1. 【1】一番わかりやすいのは、スズメバチと
熊の関係である。スズメバチにとって
熊は
天敵だ。せっかく
築いた巣を
壊し、中の
蜂蜜やら
幼虫を台無しにしてしまう。【2】スズメバチ自体は、強力な社会
性と毒による
攻撃力をもっているため、
実質的な
天敵は
熊以外には見当たらない。巣を
破壊するといった
無謀な行動を起こすのは
熊くらいのものだ。【3】スズメバチとその
唯一の
天敵である
熊との
攻防は、おそらく何十万年以上ものあいだ続いているため、スズメバチは
熊のような黒っぽい体色に対しては、
攻撃をしかける
習性が
選択されたらしい。【4】山菜
採りに行った黒っぽい
服装の人や頭の黒い人間がスズメバチに
襲われるのは、その
習性のためというのがもっぱらの説だ。
造成地では人間がブルドーザーでスズメバチの巣を
破壊しているが、せいぜいこの四〇〜五〇年のことだ。【5】スズメバチがブルドーザーを
目掛けて
攻撃するといった
習性を
獲得するには、何万年もの時間が必要であるに
違いない。
2. 【6】スズメバチと
熊の例を見て「
異種の動物のコミュニケーションにおいて色に意味がある」と気づいたのは、人間が
熊と見
誤られて
実際に
襲われているからである。もしそうでなければ、そのような関係
性にはまったく気がつかなかったかもしれない。【7】
仮にスズメバチが
熊を
攻撃しているのを
目撃しても、スズメバチの巣を
壊した
熊が
襲われているのだろうとしか見えないだろう。【8】スズメバチが人間を
襲うといった、本来の行動とは
違う誤った行動をかいま見せることにより、われわれはその
特殊な関係
性にはじめて気づかされる。
3. 【9】おそらく、この広い地球上には生物種同士の
攻防に「色が重要な意味をもつ」例が山ほどあるに
違いない。ただ、人間がそのような局地
紛争には気がついていないだけだ。色のもつ意味は、動物のライフスタイルによってまったく
異なる可能性がある。【0】この点については、残念ながらわれわれはどのような工夫をしても、その実∵体を知るのは
難しいだろう。
4. 一方、スズメバチにとっての
熊の体色のような特別な関係を意味する色とは
異なり、
警戒色や目玉
模様はかなり
普遍的な信号として、
広範に使われているものと
推測される。ただし、その信号を受信する側が、
本能的にそれを
避けるのか、学習によって学んでいるのかは、ケース・バイ・ケースの(場合による)ように思われる。有毒なジャコウアゲハは真っ黒な
翅に赤いスポットを見せびらかすかのごとくゆっくりと飛ぶ。
天敵である鳥は、いとも
簡単に
捕まえて食べることができるが、そのまずさに
懲りて二度とこのような
紋様をしたチョウを食べなくなる。つまり、味と
紋様という二つの
形質を学習によって結びつけるという
過程を
経て、
警戒色は成立している。この場合、死なない
程度の毒だからこそ、
経験が生かされ学習が成立している。では
警戒色のすべてがこのような学習によって成立しているのだろうか? もし、そうだとするならば、
警戒色や目玉
模様は、学習
能力が
ある程度高い
捕食者、
脊椎動物、つまり、
哺乳類、鳥、
爬虫類、両生類、魚類などに向けたシグナルなのだろう。
5. しかし、強力な毒をもつ有毒の
蛇が見せる
警戒色などは、
捕食者に学習する
余裕はない。かまれてしまったら一
巻の終わりだ。ひょっとしたら、
捕食者は
本能的に
蛇を
避けるように
遺伝子に書きこまれている場合もあるかもしれない。
被食者の
警戒色は
痛い目にあわないとわからないシグナルなのか?
遺伝子の中に刷りこまれている
記憶なのか?
私が
蛇ぎらいである理由や
記憶をたどってみてもよくわからない。
6. (
藤原晴彦『
似せてだます
擬態の不思議な世界』(化学同人))