上で成立する。
10. 【8】しかし、きみたちにしても、そんなことは、無自覚にしろ、
承知の上のことかもしれぬ。自分と他人がそれぞれに
確立したうえでおたがいに関係をとり結ぶこと、そうしたことへの一種のおそれが、友人についての
夢を持たしているのかもしれぬ。
11. 【9】それは、ぼくにも多少はおぼえがある。自分が他人と
違う自分になっていくこと、他人を自分と
違う人格と
意識していくこと、そ∵うした
過程の反動として、自分と一体化した他人として、友という
幻影を求める。【0】それが、青春の一時期であるにしても、そうした
幻影を持てればしあわせである。
12. ただし、
幻影はやはり
幻影である。そして、友人が持てないというのは、
幻影が持てないというだけのことで、友人ができないと
悩むほどのこともあるまい。
13. そしてやがて、自分とは
違った心を持った他人との、友人関係が作られていくと思う。そのとき、きみはだれでもないきみ自身の心を持ち、そして友人もまた
彼自身の心を持つことを、たがいに
認めあうだろう。
彼は、きみと
違っていて、心が
すれ違うからこそ、友人となる。
14. 自分と
似た人間を求めて、友人を作るというのを、ぼくはあまりすすめない。たしかに、自分と
似ているだけに、つきあいやすい。しかし、あきやすかったり、はなにつきやすいのも、自分と
似た相手だ。
15. なるべくなら、どんなグループにあっても、そしてそのグループの人間が自分と
似ていなくても、そのなかでこそ、友人ができたほうがよい。そこで、自分に
似た相手を
探しても、見つからないだろう。
16. 自分と
性格が
違い、自分とものの考え方の
違う相手のほうが、友人としてはおもしろい。
違う考えをしたり、意見がくい
違うからこそ、関係をとり結ぶ意味があるのだ。
似た相手より、
似ない相手を
探してみたらどうだろう。それなら、友人になれる相手は、いくらでもいる。
17.
似たもの同士が
群れあうのは、ぼくはむしろつまらなく思う。
違和感を持つグループのなかでこそ、友は必要なのだ。
18. それは、自分の
人格を
確立し他人の
人格を
認めるようになることでもある。自分と
違った心を持った他人の
価値を知ることである。他人の心を大事にできるためには、自分の心を大事にできなければ∵ならないが、そうしたなかで友は作れる。
19. でも、青春、自分が
確立していくなかで、友を求めて
悩むのは自然なことだ。そうした
悩みは、青春にはあってよいと思う。少なくとも、友ができないと
断念して、自分の
殻にこもったりはしないことだ。求めることなく、
殼にこもったりしていては、その自分が作られることもない。自分というものは、こうした
過程を通じてだけ作られるもので、自分の
殻のなかで自分を作るわけにはいかない。人間というものは、さなぎの中にあって
蝶になるものではない。
20.(森
毅「まちがったっていいじゃないか」より)
長文 10.4週
1. 【1】音楽に
限らず文化というものは、共有
財産として
皆が自由に使える形で
常に身の回りにあってこそ
発展するという面をもつ。【2】モーツァルトの音楽を
聴くと牛の
乳の出が良くなるとか、良い子が育つというような話が本当かどうかはともかくとして、音楽がコンサートの場だけでなく、様々な社会的局面で人間を育み、文化を
涵養してゆく
機能を果たすことを考えれば、それらが自由に使えるということは重要なことである。【3】少なくとも、モーツァルトの音楽を使うたびに
著作権料を取られていたのでは、そのような文化の広がりが望めないばかりか、音楽の
創作活動自体も
窒息してしまうだろう。
2. 【4】アフリカ
諸国などでは、自国の音楽文化が西洋の音楽家にリソースとして勝手に使われることに
対抗し、西洋の
著作権の考え方を
導入したことがかえって地元の人々の音楽活動を
抑制する結果になってしまったりもしたようだ。【5】それらの
地域には、
皆が共通に使えるメロディなどの
素材を共有
財産としてストックし、使い回すことによって新しい音楽づくりをしてゆく文化があった。西洋の
搾取をおそれるあまり、
彼らの
日常そのものが
変質し、
窒息させられてしまったのである。
3. 【6】アフリカだけの問題ではない。西洋の近代文化は、作者
個人の
独創性をことさら
重視する文化には
違いないが、それが「文化」である
限り、その
独創性は決して作者一人のものではありえない。【7】バッハやモーツァルトなど、多くの先達たちの残した「
遺産」に取り囲まれ、それらを
模倣したり
換骨奪胎したりして
摂取する一方で、それらと
対峙しのりこえることを通して、音楽文化は育まれてきた。
4. 【8】「
保護」して勝手に使わせないようにするだけでは文化は育たない。それらを共有
財産として
皆で分かち合い、
余すところなく使い回すための公共の場が
確保されていることは、文化を生み出す
土壌には
不可欠なのである。【9】
著作物の
保護年限がどんどん
延ばさ∵れてゆく今日の
風潮の中で、
著者の「
権利」に目を
奪われるあまり、文化のそういう側面が
忘れられてはいまいか。
5. 【0】
個人情報保護もそうだが、文化は社会全体で育ててゆくものだという
視点を失い、
個人の
権利だけが
暴走するのはこわいことだ。
著作権という考え方自体、決して
一枚岩的に成立したわけではなく、
芸術の社会的位置や文化産業のあり方の変化の中で、西洋社会が
皆で工夫を加えながら育んできたものだ。西洋社会がこのような考え方をなぜ必要とするにいたったか、それが日本の社会に何をもたらし、何を失わせたのか、そういうことをあらためて
認識しなおすことが今求められている。
6. (
渡辺裕『考える耳』(春秋社))
長文 11.1週
1. 【1】
粗大ゴミのゴミ
捨て場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい
捨ててある。それは
環境を
汚染するわけです。そんなことならばもうちょっと高くても
品質のいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども
捨てなくていい。【2】そうすればゴミ
捨て場もそれだけよけいな
負担を
背負わずにすむわけです。けれども、日本人は使っては
捨て、使っては
捨てという生活に
疑問を持っていません。
2. 【3】何年も
寸法ひとつ
狂わずに、引き出しも
扉もピッタリとしている家具への愛着は、毎日の
暮らし、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に
耐えるものをつくった人の
腕前に対する
尊敬でもあるわけです。
3. 【4】たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブク(あわ)のように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、
尊敬されているでしょう。いつまでも
本棚に置いておきたいと思うでしょう。【5】そこから得たものは、それぞれの
人格の中に深くはいりこんで、読者の人間を
豊かにしたでしょう。すぐに
忘れ去る一過性のよみものとは、
違うものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
4. 【6】一方で
使い捨ての安物を買っていると思えば、他方では五万円もするような
化粧品のクリームも売れている。その
原価は五分の一以下と言われているのに、
独占によるチェーンストアヘの
支配が強くて、ほんとうの市場
価格まで下がりません。【7】公正取引委員会が
外圧(外部の力)によって、やっと重い
腰を上げ、最近、一、二の小売店で
値崩れを起こしています。
私たちは
幻に対しておカネを
払っていたのです。
5. 家の中には、
誰も
弾かないピアノやオルガンもあれば、テレビもあります。【8】ビデオデッキも、CDプレイヤーもあります。
地震があれば
押しつぶされるのはあたりまえだというくらい、いろいろな∵ものが置いてある。ほんとうの安全には
手抜きをした家の中に、そして安全を
手抜きした町づくりの中に、変なぜいたくがあるのです。こういう
豊かさはおかしいのではないかとおもいます。
6. 【9】では、ほんとうの
豊かさ、なんとなく
豊かな気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の
酋長が書いた本です。【0】その中で、こういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ。ひとつに
統一された満足感が必要だ。そういう生活が、人間として幸せで
豊かな生活なんだと言っている。
7. 頭だけあるいは手だけを
酷使して、ほかのところを
顧みないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつになって幸せになることが
豊かなのだと言っているのです。一部分だけが満足している
状態は、病気だと言っているのです。
8. 同じことは教育の中にもあります。教育は全
人格的
発展、人間としての成長を
促すものですが、
現在、日本の教育は
偏差値の点をとる教育になっています。だから人間の子として楽しくないのです。
9. また、日本は労働時間が
非常に長い。残業をすれば手当てももらえます。お金だけ、あるいは
企業の中で出世することだけを考えれば、頭と
職業に必要な手、目だけを働かせて「
職業バカ」になることもできる。それが日本では大変いいことだと考えられている。あの人は会社のために
妻も子も
忘れ、一身を
捧げて、ただただ会社のために
尽くしてきた。
企業にとってはいい社員であるのですが、そういうのは
豊かではないと『パパラギ』は言っている。
10. つまり、会社人間はある
専門的なことについてはベテランになっ∵ていくし、お金も
儲けるかもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一
冊も読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、
地域社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく
豊かではありません。それは人間としての生活ではないからです。
11.(
暉峻淑子「ほんとうの
豊かさとは」より)
長文 11.2週
1. 【1】
杉の木は
樹幹がまっすぐで、気持ちがいい。見ているだけで、
私の心はいつもすがすがしくなる。
枝打ちや
間伐など、手入れをする人の労苦も
尊い。
2. 黒々とした大地に深く根を
張り、大空高くへと曲がりもくねりもせずに
伸びている
幹。【2】たてに
筋の入った
褐色の
肌に目を当てると、自然に上へ上へとひきあげられていく。もっこりと
茂る緑は、松や
落葉松よりずっと
厚味があって目を包んで休ませてくれ、さらにはるかに高い
梢は、さわやかな風を
呼んでいる。【3】年
若い杉の木の
梢は、先のとがった
円錐形だが、風雪に
耐えて何百年も生きてきた老大木の
梢はもうとがってはおらず、
樹冠がおだやかにまあるくなっている。それは
威厳のある古老がふと
洩らす微笑のようだ。
3. 【4】
樹幹の
肌の色がいい。
幅広くたてにすうっとはがすことのできる
樹皮は、
引っ張ってみると実に強くて
丈夫だから、古来、屋根を
葺いたり、
垣根に
張ったりした。
鋭い樹脂の
香りも、
胸の底まで清めてくれるような感じがする。【5】
檜ほどの
香気ではないけれども、
杉の
香りは
庶民的でいい。
4. ちょうどドイツ人や
北欧の人びとにとって、
樅の木が
宗教的なほどに大切で親しいものであるように、
私たち日本人の生活に
杉の木は切っても切れぬ
縁がある。【6】何よりも木の形が美しい。木材としての利用
価値が高い。日本各地でよく育つ。日本の
樹木のなかでいちばん
背が高くなり、ものによっては五十メートルにもなるし、いちばん長生きする木でもある。【7】
鹿児島県
屋久島の「
屋久杉」には、
樹齢二千〜六千年と
推定されるものが何本もある。だから京都をはじめ全国の神社やお寺の
境内には、必ずといっていいほどめでたい
杉の木が大事に植えられている。
5. 【8】わが国はどこに行っても
杉の木がある。かつては生えていなか∵った北海道の
札幌あたりにも
杉林がある。日本の
造林面積の半分近くは
杉の木だそうで、
檜や松や
落葉松などよりも、はるかに多い。【9】丸太のままでも板にしても、建材・土木材として、あるいは
酒樽や
経木や
割り箸などの生活用材としても何しろ利用
範囲が広い。単位面積当たりの生産量が
非常に大きく、育てるのもかなりやさしい。日本のように温帯で
降水量の多いところが
最適地なのだ。
杉は、日本の、日本らしい木である。
6. 【0】ただ、戦後のわが国では、何よりも
経済効率を考えなくてはならなくなって、木ではないと言われたブナ(ブナは漢字で木へんに無と書く)の木を、ブナ
退治と
称して
片端から
切り倒して、全国に
杉の木を植えた。森はいま
杉花粉でその仕返しをしているらしい。
7. かつて
杉は日本に固有の、日本にしかない木だと言われた。たしかに中国にいま植わっている
杉は日本から
苗や実を持っていって植えたものが多い。しかし四川省などには、葉の形などが少しちがう
杉の一種が自生しているという。いずれにしても、
針葉がまるで小さな
鎌のような形をしていて、
枝と葉のつながりぐあいがはっきりしていない日本
杉は、問題なく日本固有であるらしい。
8.
江戸時代にケンペルがドイツへ、シーボルトがオランダへ、
杉を持っていったけれども、年間
平均気温が低いうえ、
降水量が日本の半分から三分の一しかないヨーロッパでは、ついに育たなかった。だから
銀杏は
移植できたヨーロッパに
杉の木はない。代わりに寒さや
乾燥に強い
樅やトウヒがよく育っている。ただし日本の
杉は五十年で成木になるが、ドイツの
樅は百五十年かかる。
彼らが歴史を長いスパンで考えるのは、そういった自然
条件のせいだろう。日本各地の美しい
杉林は、秋田、
吉野、高知、立山、
天竜、
久万など林業者の労苦の結実だが、日光その他の古い
並木道も
忘れがたい。各地の山々の
尾根筋には松が多いが、山の下の水気の多いところには
杉がよく育つ。∵
9.
私の
瞼のうらにいつも
浮かぶのは、長野市の西方、
戸隠山の
怪奇な岩
壁の真下、
戸隠奥社への参道の老
杉並木だ。文字通り天をつかんばかりの堂々たる一本一本が何か神々しくもおごそかなたたずまいである。それでいて、その
肌に手を当てると、真冬でもなんとなくあたたかい。あの参道の
巨木のほとんどすべてに、
若い日の
私は手を当てて歩いた。近くまた行こうと思う。
10.(小塩節「木々を
渡る風」より)
長文 11.3週
1. 【1】わたしのところに、父親のすすめる学校に行くのはいやだから家出したいとか、高校の
娘が
化粧のことで注意したら、ろくに口もきかなくなったというような手紙がきている。こんな
状態を、世では親子の
断絶というのだろう。
2. 【2】なぜ、このような
断絶がくるのか。
断絶などという言葉をつかうと、事は
深刻に見えてくる。だが、ありきたりの言葉でいえば
お互いの「わがまま」なのだ。わたしは以上の話をきいて要するに「わがまま」な話だと思った。
3. 【3】「わがまま」というのは、身近なものの間にほど
現れる現象である。他人同士だと、相手の話をよく聞こうとする
姿勢があり、相手の身になって、相手を
傷つけないようにと心を配るが、親子や、兄弟、
夫婦などには、つい「わがまま」が出てしまう。
4. 【4】「わがまま」とは、何か。
我のまま、
我の思うままにふるまうこと、つまり、
自己中心的にふるまうことだ。この世のいざこざは、この
自己中心が
原因なのだ。
5. 【5】「
受容」という言葉がある。受け入れるという意味だが、
断絶、わがままは、相手を受け入れない
姿勢なのだ。
6. 親子にしろ、
夫婦にしろ、毎日生活して、同じ家に、同じ食べ物を食べて生きていると、つい相手を自分と同一の人間であるかのように
錯覚してしまう。特に親は子どもを、自分の
血肉をわけた者として、文字通り自分の分身だと思いこんでいる。
7. 【6】何の問題もない時は、自分に顔が
似ていたり、同じ食べ物が好きだったり、
似た
性格だったりする相手は、たしかに分身に思われ、一体感を感じさせる好ましい
存在なのだ。
8. 【7】だから、一朝、
恋愛問題や進学問題など、どうしてもはっきりとした
態度を取らねばならぬ
事態に直面し、意見が
異なると、たちまち、
お互いの
態度は
硬化する。
受容の
精神が欠けているのだ。だから、相手を
絶対に受け入れない。【8】「あんな女のどこがいい」∵「
断じて、この学校にはいる」「こんな話のわからぬ親はごめんだ」「親のいうことをきかぬわがまま者」と
お互いにゆずらぬことになる。
9. 【9】わたしたち人間には、教養、
性格にかかわりなく、自分と同じ考え、同じ思想になれないものはイカンという、ぬきがたい
感情がある。相手が自分と同じ考え方をしないと
憎む、というこの
感情は親子の場合も同じであろう。
10. 【0】これは、なぜか。一人一人は、顔のちがうようにまったくちがった
人格の持ち主だというこの
簡単な事実を
認めないからである。相手は自分ではないという自明のことがわかっていないからである。
11. さらにいえば、相手から見れば、自分もまたちがった人間であるということ、その自分を
認めてほしいように、相手も
認めてほしいのだということがわからないということなのだ。つまり、この世の一人一人はみんなちがった思想や考えを持って生きていることを、
認めたくないということなのだ。
12. というのは、みんな自分と同じ顔でないのはけしからん、といっているわからずやのようなものなのである。
13. では、なぜ、相手が自分と同じ考えの人間でなければならないのか。なぜ、わたしたちは、他の人を
認めないのか。よく考えてみよう。それは、自分は
絶対正しい人間だ、自分は最もよい人間だという考えを、
無意識のうちに心の
奥深くに根強く持っているからだ。そんなに、わたしたちは「正しい」だろうか、「よい人間」だろうか。
否である。
14. が、この世の
憲法は自分なのだ。カンニングした時に、
隣の友だちがカンニングしないとそれは、いやな
奴なのだ。
15. わたしたちにとって、話のわかる人間というのは、自分と同じ考えを持つ人間、自分のいうことを聞く人間なのだ。この世のすべての人が、自分と同じ考えになったら、どんなことになるか。
16. それは頭を冷やして考えてみたら、すぐわかることだ。「それほど自分は正しいのか」、自分という人間をよく
胸に手を当てて考え∵てみたら、わたしたちは、親子でも、きょうだいでも、
夫婦でも、友人でも、自分の考えを相手に
押しつけたり、
激しく拒否したりすることはなくなるはずなのだ。
17. この自分の
存在が
認められたいのなら、他の
存在をも
認め受容して生きていかねばならない。車でも、相手を
認めずに
突進したらどうなるか、大ケガや死を
招くだけである。
18.(
三浦綾子「あさっての風」より)
長文 11.4週
1. 【1】「意地」という日本語は、広い意味ではこころをさすが、こころのなかでも、自分の思ったことをやり通そうとする気持ちをあらわしているようである。したがって、意地は
意志といってもよかろう。
2. 【2】ところが、そのような
意志を、どういうわけか日本人はあまりこころよく思っていなかったようである。その
証拠に、意地という言葉はけっしていい意味に使われていない。【3】「意地が悪い」とはいうが、「意地がいい」とはいわないし、「意地がきたない」とはいっても、「意地がきれい」とは使わない。「意地になる」というのは、わざと人にさからうことだし、「意地を
張る」ような人間はけっして好まれない。【4】こう見てくると、日本人は意地を持てあましているとさえいえそうである。それはなぜなのであろうか。
3.(
中略)
4. では、「意地」と「
意志」とはどのようにちがうのか。【5】「自分の思うことを通そうとする心」(『
広辞苑』)という意味においては、たしかに「意地」は「
意志」と
同義のように思えるが、たとえば「男の意地」「女の意地」「
武士の意地」などというときの意地は、けっして
意志と同じではない。【6】こころみに「男の意地が立たない」といった
表現を「男の
意志が立たない」といいかえてみれば、それがよくわかる。「
意志が立たない」などという言葉はあまりきいたことがないが、あえてそれを
解釈すれば、「こころざしが立たぬ」、つまり、だらしがないということになるのだろう。【7】「男の意地が立たぬ」というのを、「オレはそんなだらしない男ではない」の意と
解することもできようが、「意地が立たぬ」は、もっとべつのニュアンスを持っているように思われる。【8】だから、これは外国語には
絶対に
翻訳できない日本的な
感情の
表現というしかない。
5. では、そのような「意地」とは何なのか。それにはやはり、「
意志」と
比較して考えてみるのがいちばんである。
6. 【9】まず第一に気付くのは、「
個人の
意志」とはいうけれども、「
個人の意地」とはいわないということだ。また、「男の意地」とは∵いうが、それを「男の
意志」とするとおかしなことになる。【0】ここから、「
意志」というものが、あくまで
個人のものであるのに対して――むろん、みんなの
意志ということもあるが、その場合でもそれは
個人の
意志の集まりであって、
意志の原点はあくまで
個人にある――「意地」とは
集団に共通したある種の表象、
個人の
意志から
独立したいわば「
公認された
意志」であることに気付く。つまり、「男の意地」というのは、男ならばとうぜん持たねばならぬ
気構えのことであり、それはけっして
個人的なものではなく、あくまで社会、あるいは特定の
集団に課せられているある種の
規範なのである。
7. だとすれば、「
意志」と「意地」のちがいは、
意志は
個人的なものであるが、意地は社会的・
集団的なものである。だからこそ、「男の意地」「女の意地」「
武士の意地」「ヤクザの意地」「
若者の意地」というふうに、意地はすべて
集団に
帰属するのだ。その「意地」を「
意志」という言葉におきかえると、まったく意味をなさないのは、
意志はあくまで
個人個人のものだからにほかならない。
8. (
中略)
9. 共通のイメージに自分を合わせる、らしくあろうとする――いずれにしても、それは
骨の折れることにちがいない。だから「意地を通す」ことは
窮屈になる。『
草枕』の主人公は、そのように自分の「
意志」からではなく、世間的な共通のイメージに合わせて「意地」を
張るのがホトホトいやになって、「
非人情」の天地を求め、山の中へ入って行った。
彼は「意地」を通すかわりに、自分の「
意志」をつらぬいたのである。
10. (森本
哲郎『日本語 表と
裏』(
新潮文庫)より)
長文 12.1週
1. 【1】馬耳東風、ということばがある。
2. 他人のことばや意見などを心に
留めないできき流すことを言う。馬の耳に
念仏。こういう人間には何を言ってもしかたがない。われわれはたいていのことをきき流しにしている。【2】大事なことでも、左の耳から入ったらそのまま右の耳から出て行ってしまう。とくに馬耳東風をきめこんでいるのではなくても、耳は馬の耳である。そして、馬はそのことをご
承知ないから、のんきなものだ。
3. 【3】学会などの研究発表では、たいていあとに
質問の時間がある。かつては、ほとんど
質問する人はなかった。外国人の
講師だと、不思議がる。どうして、日本人は
質問をしないのだろう。【4】全部
賛成なのか。それともすべてを
無視しているのか、わからない。手ごたえがなくて不気味だ、と言う。馬の耳では
質問したくてもできないのだということを
彼等は
了解しない。【5】われわれ自身もわかっていない。
4. 先日、あるところで、日本人の耳は悪いという話をしたら、あとでそんなことがあるものか、と
反論された。病気にも自覚
症状があるうちは軽いが、本当に
重症になると自分の悪いことがわからなくなってしまうことがある。
5. 【6】「馬耳
症」という病気も、自覚
症状がないところを見ると、
膏盲に
入ったと考えなくてはなるまい。
集団的にかかっている
慢性病で、ひょっとすると、死ななくては治らないかもしれない。
6. 【7】それでも、このごろの
講演ではあとに
質問する人がふえた。やっと日本も外国なみになってきたかと喜んでいる人があるが、それはすこし早合点ではなかろうか。
7. 【8】その
質問というのが、実に
愚にもつかぬささいなことばのあげ足とりであることが多い。
講師がちょっとはさんだことばをとりあげて、その使い方に
異論をさしはさむ。【9】
講師がそれに答えるのだが、
お互いの頭にある考えがまるで
違っており、自分の考えだけが正しいと思っているから、
質疑応答をくりかえしていると、ますま∵すこんがらがってしまう。【0】すると、別の
質問者が立ち上って、第一の
質問者の言ったことの
尻尾をつかまえて問題にする。それがまた第三の
質問者を
誘発する。
8. もとの話を全体として
把握していないから、どんどん
枝葉末節へ話が散ってしまう。もう何の話をしているのかわからない。それでもあとで司会者は、活発な
質疑がおこなわれて、と言う。
冗談ではない。馬の耳にはまとまったことを
理解することができない。わかるのはせいぜいニンジンの葉っぱくらいである。(中略)
9. 相手の言うことをじっくりよくきくという訓練ができていない。都合のいいところだけをこまぎれにきいて、それをつなぎあわせて相手が言ったことにしてしまう。ことに立場の
違う人間同士のときにはこの
傾向がつよい。ときとしては、
意識的に馬耳東風をきめこむ。
10. ひところ、対話をしよう、
討論をしよう、と言われたことがある。集まってカンカンガクガクの
論をかわす。いかにも活発な意見の
交換があったようだが、要するに、自分の言いたいことを勝手に言い合うだけである。
11. 相手の言い分など、はじめから問題にしていない。だから話し合えば合うほど、
感情的になって、まとまる話もこわれてしまう。そのせいだろうか。このごろは、かつてのように対話や
討論が必要だとは言われなくなった。
12. ときに「きき上手」といわれる人もないではないが、これは耳がよくて、他人の意見をよく
理解するということではないようだ。うまく受け答えして、相手に十分話させることの意味である。
13. 意見が対立するとき、相手の言い分を
誤りなく
理解するという意味での「きき上手」というのには、ことばすらない。ことだまのさきおう国が、どうしてこういうことになったのか。
14.(
外山滋比古「ことばの作法」より)
長文 12.2週
1. 【1】電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの
携帯電話、お
化粧、
爪切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
2. 【2】「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
3. これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。【3】ウォークマンの音もれ以外にも
似た
現象はいろいろある。
4. 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。【4】まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
5.
狭いエレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
6. 【5】たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
7.
寿司屋の
職人が、あいまにたばこを
吸いながらすしをにぎっており、
床屋のおじさんは、
剃刀を
片手にテレビを見ている。
8. 【6】いつかタクシーのなかの
株式情報が耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
9. 【7】
謝恩卒業パーティーなどで、先生方などまったく
無視して、ごちそうの前にはりついている
盛装の学生も少なくない。
10. これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「
迷惑はかけていないつもり」のしぐさの例である。
11. 【8】人に
迷惑をかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。【9】これらすべての例において、多くのひと、とくに
独身貴族といわれる人びとは、だれか特定の相手に
直接には「
迷惑をかけていない」つもりでいるのであろう。
12. 【0】しかし、およそ、ひとに
迷惑をかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ
程度の生き方である。これに対して、∵だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい
違う生き方であり、プラスとマイナスの
違いがあるのであり、両者は決して同じことではない。
13. わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ
掃除をする人はちがう。
吸いがらを駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
14. もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と
権利がわれわれにはある。しかし、自分の
選択で、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい
診療所の待合室では、あえてたばこを
吸わないのは、その人のやさしさであろう。むかし、
田舎では、秋の
柿の木の実をわざといくつか残しておいて、
烏などに食べさせることにしていた。(中略)
15. たしかに
公衆道徳は低下した。ひとには
迷惑はかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
16. しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極
性であろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
17. いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
18. まじめな自分
主義を
超えて、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。
19.(小原信「シングル・ルームの生き方」より)
長文 12.3週
1. 【1】「自分」というものに「気がついた」感じになった日のことは、くっきり覚えている。十
歳のある日だ。前後の
記憶はなく、その
瞬間の
情景だけが――日差しや風の
吹き具合なども
含めて―― 一
枚の絵はがきのように心に残っている。
2. 【2】学校の昼休みだった。教室のはずれに
廊下から校庭におりる五、六
段の
階段があり、わたしはそこに一人で
坐っていた。
3. よく晴れた日で、おでこのあたりが、ぽかぽか
暖かい。【3】食後で、
お腹もちょうどよく満ち足りており、
階段の木目の
肌ざわりも心地よい。いつもなら友だちと、わいわいガヤガヤやっている時間なのだが、その日はなぜか一人だった。
4. 【4】校庭で遊んでいる友だちの
姿を目で追いながら、「ひとりでいる」ことにも満足している。(みんな元気にやっているな、よしよし)と、すこし、オトナになったような感じとでもいったらいいだろうか。
5. 【5】そんな、ひなたぼっこの気分でぼんやりしているときだった。
6. (あれ? あれあれ? こりゃなんだ?)
7. いままで感じたことのないようなヘンな気分が、わき出てくるではないか。【6】あたりの
喧騒が、すーっと遠のき、シンとしてしまった。友だちの
姿は
確かにあそこにあるのに
現実感がない。豆つぶのようにチラチラしているだけだ。
8. (なんだなんだ、いったいどうなっちゃったのだ!)
9. 【7】外側は、くつろいだ
姿勢のまま、心の中は
驚いてあわてふためいている。
心臓がドキドキして大
騒動だ。なにがなんだか
判らず、じっと
凍ったままでいるうちに、まるで自分の中の何かが一
枚はがれたように、(あ、そうか!)と感じた。【8】わたしというのは、わたし一人しかいないんだ。
10. 書いてみれば身もフタもない。が、なんとも
奇妙な「
了解」があった。ややこしくなるのを
恐れずに、そのときの気分を、ずらずら
述べてみると……
11. 【9】(わたしのことを「わたし」と感じることが出来るのは、このわたししかいない。今まで、どれだけ
沢山のいきものが生まれ、死∵んでいったか。これから、どれだけ
沢山のいきものが生まれ、死んでいくか。
12. 【0】いきものという
大河が、太古と未来を
貫いて、ごうごうと流れており、本日ただいまも――こうして、わたしが学校の
階段に
坐っているこの時も――世界中に数知れないいきものが、満ちており、わたしはその中の、ほんとにちっぽけな
存在だ。
13. しかし、しかしである。ちっぽけではあるが、この、ここにいる直子を「わたし」と思えるのは、わたしだけじゃないか。この直子を「わたし」と思える、という
事態は大昔まで
遡っても、いちどもなかったし、今後どれだけいきものの歴史が続こうとも、もう二度とない。
14. つまり、「直子=わたし」という
状態は、この世では「まったくく初めて」の出来事なのだ! 「じつに特別」なことなのだ! こりゃすごい)というわけである。いわゆる「
自己の発見」的な芽が出たときだったらしい。
15. その後しばしば、あの
瞬間を思いだした。そして、直子という「にんげん」が、ほかならぬ「わたし」であることを不思議に思ったり、「わたし」を
無視するかのように、直子という「にんげん」が
沢山登場し、勝手に
振る舞って(と思えて)、ヤキモキしたり
腹を立てたりした。(こんな直子は「わたし」じゃない)と。
16. そのヤキモキ
状態が極まったのが十代だった気がする。――そう、これも十代の
特徴なのだろう。つまりは、直子と「わたし」のバランスがうまくとれないことだったようだ。
17.(
工藤直子「出会いと物語」より)(原作を一部手直ししてあります)
長文 12.4週
1. 【1】一番わかりやすいのは、スズメバチと
熊の関係である。スズメバチにとって
熊は
天敵だ。せっかく
築いた巣を
壊し、中の
蜂蜜やら
幼虫を台無しにしてしまう。【2】スズメバチ自体は、強力な社会
性と毒による
攻撃力をもっているため、
実質的な
天敵は
熊以外には見当たらない。巣を
破壊するといった
無謀な行動を起こすのは
熊くらいのものだ。【3】スズメバチとその
唯一の
天敵である
熊との
攻防は、おそらく何十万年以上ものあいだ続いているため、スズメバチは
熊のような黒っぽい体色に対しては、
攻撃をしかける
習性が
選択されたらしい。【4】山菜
採りに行った黒っぽい
服装の人や頭の黒い人間がスズメバチに
襲われるのは、その
習性のためというのがもっぱらの説だ。
造成地では人間がブルドーザーでスズメバチの巣を
破壊しているが、せいぜいこの四〇〜五〇年のことだ。【5】スズメバチがブルドーザーを
目掛けて
攻撃するといった
習性を
獲得するには、何万年もの時間が必要であるに
違いない。
2. 【6】スズメバチと
熊の例を見て「
異種の動物のコミュニケーションにおいて色に意味がある」と気づいたのは、人間が
熊と見
誤られて
実際に
襲われているからである。もしそうでなければ、そのような関係
性にはまったく気がつかなかったかもしれない。【7】
仮にスズメバチが
熊を
攻撃しているのを
目撃しても、スズメバチの巣を
壊した
熊が
襲われているのだろうとしか見えないだろう。【8】スズメバチが人間を
襲うといった、本来の行動とは
違う誤った行動をかいま見せることにより、われわれはその
特殊な関係
性にはじめて気づかされる。
3. 【9】おそらく、この広い地球上には生物種同士の
攻防に「色が重要な意味をもつ」例が山ほどあるに
違いない。ただ、人間がそのような局地
紛争には気がついていないだけだ。色のもつ意味は、動物のライフスタイルによってまったく
異なる可能性がある。【0】この点については、残念ながらわれわれはどのような工夫をしても、その実∵体を知るのは
難しいだろう。
4. 一方、スズメバチにとっての
熊の体色のような特別な関係を意味する色とは
異なり、
警戒色や目玉
模様はかなり
普遍的な信号として、
広範に使われているものと
推測される。ただし、その信号を受信する側が、
本能的にそれを
避けるのか、学習によって学んでいるのかは、ケース・バイ・ケースの(場合による)ように思われる。有毒なジャコウアゲハは真っ黒な
翅に赤いスポットを見せびらかすかのごとくゆっくりと飛ぶ。
天敵である鳥は、いとも
簡単に
捕まえて食べることができるが、そのまずさに
懲りて二度とこのような
紋様をしたチョウを食べなくなる。つまり、味と
紋様という二つの
形質を学習によって結びつけるという
過程を
経て、
警戒色は成立している。この場合、死なない
程度の毒だからこそ、
経験が生かされ学習が成立している。では
警戒色のすべてがこのような学習によって成立しているのだろうか? もし、そうだとするならば、
警戒色や目玉
模様は、学習
能力が
ある程度高い
捕食者、
脊椎動物、つまり、
哺乳類、鳥、
爬虫類、両生類、魚類などに向けたシグナルなのだろう。
5. しかし、強力な毒をもつ有毒の
蛇が見せる
警戒色などは、
捕食者に学習する
余裕はない。かまれてしまったら一
巻の終わりだ。ひょっとしたら、
捕食者は
本能的に
蛇を
避けるように
遺伝子に書きこまれている場合もあるかもしれない。
被食者の
警戒色は
痛い目にあわないとわからないシグナルなのか?
遺伝子の中に刷りこまれている
記憶なのか?
私が
蛇ぎらいである理由や
記憶をたどってみてもよくわからない。
6. (
藤原晴彦『
似せてだます
擬態の不思議な世界』(化学同人))